小林秀雄から釈迦、そして再びウィトゲンシュタインへ
人はなぜ死ぬのか。
そもそも死とは何か。他人の死を目撃した人はいるけれど、自分の死を目撃した人はいない。では反対に、生とは何か。生きるとはどういうことか。この世に生をうけるという言い方はあるが、では生まれる前は「死」だったのか。「哲学をきわめるとは死ぬことを学ぶこと」というモンテーニュの言葉もある。
そのように、考えれば考えるほど本質的になり、抽象的になり、観念的になる。形而上学的になる。
小林秀雄は『私の人生観』において、仏教もだんだんと観念的になり、神と宇宙、神と自然とは同一であるとみなす「思弁的汎神論」の性質を帯びるようになったが、釈尊(釈迦)そのものは、むしろ逆の道を歩いたのではないかと考える。長いがそのまま引いてみる。
仏教では有名な「毒矢のたとえ」であり、中阿含経の「無記」、または十の質問に答えなかったので「十無記」と呼ばれる。「如来の不記」という言い方があるかどうかは分からなかった。
小林秀雄はこれについて、空の形而上学は不可能だが、空の体験は可能であり、行うことで空を現すことができる、本当に知るとは、行うことだ、見るとは行うことの第一歩だ、と語る。
仏教はもともと、なぜ私はこんなに苦しいのか、そして、どのようにしてこの苦しみから抜け出せばよいかを説く。「毒矢のたとえ」で釈迦は、物事の真理を知るよりも、まず毒矢という「苦しみのもと」を抜くのが先だといっている。
そして、分からないものは、答えない。分からないものは、分からないままにしておく、というのも、この「無記」であるように思う。
本当に知るとは、行うことだ、見るとは行うことの第一歩だ。『私の人生観』ではこのとき「見る」と記してあるが、小林秀雄の心もちを考えるならば、「観る」である。
(つづく)
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