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その人そのものを生きることが批評だ

小林秀雄の批評における起点は、論壇に登場した1929(昭和4)年の『様々なる意匠』における「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」にあったと考えられている。さらに、この言葉の源流をたどるならば、小林秀雄みずから翻訳したフランスの批評家サント・ブーヴにあるのではないか。

僕等は批評する時に、他人を判断するより遥かに多く自分を判断しているものだ。

『我が毒(翻訳)サント・ブウヴ著』「小林秀雄全作品」第12集p141

他人の言葉を鏡として、自分を、自分の言葉で映し出す。批評は感動から始まる。批判は分析でしかない。自分の好きなものは、自分の言葉で語りたい。感動から始まる自分の言葉とは何か。詩の言葉である。ボードレールやランボーなど象徴派詩人からの影響を隠すことなく、小林秀雄は詩の言葉を用いて批評との近接を図った。

さらにサント・ブーヴの言葉から、小林秀雄が実践していることがある。

 人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼等を判断するのに決して急がない事だ、彼等の傍で生活し、彼等が自分の考えを明かし、日に日に発達して、やがてその自画像を、僕等のうちに描く様になるのを待っている事だ。

 故人になった作家に就いても同じ事が言える。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せておけ。そうしているうちに、彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を描き出すに至るであろう。

『我が毒(翻訳)サント・ブウヴ著』「小林秀雄全作品」第12集p146

思想はあくまでもサント・ブーヴのものであり、小林秀雄は翻訳しているにすぎないのだが、そのまま小林秀雄の言葉、小林秀雄の思想、小林秀雄の批評だといっても通じる。それは紛れもなく、小林秀雄がサント・ブーヴの言葉や批評を繰り返し読み、自分のなかにサント・ブーヴの肖像画を描き出し、小林秀雄がサント・ブーヴになり切ったのではないか。

小林秀雄は『読書について』『読書の方法』など、読書に関する随筆で繰り返しサント・ブーヴの言葉を引いている。『読書について』において、「好きな作家がいたら、書かれたものにすべて目を通しなさい。そうして『文は人なり』を体感せよ」と述べているくだりは、サント・ブーヴの言葉を小林秀雄が語っているかのようだ。それはもちろん剽窃ではない。そのくらい読み込み、血肉化しているのだ。

そして、これは『私の人生観』でもすでに触れてきた、歴史に対する考え方でもある。

歴史は、上手に「思い出す」ことだ。その人物は何を見たのか、何を感じたのか、どのように考えたか、どのような言葉を発したか、それが自分の内にありありと姿を現し、声が聞こえてくるまで、考える、想像する、思い出す。それを「歴史を知る」ことだと小林秀雄はいう。

小林秀雄にとって「器用」を極めるというのは、人間そのものに迫り、その人間になりきって自画像を描き、その人間の心持ちを思い出し、言葉にすることだ。どのように、その人そのものを生きるか。つまり人生観をつかむことが、小林秀雄にとっての批評なのだ。

(つづく)

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