大分・国東半島の史跡は、説明不足な余白こそが楽しい
「国東半島」という地名は見たことがあった。「こくとう」ではなく、なんか読みづらかったんだよな…という印象だけ残っていて、調べてやっと「くにさき」だと思い出す。それくらい馴染みのない場所だった。
ここにとんでもない仏像がある、と何人かの知人からすすめられたことがあった。何を隠そう、私は小学6年生のときから仏像が大好きなのだ。大学の卒論のテーマも「仏像美術」だった。「とにかくやばい」らしいその仏像に会うなら、今だ。
その仏像は「熊野磨崖仏」というらしい。仏像好きと言いながら恥ずかしいのだけれど、岩を彫りつけて作った仏像を指す「まがいぶつ」という言葉もこのとき初めて知った。
大分空港からレンタカーで40分ほど。どんどん民家も少なくなる山へ入っていく。駐車場に車を停めて受付で拝観料を払うと、杖を貸してくれるという。足腰には自信があるし「大丈夫ですよ」と断ろうとすると、持っていったほうがいいと念を押された。邪魔でもないし、借りることにする。
杖なんて必要ない、ほんの少し上り坂くらいの石畳を歩いていると、古びた看板か何かが道端に落ちていた。こういう、放置され続けて誰にも片付けられないまま月日が経って歴史を感じられるものが好きだ。こんな看板を見つけられるなんて幸先がいい。
事前にネットで調べたところ、片道徒歩20分と書いてあった。きっとこのなだらかな石畳がずっと続いているんだろう、2月だけど晴れているしコートもいらないかも、なんて呑気に思っていたのはここまでだった。
眼前に現れた鳥居の向こうは、果てが見えなくて愕然とする。これは確かに杖が必須だ。
石段が100段あるというのをどこかで読んだのを、この石段を見てようやく思い出した。高校時代、毎朝学校まで150段近い石段を登っていたので階段には自信があった。100段なんてちょろい、くらいに思って記憶から消えていたのだ。これじゃあ段数も数えられないじゃないか。雨が降ったらすべりそう。ちょっと怖い。しかし登らないと仏像に会えない。一歩一歩しっかり踏みしめながら登っていく。
てっきり、登りきった一番てっぺんにお目当ての磨崖仏があるものだと思いこんでいた。ひたすら足元を見て、転ばないように気をつけながら進んでいく。普段の運動不足が祟って、はぁはぁ苦しそうにしか歩けない。すれ違うおじさんたちは軽やかに笑いながら「がんばって!」なんて声をかけてくれる。
歩き疲れて息も上がってきた、そろそろちょっと座りたい、、と思い始めたちょうどよい頃に少し開けたところに出た。ベンチもある!休める!と浮足立ったのもつかの間。ベンチの向こうに堂々とそびえ立つのは、熊野磨崖仏だった。
大きすぎて視界に入らない、ということもあるんだなと思った。この左の不動明王は高さ7メートル近い。自分の目線の高さに見えるのは一番底のあたり。なめらかな岩肌くらいにしか見えていなかったのだ。
平安時代後期にできたらしいこの磨崖仏は、一体どれだけの時間をかけて作られたのだろう。山に一体化しているこの巨大な岩を見て、どうして仏像を彫ろうと思ったのだろう。木の仏像と違って、彫ると言っても途方もない時間がかかるはず。毎日毎日、道具を持ってこの石段を登り、この場所まで来て、地道に彫り続けたのだろうか。毎日が今日みたいに晴れていたわけがない。きっと風雨に曝されながら彫った日もあっただろう。東京を拠点にあちこち出張に行くとはいえ、PC一つで仕事をすることができる私には、とても想像が及ばない。その年月を思うと、この磨崖仏を作る過程の忍耐強さが岩から伝わってくるようだった。
右側の小さい(といっても私の身長をゆうに超える)石仏の前には、こんな石が積んであった。特に説明書きなどもなかったのでなんなのかがわからない。似たようなものを見たこともあまりないので、結局わからずじまい。
そういえば磨崖仏を見て満足していたけれど、さっきの石段には続きがあった。せっかくだから一番上まで登ってみたい。
終わりは見えないけれど、磨崖仏を見た後だと、石段を登るくらいの忍耐はまったくなんでもないもののように思える。また踏み外さないように、一歩一歩登っていく。ようやく最後の一段を登りきり、熊野神社にたどり着いた。
さてお参りしよう、と思って階段から右に体の向きを変えた途端、思わず「ひぃっ!」と声をあげてしまった。今なにか一瞬、見てはいけないものが視界に入った気がする……。生まれてこの方一度も霊感を持っていると自覚したことはないけれど、今確実に何か見えた。え、こんな山奥で、近くに誰もいないときに、怖すぎる……!勇気を振り絞ってもう一度そっちに目を向けた。
たぶん見えても良いものだった。よかった!これは誰にでも見えるやつだ。あーよかった。それにしてもなんでこんなところに……?しかも般若の面だと思ったけど、角がない……?
