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現実をありのままに描写した小説なんて箸にも棒にもかからない

近頃の小説家は移りゆく現実を受けとめて小説にするのに精一杯で、visionすなわち心眼を反映させるまでは至っていない。また、こまやかに描写を充実させれば、芸術的な小説だという評価が得られるので、小説にvisionを盛り込むといった芸術的野心はもはや見られない。そのように小林秀雄は『私の人生観』で嘆いている。それを具体的に例示したのが、『井伏君の「貸間あり」』(「小林秀雄全作品」第23集)である。

ある日、懇意にしている井伏鱒二の小説を映画化した『貸間あり』を観賞したところ、「これほど程度を下げて制作しなければならぬものか」と訝ってしまった。たしかに『貸間あり』は薄汚いアパートを舞台にしているが、映画ではその薄汚さが誇張されている。井伏鱒二はそんなつもりで原作を書いたのではないはずだ。いったいこれは、どういうことか。

小林秀雄はまさに、リアリズム小説の誕生以降、重視されてきた「描写」に一因があるとみる。

いわゆるリアリズム小説の誕生以来、客観描写のみならず、人間の醜悪な欲望でさえ忠実に再現しようとする描写偏重の考えが深まった。「常識的知覚のこちら側」で「分析したり結合したり」しているのである。小林秀雄も音楽を語るときに好んで使っていただろう用語「ハイ・ファイ」、すなわちレコードなどの録音物がどれだけ精密に原音を再現しているかという言葉を持ち出したのは、あまりりに細かく描写を重視している風潮への皮肉だろう。

さらに、韻律を重んじる詩の形式性から離れて身軽になったはずの小説が、かえって現実という重い石を引きずるようになってしまった。「常識的知覚が社会的推移に追従するのに手一杯」なのである。現実を緻密に描写することで小説は視覚的な「芸術性」を勝ち得てきたが、度が過ぎれば、分析が足りない、心理描写が不自然だという批判も現れて、モデルがあるならモデルそのものを出せという始末。「贋物の芸術の行くところ、遂に、贋物の観察が照応するに至った」と手厳しい。

その結果、何が起こったか。現実世界を精密になぞるような描写で埋め尽くされている小説が映画化されるとなれば、その緻密な描写を再現しようとするし、さらには誇張する。そういう映画制作の方法論が一般化してしまった。

井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは、外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感に他ならない。生まの感覚や知覚に訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい。散文の美しさを求めて、作者は本能的にそういう道を行ったのだが、その意味で、この作は大変知的な作品だと言って差支さしつかえない。小説に理屈がこねられていれば、知的な作品だと思うのは、子どもの見解であろう。

『井伏君の「貸間あり」』「小林秀雄全作品」第23集p60

井伏鱒二の小説は、小林秀雄が憂うような、描写過多のものではない。つとめて叙情性を控え、散文の純粋性を得ようとする工夫がなされている文章だと評する。しかし、本文に「薄汚い」と書いてあれば、映画を作る側は、その薄汚さを演出するし、さらには誇張する。それは映画をつくる側の責任のはずだが、世にはびこる小説自体が描写過多であれば、そうなることも必然である。

誰も作家の個性的な密室の言葉の作業を覗き込むことは出来ない。実世間を参照しなければ言葉は死ぬであろうが、一方、実世間の在るがままの姿などというものは、箸にも棒にもかからぬものだと知って置く方がよい。現実の実相を、小説にどこまで表現出来るか、というような言い方が、無反省に濫用されすぎる。

『井伏君の「貸間あり」』「小林秀雄全作品」第23集p60

講演『私の人生観』からは70年、随想『井伏君の「貸間あり」』からは60年経っているが、リアリティ=描写という小説の構図は、書く方にも、読む方にも、まったく変わっていない。visionを盛り込んだ小説を読んでみたいものだ。

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