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なぜ徒党を組みたがるのか

ベルクソンがいう偉大な国家統治者、小林秀雄が好きな「手仕事」をするような練達した大政治家は、もはや現れることはないだろう。そこで、政治には組織化が必要になってくると小林秀雄は見ている。

組織化とは機械化だ。人間的な仕事はもはや期待できないのだから、政治は能率的な技術となったほうがいい。政治家は、社会の物質的生活の調整を専ら目的とする技術家であればよい、精神生活の深いところに干渉する技能も権限もないと悟るべきだと断言する。

ここで気をつけたいのは、小林秀雄はあくまでも、能率的な仕事をするための組織化であることだ。

政治的イデオロギイという様な思想ともつかず、術策ともつかぬ、わけのわからぬ代物を過信する要はない。(中略)政治的イデオロギイ即ち人間の世界観であるという様な思い上がった妄想からは、独裁専制しか生まれますまい。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p172

ここで思い出すのは、「信じるということは、責任を取ることだ」という、後の講演文学『信ずることと知ること』につながる言葉だ。

信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。(中略)反省がないということは、信ずる心、信ずる能力を失ったということなのです。

「講義 信ずることと知ること」『学生との対話』p51

なぜ徒党を組むのか。この講義音声を収録したCDのトラックに、そうタイトルがついている。自分流に信じていない。信じようとしないから責任を取らない。徒党を組めば組むほど、薄っぺらい自己が数の力で覆い隠される一方で、責任の所在はますます不明確になる。だから集団になりたがる。

民主主義とは、人民が天下を取る事だなどとわめいているうちに、組織化された政治力という化け物が人間を食い殺してしまうだろう。ムッソリーニはファッシスムを進歩した民主主義と定義していたのです。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p172

『私の人生観』の講演は1948(昭和23)年、イタリアでムッソリーニが結成したファシスト党が権力を握ったのが1922年。日本では70年前にも指摘されていて、世界から悪と言われたイタリアの、1世紀も前の考え方が、2023年を迎えた現在の日本に重なるのは、いったいどういうことだろう。

(つづく)

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