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なぜ何かを言わずにはいられないのか

批評において、その対象や、その言葉について、いったい何だろう、どういうことなのか、果たしてそうなのだろうかと、問いを立てるのは当然のことだ。そして、その問いが少なくとも疑問形である以上、ときには疑いの様相を帯びることもまた、当たり前のことだ。

小林秀雄が『批評』(「小林秀雄全作品」第25集)において指摘するように、その対象を正しく評価し、その在るがままの性質を、積極的に肯定して、対象の他のものとは違う特質を明瞭化するという、本来の意味での「批判」であるならよい。しかし、それが単なる非難であったり、いたずらに対象を「疑う」ことで批評しているスタイルを装うことも目立つ。

現代の知識人は、懐疑派であると言われるが、言葉の洒落に過ぎないのであって、知識人が、これほど軽信家になったのは、空前のことであろうと、私は考えております。事にあたって自らを試すという面倒を省くところに生ずる言葉に関する驚くべき軽信が、事に当って、懐疑する様な外見を呈しているだけです。事になんか実はまるで当っておらぬだから、懐疑など起こりようがない。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p168

令和の現在は、一億総コメンテーター時代である。何かを問われたら、「そうですねぇ、…」という語り出しで、何か答えずにはいられない。いや、実際には何も答えていない。表面的に「応える」だけだ。実際には経験のないことも、知識や関心のないことも、まだ読んだことのない本についても、哲学とは何かとわかっていなくても、なにか「コメント」しなければ気が済まない。小中学生にまで、そんな風潮がはびこる。

なぜ何かを言わなければ気が済まないのか。知性がないと思われたくないのは、いまも昔も変わらない。「知らないと恥ずかしい○○」というタイトルの本を手に取る心理だ。また、相手の問いかけに応えられないと、コミュニケーション能力がないと思われるから。「コミ障だ」と相手を責めるのにも自虐するのにも都合のいい言葉がある。だれもが相手の顔色をうかがいながら、自分を取り繕いながら、何かを言わずにはいられない。

懐疑とは、経験を尊重する者は皆持っている精神の或る活力なのであって、実験が成功するまでは、容易に言葉を信じまいとする意志であります。疑う事がもともと人間の正常な能力である以上、懐疑を精神の一つの美徳と考えなければ意味がないわけだ。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p168

『私の人生観』の時代には、知性を見せかけたかっただけなのかもしれない。それから70年が過ぎ、自分を見せかけたい動機は移ろいだ。しかし、経験を軽んじ、薄っぺらな表面だけの言葉を投げ掛ける人々は、昔もいまも確実にいる。

(つづく)

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