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『オールド・クロック・カフェ』5杯め 「糺の天秤」(3)

第1話は、こちらから、どうぞ。
前話は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
宇治市役所市民税課係長の正孝は、京都市役所での会議に出席後、遅めのランチをとろうと『オールド・クロック・カフェ』をめざす。その途中で、八坂の塔の階段下で熱中症の老女見つけ、おぶってカフェへと運ぶ。
澄と名乗る老女はなぜか正孝のことを「ただすさん」と呼ぶ。その澄に七番の柱時計が鳴った。時計は三時四十五分を指している。この時間に澄は何を時のはざまに置き忘れてきたのだろうか。澄は「時のコーヒー」を飲むことになった。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
時任正孝‥‥宇治市役所市民税課係長
原田澄‥‥‥正孝が助けた老女


 *   * * Fifth Cup of Time Coffee * * *

「お待たせしました、七番の時のコーヒーです」
 澄の前に白磁のコーヒーカップが置かれた。あらわれては消える湯気にのって、淹れたてのコーヒーの馥郁とした香りがただよってくる。歳をとるごとに嗅覚だけでなくさまざまな感覚もしだいにゆるくなってきているけれど、この幾層にも折り重なった深い香りは澄の胸をあたたかくした。
 澄は子どもたちが幼いころ、ぜんざいをよく炊いた。あずきを鍋でことこと煮て、豆が指でつぶれるくらい柔らかくなったら砂糖をさっと混ぜる。戦後の物のない時代、砂糖も贅沢品だったからほんの少しだったけれど。ふんわりとした甘い匂いがぱあっと立ちあがる。その瞬間が好きだった。
 白磁の碗からただようコーヒーの香は、あずきの炊きあがる寸前の、あの角のとれたまあるい匂いに似ているように思えた。
 ――ただすさん。
 と、澄は心のうちで目の前の男性に呼びかける。
 黒縁の眼鏡をかけ背筋を伸ばして座っている人は「ただすさん」にまちがいないと思うのだが、その「ただすさん」がどこの誰だったかが、はきと思い出せないでいる。古い知り合いのように思う。けれど、この男性は髪も黒ぐろとして皺もない。また夢を見てるんやろか。近ごろは夢とうつつとの境めが、二色のアイスクリームがなめらかに溶けてまざりあうように、だんだんあいまいになっている気がする。二つの時間を同時に見ているような。時空の隔たりが溶けて無効化していくような。それが歳をとるいうことなんやさかい、しかたない。でも「ただすさん」と心のうちで呼びかけるたんびに、胸のここらへんがきゅうとなるんはなんでやろ。
 澄はぼおっと向かい席を見る。視線に気づいた、ただすさんは
「澄さん、この玉子サンドおいしいですよ」
 ひと切れつまんで澄の皿にのせる。また、胸がきゅうっと縮む。
 澄は頬が上気してくるのをごまかすように、白磁のカップを手に取り、時のコーヒーをゆっくりひと口啜った。
 ――ああ、おいしい。胸がぽかぽかする。
 澄はほおっと息を吸いながらまぶたを閉じた。

* * * * * 

 澄の意識は気づくと高い位置にあって、緑ひと色の水面みなものような何かをとらえていた。そこに赤や黄に紅葉した葉があとからあとから積み重なり、みるみるうちに一反のあでやかな錦が織りあがった。すると、さあああっと一陣の風が吹いて反物は舞いあがり羽衣のごとくたなびく。やがてさわさわと葉擦れの音をかき鳴らし、反物の柄であったはずの紅葉がほどけ一枚一枚の枝葉となって息吹いぶきを取り戻すと、眼前には半ば紅葉した深い森が広がった。を縫って白い木漏れ日が幾筋も射しこむ。

