大河ファンタジー小説『月獅』64 第3幕:第15章「流転」(7)
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
第3幕「迷宮」
第15章「流転」(7)
上等の絹の長衣を脱いで質素な短衣の腰ひもを結び終えると、カイルは傍らに端座しているシキに目をやる。
「シキ、久しいな」
一月は新年の行事続きでカイルが忙しかった。三月に王宮を震撼させた星夜見があり、星夜見寮が慌ただしくなった。その後シキは『月世史伝』の解読に勤しんでいたため、藍宮へ足が遠のいていたのだ。
「息災であったか」
シキは無言でうなずく。
「その不遜な態度はなんじゃ。殿下が尋ねられておる。はきと答えよ」
ナユタがカイルの背後から鋭い声で注意する。
シキはびくっと肩を震わせ、瞳をあげた。
「じ…づ…れい…いだじ…まじ…だ」蝦蟇がつぶれたような、とぎれとぎれのダミ声が書斎の空気を擦った。
「声を失うたは、まことであったか」
カイルが目を剥き、シキの前に膝をつく。返事すらまともにできず、シキは唇を噛む。
「何があった?」
カイルはうなだれるシキの両腕に手を添え、ラザールに目を向ける。
「臣が愚かでございました」
いかなるときも表情の変わらぬ老臣の顔が苦渋にゆがんでいる。
「あまり刻はございませんが、殿下には知っておいていただきとうございます。よって臣よりご説明申し上げます」
ラザールが居ずまいをただす。
「シキは女子でございます」
「そうではなかろうかと案じておった」
シキがはっと顔をあげる。
「いづ…がら?」細い目を見開き、瞳を震わせる。
「初めて図書寮で出会った日を覚えているか」
二年前のことだ。
「ナユタに打ち据えられて鼻血を流しておったそなたを、吾は抱きかかえて宮に連れ戻った。お転婆なカヤを抱くことが多かったからな。抱きあげた感触がカヤを思い起こさせた」
カイルがシキに微笑みかける。
「シキを男児と偽ったは、星童にするためか」
カイルはラザールに問いただす。
「左様でございます」
「星を観る才があったからか」
「それは後に判明したことでございます」
ラザールは瞼を伏す。
「私は遠い昔、息子を星夜見の夜に亡くしました。その恐怖は今も胸に巣食っております。故に幼いシキを夜に一人にするわけにはいかないと案じました。私が傍らにいたとて息子を助けることができたとは思っておりません。なれど、私自身が恐れたのです。幼子を宵闇に一人にすることを」
「それで、男児と偽って」
「左様でございます。ほんの数年のつもりでございました。星童の時期を終えれば、娘に戻せばよいと。ですが、シキには星夜見の才がございました。私はその才が惜しうなりました」
「女子にも門戸を開けぬものかと画策いたしましたが、星夜見は国の吉凶に関わる寮であるだけに、忌み事に対する抵抗は思いのほか高うございました」
ラザールは嘆息する。
「そうこうするうちに、例の星夜見があり、ますます禁忌に触れるのが難しくなりました」
そうであろうな、とカイルも同調する。
「巽の塔に幽閉されているイヴァン殿も、殿下同様、シキが女であることに先日気づかれました」
「思いつめたシキは」と言いながら、ラザールは立ち上がる。机の抽斗から鍵を取り出すと、書斎の奥にある扉付の書庫を開け、角の擦り切れた古い本を一冊カイルに差し出した。
「『本草外秘典』でございます」
「禁断の奇書。そなたが持っておったのか」
「曾祖父が二代前の国王ソアラ様より託されたと聞いております」
「薬事寮が保管しているのかと思っておった」
「薬事寮では興味を持つ者が出来する可能性があります。この一冊を残しすべて焼いたそうでございます」
「なにゆえ一冊だけ残した?」
「有事の保険……でしょうか」
「保険?」
「市中に出回っているものをすべて焼いても、書写して秘匿している者がいる可能性を排除できません。人は禁ずるほどに執着するものでございます。この奇書にある薬が悪用された場合、処方がわかれば対策もできようと、一冊だけ残されたのでございます。それがよもやこのような事態を招くとは」
ラザールが中ほどの頁を開く。
「低声奇矯薬?」カイルが読み上げる。
「声を低くする薬でございます」
カイルはシキの顔をまじまじと見る。シキは顔を背ける。
「シキは男として生きるために、禁忌の薬を調合いたしました。臣の浅はかさがシキの声を奪ってしまったのです」
シキはそうではないと言いたいのだろう、激しく首を振る。
「殿下にお願いしたき儀がございます」
ラザールはカイルの前に額づく。
「シキを連れて行っていただけないでしょうか」
「それはかまわぬが、どんな危険があるかわからぬぞ」
「シキは武術もひととおり修めております。また、農夫の娘であるので野営でも知恵が働きましょう。市場にもよく出かけ、町のことも心得ております。むろん星も読めるので道案内もできます。必ずや旅のお役に立てると存じます」
ラザールは頭をあげカイルに視線を合わせる。
「シキを娘に戻してやりとうございます」
なにとぞ、とラザールは面を伏せ声を細くする。
カイルが背後のナユタを振り返る。
「多少は市井に通じているとはいえ、私も貴族の暮らししか知りません。民の暮らしぶりがわかっているシキの存在は大きいと存じます」
ナユタの言に、シキが頬を紅潮させる。
「では」とラザールも床から顔をあげる。
「うむ。シキ、よろしく頼む」
カイルの承諾を得るなりラザールはシキに向き直る。
「シキ、急いでこれに着替えなさい」
町娘ふうのふわりとした膝たけのドレスをシキに手渡すと、シキは衝立の後ろに消えた。
(to be continued)
第65話に続く。
第65話にて、第3幕は完結です。