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【12/20】第6章「自由」:たとえ決定論が正しくとも、私たちが望む自由はある②(戸田山和久『哲学入門』を読む⑦)《基礎ゼミレポート》

本日は、2023年最後の基礎力向上ゼミです。前回に引き続き、戸田山和久『哲学入門』第6章「自由」を読み進めています。

自由は自己コントロールであるとすると、人工衛星にも自由意志を認めることになります。そこで、自己コントロールに加えて、理由や目的に基づいて最適の行為を選択する能力とされる合理性について検討されます。
物理的世界そのものには目的はなく、人間の心にのみ目的はあるとする議論がありますが、戸田山氏は自然の中にすでに目的はあるということを指摘します。まず、生物は単に自然の因果性にしたがって行動しているのではなく、自分の利害の観点からフィルターをかけて反応しています。生物は、因果性を構造化・組織化するのであって、因果的に決定された世界を前提としている。ゆえに、理由によって行為することと、物理的原因によって動かされることは両立すると考えられます。

この意味で、原始的な動物にはすでに原自由と呼びうるものがありますが、人間の場合、自分の行為の理由を知ることができる点に違いがあり、「人間の自由は反省的である」と戸田山氏は述べます。人間は自分の欲求・信念についての表象を持ち、これらを組み合わせて別の目的に取り換えたりすることができます。しかし、こうした「反省」は決定論と両立します。

次なる反論として、たとえ人間の反省的検討が人間の自由であったとしても、すでにその結果が決定されていて、検討が当の結果に何の影響も与えないならば無意味ではないかというものがあります。ここで戸田山氏は、デネットに依って決定論と宿命論を区別すべきだと述べます。私の検討とは無関係に決定されているのは宿命であるが、多くの場合、熟考(反省)は出来事に違いももたらすことができる。私たちが求めているのは後者の自由であり、宿命論的な決定ではないということです。

この後、他行為可能性は自由と両立する、回避、不可避性、可避性が意味をなすのはわれわれのような有限の行為者にとってのみであるといった議論が論じられますが、省略いたします。

本章の主張は、たとえ決定論が正しく、すべての出来事があらかじめ決定されていたとしても、有限な存在である私たちが望む、熟考によって「他のようにもすることができる」自由は決定論と両立するということです。さらに、ポイントは、私たちが経験をもとに自分を再プログラミングできるのは、まさに、決定論的な物理システム(因果関係)を前提とするからであるという点にあります。

ただし、ここまでの自由意志の概念であれば、自己コントロールできる人工衛星にも当てはまり、責任を伴う自由、人間にとっての本来的な自由にはプラスアルファが必要です。この道徳的に重要な自由概念について、続く第7章「道徳」にて検討されることになります。

さて、当日、参加者の方々とは、知りえないものを知ろうとするのが哲学の役割なのだろうかという疑問について議論がありました。科学が知りうることの範囲内で世界を記述する行為であるとすると、これに対し、哲学は、知りうることの範囲そのものがいかに確定できるのかを問い(カント)、知りえないものに直接アプローチする仕方を考えたり(プラトン他多数)、知りえないものについては語らないとする(ウィトゲンシュタイン)など、さまざまな立場があると言えそうです。


次回は、2023年1月10日(火)22時より再開いたします。第7章「道徳」を読み切ってしまおうかと思います。

それでは、みなさま、良いお年をお迎えください。


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