 森のなかの小径を黒い詰襟の学生服が行く。その半歩後ろを淡い梨地に紅葉と菊の裾模様のきもの姿の背がためらいがちに歩く。
 澄はそのきものに覚えがあった。
 戦局が厳しくなるにつれ、贅沢は敵という世相のなかで、たくさんのものを手放した。そのきものは澄が最後まで守った一枚だった。
 ――普段着やったもんぺではなく、あのきものを着てるいうことは。
 青年は遅れがちの女性を気づかって立ち止まり、振り返る。
 ――ただすさん。
 澄の記憶がはらはらとほどける。風がさああっと吹いて落ち葉を躍らせる。
 ああ、そや思い出した。ここは下鴨さんのご神苑の糺の森で、背筋をぴんと張って振り返ったあの人は、許婚いいなずけの徳光糺さんや。
 許婚いいなずけいうても、父親どうしが友人で、澄が生れた折に半分冗談まじりで交わした口約束にすぎない。けど物心ついたころから、おまえの許婚いいなずけの糺君だ、といわれて育った。
 うちには許婚いいなずけがいる――そのことが、幼い澄を誇らしくさせた。
 糺は澄よりも五つ年上の無口な少年だった。澄も口数は多いほうではない。互いの父親に連れられて家を行き来することはあっても、縁側に並んで腰かけ飴玉をなめながら庭を眺めて終わることのほうが多かった。それでも隣に糺がいるというだけで澄にはうれしかった。
 ――うちは糺さんのお嫁さんになるんや。
 なんの疑いもなく、そう思い込んでいた。
 
 京都帝大法学部の学生だった糺さんに赤紙が届いたと父から聞かされ、澄は泣き崩れた。それから三日後のあの日、珍しく糺のほうから「会いたい」と連絡が来た。指定されたのが糺の森だった。
 その日、糺はいつになく饒舌だった。
「澄ちゃんは、糺の森の七不思議を知ってる?」
 
