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源信から宇治拾遺物語、芥川龍之介、そして小林秀雄へ

臨終の際に阿弥陀如来とともに二十五の菩薩が迎えに来る様子を描いた「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(高野山有志八幡講十八箇院蔵)は、『往生要集』を記した源信(恵心僧都)の作とされている。ただ、源信の没後1世紀近く過ぎた、鎌倉時代以降の作品ともいわれていることもたしかだ。

「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(高野山有志八幡講十八箇院)

今日でも、死人は北枕に寝かすという風習はあるが、当時の人は、臨終の覚悟をする為に北枕して寝たのです。顔を西の方に向け、阿弥陀様の像を安置して、阿弥陀様の左の手に五色の糸をかけ、その端を握って浄土の観を修したのである。(中略)来迎図というのが盛んに描かれる様になって、仏像の代わりに来迎図をかける様になった。恵心僧都は、この種の来迎図の創始者という事になっておりますが、まあこれは伝説に過ぎないかも知れない、おそらく、今はもう名も伝わらぬ傑れた絵仏師の作でありましょう。

『私の人生観』

それで小林秀雄は絵仏師に焦点をおく。

絵仏師というのは僧籍にある絵師をいうのですが、これは僧でありながらたまたま画技にも長じていた人という意味ではないので、当時は僧籍にある事は絵師として大成するには大事な条件であった。

『私の人生観』

絵仏師という存在は、一般的なものなのか。『私の人生観』で、はじめて知った聴衆や読者も多いだろう。ただ、いまどきの高校生に尋ねると、あまり確率は高くないものの、知っているという声もあがる。それは何故か?

出版社によって異なるが、高校1年生の国語の教科書に、鎌倉時代の説話集である『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」という説話が載っている。全文でも600字にも満たない小品なので、古文入門として学ぶのである。

これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。
家の隣より、火出で来て、風おしおほひて、せめければ、逃げ出でて、大路へ出でにけり。
人の書かする仏もおはしけり。
また、衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。
それも知らず、ただ逃げ出でたるをことにして、向かひのつらに立てり。

「絵仏師良秀」『宇治拾遺物語』

かつて、良秀という絵仏師がいた。彼は自宅が火事になったとき、一人逃げ出したが、家のなかに妻子がまだ残っているのにも関わらず、燃える家を笑って見ていた。まわりの人があきれて尋ねたところ、良秀がいうには、これまで長い間、不動明王の火炎を下手に描いてきたが、炎とはこのように燃えるものだと初めて会得した。これはもうけものだ。仏様さえ上手に描ければ、家は100軒でも1000軒でも立つ。お前たちは、これといった才能がないから、物惜しみするのだろうと、あざ笑って立っていた。その後、良秀が描いた不動明王はながく愛でられている、という話である。

なるほど、良秀はこの「観る」という経験から絵仏師としての道を究めたのかもしれない。狂気が宿った絵仏師という見方もできるだろう。

そして、この「絵仏師良秀」を下敷きにして新たな物語をつむいだのが、芥川龍之介の『地獄変』である。

ちょうど10歳の差がある芥川龍之介の作品を小林秀雄がつぶさに読んでいたことは想像に難くない。『地獄変』については定かではないが、1924(大正13)年には『断片十二』で芥川にちらりと触れ、彼が自死した直後の1927(昭和2)年には追悼文ともいえる『芥川龍之介の美神と宿命』を発表している。

その『芥川龍之介の美神と宿命』において小林秀雄は、「『或日の大石内蔵助』『枯野抄』『お富の貞操』等彼の作中最も心理的なものすら僕に心理的興味より絵画的興味を起こす」と語っていて、「人間は現実を創る事は出来ない。唯見るだけだ、夜夢を見る様に。人間は生命を創る事は出来ない、唯見るだけだ、錯覚をもって。僕は信ずるのだが、あらゆる芸術は『見る』という一語に尽きるのだ」と言葉を継いでいる。

『私の人生観』と『宇治拾遺物語』は何の関係もない。しかし、「絵仏師」で結びつき、さらに芥川龍之介ともつながって、また小林秀雄に戻ってくる。さらに「観る」という通奏低音も感じられる。

一見、ばらばらに存在している、散っていると思える知識も、それを「点」ととらえ、ほかの「点」と結びつけて「線」をつくる。さらに「線」と「線」を組み合わせれば、三角形でも四角形でも平面図形ができる。それを「面」として複数を組み合わせれば立体ができる。多面体もできるだろう。さらに複数の「点」で切断すれば、新たな「面」も浮かび上がる。そうやって結びつけることを「考える」「理解する」と解釈している。

『私の人生観』には、そんな「点」と「点」の結びつきから、多角形や多面体ができ上がる。さらに別の平面や立体と結びつき、連環が生まれる。これが『私の人生観』を読む楽しみなのだ。

(つづく)

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