これが正式になにか祀られているのか飾られているのかわからないけれど、不意打ちで驚いて心拍数が下がらなくなった。落ち着くまでにだいぶ時間が必要だった。
お参りをして、意を決して先程登ってきた足場の悪い石段を降りていく。ほとんど降りきって、なだらかな石畳まで戻ってきたとき、今から登らんとする老夫婦とすれ違った。おばあさんは杖を持っていない。用を終えた私の杖を「絶対にないと危ないから持っていったほうが良いです!」と念を押して渡した。
国東半島でもう一つ気になっていたのが、旧千灯寺跡の五輪塔群だった。熊野磨崖仏からさらに車で40分かかるが、他に特に予定はないし、目指してみる。ここの近くは数年前に行われていた「国東半島芸術祭」の会場の一つにもなっていたらしいから、きっと熊野磨崖仏よりもう少し整備されているのかな、なんて想像しながら車を運転する。
芸術祭の看板もまだ残っていて、駐車場を目指して車を進める。急に道が狭くなり、ちょうど車幅ぴったりくらいしかない、一方通行の山道をひたすら登っていく。頭に浮かんでいた舗装された道路とコンクリートの駐車場のイメージがどんどん消えていく。
しばらく徐行で進んだ先に「五輪塔群」の矢印が見えた。前日に雨が降ったのだろうか、泥だらけの駐車場に車を停めた。五輪塔群の矢印の先は、しばらく誰も歩いていないのだろうか、雑草は生い茂り、折れた枝なども道を塞いでいる。正直、道といえるほどの道でもない。かろうじて木が生えていないから「道」とわかる程度の大自然っぷり。携帯を見ると当たり前のように圏外。
勝手に、もっと人がたくさん集まるインスタ映えな観光スポットだと思っていたのに、人っ子ひとりいないじゃないか。もしここで怪我でもして歩けなくなったらここで息絶えるのか……?なんて不安が頭をよぎる。(それほど危険な道でもないのだが。)
更に先に進んだら、ようやく五輪塔が見つかった。これだけでも相当な数である。一体こんな山奥に、どうやってこれだけのものを運んだのか。
これだけでも十分に圧倒されて、どこか少し神聖な気持ちにすらなっていた。物音ひとつしない静かな山の中で、枯れ葉が一枚、風に揺られて地面に落ちる「かさっ」という音だけでもびっくりするほど、他に音という音がない。
静けさを堪能しながら、近くを少し歩き回ってみることにした。するとさらに奥に、想像以上の空間が広がっていた。正直、視界に入った瞬間に、ぎょっとした。
日の当たらないところは特に深く苔むしていたので、木や地面と一体化して見えていなかった。こんな夥しい数の五輪塔、いや、五輪塔でなくとも昔ながらの不揃いな人工物を、未だかつて見たことがなかった。畏れというべきか、怖さというべきか、今まで感じたことのない感情に包まれた。
不安になるほど細い車道。合っているかどうかわからない道なき道。枯れ葉一枚の音さえ響くほどの無音。気持ちが良いような、神聖なような空間。それでいてあまりの数の多さに文字通り圧倒されて言葉を失う。30歳を超えて、こんな風にあたらしい感情を覚えること自体が嬉しかった。
関東近郊のお寺や神社だったら、何かにつけてどんな仏像にでもなんにでも懇切丁寧な説明書きがついている。仏像を見に行っているのか、説明を読みに行っているのかわからなくなるほどのことも度々ある。国東半島では熊野磨崖仏も、五輪塔群も、全ては語らない。説明不足なその余白こそが楽しさであり、わくわくするミステリアスさにつながっているように思う。
あの角のない般若も、高く積まれた石の山も、この五輪塔群も、正直今でも調べきれていないし、わからないままだ。でも、なんでもかんでもすぐに検索できる今の時代に「気になったけどわからない」ことをそのまま放置してみるのも、新しい一種の贅沢なのかもしれない。少なくとも私はそれを楽しめている。
この旅を終えて半年後、神奈川・小田原にある実家からすぐ近くの「江之浦測候所」を訪れた。訪問するのは2回目だったが、いつのまにやら庭が拡張されたらしい。その広い庭を歩いた先、一番遠いところに足を踏み入れたら、何かグッとくる五輪塔がひとつ置いてあった。
この一つの五輪塔を心ゆくまでじっくり眺めて、あぁ、国東半島の山の中の圧倒的な数の多さもすごかったけれど、こうやって一つと向き合うのもよいなぁ、なんて思いを馳せていた。旅をすることで、自分で足を運ぶことで、一つの作品を見たときに感じる奥行きがこんなに変わるのかと思った。帰ろうとしたとき、なんとなくパンフレットに目をやると、なんとこの五輪塔、国東半島のあの五輪塔群から運ばれたものだった。
新しく知ることを増やしていけばいくほど、楽しめるものがもっともっと増えていくのかもしれない。それに気づくのが、旅先であっても、帰ってきてからの日常生活であっても。
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