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概念とイメージの両面から直観に近づく

リルケの芸術観とベルクソンのvisionは、表現こそ違えど重なる。これは詩と哲学の結びつきである。

私がベルクソンの哲学に惹かれるのは、沢山の事を教えられたから、というより寧ろ彼の教え方が全く詩人のものだというところにある。彼の哲学に、文学的映像が多過ぎるというのは普通の非難の様だが、そういう事を言ったらプラトンも同様なのであって、そういう平俗な非難は、これら哲学の核心には、当らないと思う。彼は文学と妥協もしていないし、文学に屈服もしていないのだから。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p185

小林秀雄が生涯にわたってベルクソン哲学に親しみ、未完ながらベルクソン論『感想』に挑んでいたことも、ベルクソンへの私淑が感じられる。

文学的映像といえるかどうかは分からないが、もともとベルクソン哲学において「イメージ」は鍵語であり、また視覚芸術についても哲学の対象としている以上、読む側にありありと情景が浮かぶような表現を用いることは必然である。

イメージは具体的なものに私たちをとどめるという長所を少なくとも持っている。どんなイメージも持続の直観の代わりにはならないが、しかし、多様なイメージを非常に異なる種類のものからたくさん借りてくれば、それらの作用を集中させて、直観をとらえるその点に意識を差し向けることができる。できるだけまちまちなイメージを選び、呼び出そうとする直観の地位をどれか一つのイメージが占拠するのを防ぐことができる。

アンリ・ベルクソン『思考と動き』原章二訳、p263

哲学は、考えて、考えて、考えて、ようやく分かったことを言葉で表した「概念」である。だからといって、言葉ですべてを表すことができるものだろうか。それを補うものにイメージがある。だが、一つのイメージで、言葉で表すことのできなかった概念を表象することはできるものだろうか。できるだけ複数のイメージを選び、偏ることなく、普遍的なものをつかみとる。ベルクソンは、概念だけでも不十分だし、イメージだけでも不十分。概念とイメージ、いずれも用いることによって直観に近づく。そうやって自らの哲学をできるだけ正確に表わそうとしたのだろう。

その試みは、詩人の方法論と同じである。感動は言葉になりにくい。沈黙を強いる。それに抗って、言葉にするのを成功した人間を詩人というのだと、この『私の人生観』でも小林秀雄は繰り返し述べている。

ボードレールからは詩と批評の近接を学び、ベルクソンからは詩と哲学の近接を学んだ。文芸評論家の中村光夫や作家の大岡昇平が指摘しているように、小林秀雄の文章は散文詩のようだというのも、ボードレールやランボーからの影響だけでなく、ベルクソンの影響もあるのだろう。

(つづく)

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