 御蔭通りに面した下鴨神社の参道入口で午後二時の約束だった。澄は遅れないように出かけたが、糺はすでに待っていた。
「お待たせしてしもて」
 かまへんよ、というと糺は読んでいた本を閉じてすたすたと参道に入った。澄はその三歩後ろを歩みながら、最後の一枚の晴れ着に糺が気づいてくれなかったことに少しがっかりし足もとに視線を落としていた。
 どすん。
 うつむきかげんで歩いていた澄は、糺にぶつかり驚いて顔をあげる。
「すみません、よそ見してて」
 澄がまた後ろに下がろうとすると、糺は
「そない離れて歩かれたら話ができません。ぼくも歩くのが速すぎた。気遣いが足らんて、よう母に叱られる。並んで歩きましょう」
 当時、女性は男性より三歩下がって歩くものとされていた。澄がためらっていると、ほら、と糺がうながす。
「ほな、失礼して」
 子どものころのように隣に並んで斜めに糺を見あげる。黒縁眼鏡の奥の細い目が笑う。
 泉川の浮石からはじまり、糺の森の七不思議を巡って小径を歩みながら、「とうに気づいてるやろうけど。ぼくの名前は、糺の森から付けたんやそうです」と語る。糺の家は出町柳でまちやなぎにあって下鴨神社への尊崇も篤く、また裁判官の父は自身の職業への誇りから、男児を授かったら糺の森にあやかり「ただす」と付けようと心に決めていたそうだ。世の中を糺す人になるようにと。そんなことまで話してくれた。
「ここで遊んで育ったし、名前もいただいてるし」
 糺は佇んで森をぐるりと眺めまわす。
「せやから、この森はぼくの心がいつでも還って来る場所でもある」
 出征を控えた糺の心に去来しているものを推し量るには、女学校にあがったばかりの澄はまだ幼く、涙をぐっと飲み込むぐらいしかできなかった。泣いてはあかん、泣いてはあかん、と胸のうちで繰り返した。
 神社のあざやかな朱塗りの楼門が見えてきた。門の左手前に小さなおやしろがある。糺は迷うことなくそちらに向かう。
「七不思議のなかで、ほんまに不思議なんはこれ」
 糺はやしろの隣にそびえる木を見あげる。紙垂しだれが飾られていてご神木であることがわかる。
「連理の賢木さかきいう樫の木なんやけど。ほら、こっちの木の幹が分かれて、隣の木とつながって一本になっとるの、わかるやろか」
 二本並んだ木の片方が、糺の背ぐらいの高さで二股に分かれ、そのうちの一本の幹が隣の木に寄り添うように伸びてくっつきその先で一本の木になっている。
「連理の賢木さかきはこれで四代目らしい」
「四代目?」
「この木が枯れたり倒れたりすると、糺の森のどっかでまた連理の賢木が生れると云われてる」
 まああ、と澄は目を丸くしてご神木を見る。うちも糺さんと、こんなふうになれたらええのに。澄がぼおっと見あげていると
「澄ちゃん、きょうは渡したいものがあって来てもろたんや」
 糺から葉書大の写真を手渡された。
「まずは澄ちゃんが欲しがってたもの」と、糺はにっこりする。
 きょうと同じ学生服で口を真一文字に結び深いまなざしでこちらを見つめている。わざわざ写真館で撮ったことがわかる一葉だった。澄はそれを両手で胸に抱きしめる。
「それと、これを預かってもらえるやろか」
 斜めにかけたかばんから黄色い鬱金布うこんぬのにくるんだものを取り出す。両手に乗るほどの大きさの真鍮の天秤だった。
「これはぼくにとって、だいじなもんなんや」
「ぼくは弁護士になりたいと思うてる。天秤は公正と平等の象徴で弁護士記章にも刻まれてる。ギリシャ神話の正義の女神テミスが手にしてるのも天秤。値打ちのあるもんちゃうけど、ぼくがこうありたいと思う心の象徴やから、澄ちゃんの手に置いていく」
 言いながら、澄の掌に乗せる。
「それから、これも」
 封筒を一通さしだす。表には「澄様みもとへ」と書かれている。裏返すとしっかり封緘されていた。
「ぼくが帰って来んかったら、そんときに開けてほしい」
 澄はもう涙をとめることができない。
「待ってます。ずっと待ってます。無事に帰られるまで、うちは‥‥うちはずっと待ってますから」
 糺はそんな澄を見つめて寂しそうに笑み、連理の賢木さかきの枝先を見あげる。この原始の森ではまだ若い部類の木なのだろう。先端は周りの古木の葉陰に守られている。糺は視線を戻すとポケットからハンカチを取り出し、涙で顔を引き攣らせている澄に渡す。そのときポケットのなかの懐中時計に手がふれた。
 糺は懐中時計を取り出し蓋を開ける。針は水平に開いて三時四十五分を指していた。それを涙に濡れる澄の前にかざす。
「澄ちゃん、ほら。時計の針が天秤みたいや」
 澄は霞がかった目で文字盤を見る。ほんの少し右側が下がっているけれど、黒縁眼鏡の奥の細い目は偶然の一瞬に、子どものように誇らしげだ。澄は涙をぬぐってほほ笑み返す。時が止まってほしいと心から願った。
「秋の日は鶴瓶落つるべおとしいうから、さっさとお参りをすませて送っていくよ」
 
 さあああっと一陣の風が吹いて、二人の足もとの落ち葉が躍る。小さな渦は大きな螺旋を描いてくるくると天へと舞いあがり、たちまち画面全体を席捲し、宙に浮いた澄の意識は、黄葉、紅葉の大きな渦を真上からとらえる。しだいに渦が画面の縁へ縁へと軌道を大きくするにつれ、中央に円状の空間が広がった。と、そこに時計の文字盤が現れた。長針と短針が水平に開いて三時四十五分を示している。まばたきをすると、針は真鍮の天秤の支柱と皿に幻じ、樫の葉が左右の皿に一枚ずつはらりと舞い落ちて釣り合った。

(to be continued)


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