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後悔で自分をごまかさないと決心してみろ

「僕は無智だから反省なぞしない。利巧りこうな奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』)という放言が思わぬ舌禍となり、太平洋戦争後における一億総懺悔ざんげの空気のなかで、小林秀雄は「戦犯文学者」のレッテルを貼られてしまった。

そんな舌禍の元となった座談会から約3年、『私の人生観』において、小林秀雄は剣豪・宮本武蔵が死を迎える1週間前に述べたといわれている『独行道』のなかの一つ、「我事に於て後悔せず」という言葉を引いて、その解釈を述べる。

自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p162。引用は以下すべて同じ

座談会「コメディ・リテレール」における放言は、たしかに世間一般では、戦争を賛美した過去を一切反省しない「開き直り」だと解釈されてしまった。それを誘導的に質問した本多秋五からすれば、してやったりだったはず。しかし、その解釈を小林秀雄は「浅薄」だと斬ってすてる。

今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかというものは、皆嘘の皮であると言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない。そういう小賢こざかしい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。

戦争中はあれだけ戦意高揚のために発言し、敗戦となれば手のひらを返すかのように、声高に反省を求める。そんな政治家や文化人に対する皮肉として、小林秀雄は彼らを「利巧りこうな奴」と呼び、みずからは否定した。

昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処どこまで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度きっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度めでたい手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。

座談会で小林秀雄は「この大戦争は一部の人達の無智と野心とからおこったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度めでたい歴史観は持てない」という発言をしている。普段から使っているのか、それとも意図的に使っているのか、この「お目出度めでたい」という言葉が重なるところに、小林秀雄の皮肉と信念が垣間みえる。宮本武蔵の言葉を借りて、あのときは放言となってしまったが、真意はここにありと述べているのだ。

「我事に於て後悔せず」という言葉を、雑誌「文藝春秋」を創刊した作家・菊池寛が座右の銘として色紙に揮毫しているという逸話は、すでに1937(昭和12)年の『菊池寛論』で触れている。小林秀雄は「我が事に於て後悔せず」と読む方がよろしいと言っているが、菊池寛が「われ事に於て後悔をせず」と揮毫した色紙は、香川県高松市の菊池寛記念館で見ることができる。達筆とはいえない。

(つづく)

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