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経験せよ。そして思い出せ。ありありと。

小林秀雄が絶賛した「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(高野山有志八幡講十八箇院蔵)は、『往生要集』を記した源信ではなく、別の絵仏師によって描かれたと考えられている。そうであったとしても、優れた来迎図からは、僧としての観法と、絵師としての画法が根本的に一致していることが読み取れるとして、小林秀雄は絵仏師の資質について考察する。

絵かきが美を認識するとは、即ち美を創り出す事である。同様な事が観法にもある。念仏と見仏とは同じ事である。仏というアイディアを持っただけでは駄目だ、それが体験出来る様にならなくてはいけない、という事は、日常坐臥、己の体験に即して仏を現さねばならぬ、創らねばならぬという事になる。

『私の人生観』

『往生要集』の前に触れていた「日想観」においても、まずは西の空に沈む夕陽を観ることから始める。日没を経験する。そのうえで、今度は眼を閉じても夕陽が思い浮かべられるように、心で観る。再現するのである。さらには水や氷の清らかさを思い浮かべる「水想観」や蓮の花を思う「華座観」などを経て、極楽浄土をありありと思い浮かべる「十六観」となる。

ここで、やはり想起するのは、「美は経験である」という小林秀雄の言葉だ。

美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさがの経験が根本だ、と考えているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。

『美を求める心』

小林秀雄の文章は難解だという印象から、観念的な人物像を思い浮かべる人が多い。しかし、実際には「経験」を重んじていることが、それこそ文章から読み取れる。分かったつもりにならない。言葉でごまかそうとしない。複製画であってもゴッホの絵の前で座り込んでしまうことも、脳内でモーツアルトが鳴り響き、百貨店に駆け込んでレコードを聴いて再現しようとすることも、すべて「経験」を重んじているからだ。十分に身体性、肉体性をともなっている。

だからこそ、『偶像崇拝』では「絵を見るとは、一種の練習である。練習するかしないかが問題だ」と述べている。『美を求める心』では、「眼を鳴らすことが第一だというのです。頭を働かすより、眼を働かすことが大事だと言うのです」とも語っている。絵仏師良秀も、自宅が燃えるという「経験」から不動明王の火炎を学んだ。その後、不動明王を描くときはいつでも、自宅の燃える様をありありと思い出したことだろう。それが、「日常坐臥、己の体験に即して仏を現さねばならぬ、創らねばならぬ」という言葉にも表われている。

歴史であれ、「美」であれ、まず経験する。そして「思い出す」というおこないは、小林秀雄にとっても、われわれ読者にとっても、きわめて重い。

(つづく)

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