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(5/30)「知性をケアする」〜スピノザ『知性改善論』ゼミ(@ソトのガクエン)レポート#3

こんにちは、ソトのガクエンの小林です。
5月30日(木)22時より、スピノザ『知性改善論』ゼミ|第3回が開催されました。冒頭、GoogleMeetの設定ミスにより、急遽、URLを変更することになりました。お待ちいただいた方々、申し訳ございませんでした。

今回は、『知性改善論』(講談社学術文庫)19ページの第15節から、21ページ第18節まで読み進めました。

今回のハイライトは、佐々木さんが予習段階で、テキストを読みながら涙を流してしまった(!)と言われていた部分です。
本文においてスピノザは、人間の最高の完全性に至るという目的を追求しながらも、私たちは生きる必要があるのだから、良いものとすべき生活規則を三つ挙げています。

  1.  民衆の理解力(捉え)に合わせて話すこと

  2.  歓楽は、健康を保つのに足る程度に享受すること

  3.  貨幣や財も、生と健康を維持し、また私たちのねらいに差し支えない社会の習俗に倣うのに足る程度にそれを求めること

一つ目の「理解力」と訳されている語は、"captum"で、「capare」(=catch, take a hold, capture)に由来する語であり、理性によって解するというよりも、それ以前に、通常の生活の中で私たちが何かをとらえるような把握の仕方と読むのが良いのではという指摘がありました。

そしてこの三つのうち、佐々木さんは、二つ目に出てくる「歓楽」(Deliciis)に注目します。ここでの「歓楽」とは、性的快楽を指すのではなく、快を与えるアクティビティ(=レクリエーション)全般、あるいはそのようなモノ全体を意味し、その人、その観点に応じて「贅沢品」(貧者にとっての奢侈)とも「おもちゃ」(大人にとっての子供のそれ)にもなるものです。
そして、この「歓楽」は、『エチカ』第4部定理四五備考において、さらにまとまった思考として展開されていると佐々木さんは驚きと共に指摘します。

「たしかに陰険で悲しげな迷信でなければ、喜ぶこと(derectari)を禁ずるものは何もない。じっさい、どうして憂鬱を追い払うことよりも飢えと渇きを癒すほうがより適切だということになるのか。私の原則は次のようなものであり、こう心に決めてきた。すなわち、いかなる神も、またねたみ屋でない限りいかなる他者も、私の無能や不幸から喜びを得ることはないし、涙や嗚咽、恐れといった類いの心の無能のしるしをわれわれにとっての徳とはしない。反対に、われわれはより大きな喜びに変状されればされるほど、それだけ大きな完全性へと移行する。すなわち、それだけ多くわれわれが神的本性に与るのは必定である。だから、もろもろの事物を用い、できるかぎりそこから喜びを得ること(もちろんうんざりするまでとは言わない、それは喜ぶことではないから)は知者(※="sapientis" 佐々木さんは「賢者」と訳されています)にふさわしい。私は言う。適度の美味しい食べ物と飲み物、よい香り、緑の美しさ、装飾、音楽、スポーツ、演劇といった他人に危害を加えることなく各人が利用しうるもので気分を一新し、元気を回復することは知者(賢者)にふさわしい。」

スピノザ『エチカ』上野修訳、岩波書店、235−236頁。

佐々木さんが驚いていたのは、まず、歓楽の動詞形「derectare」が、スピノザの母語であるポルトガル語の動詞「delicio=楽しむ、歓楽する」に由来し、『知性改善論』から『エチカ』に至る十五年間のあいだ、スピノザがこの語句の意味をまったく保持したまま使用し続けているということでした。

また、ここで論じられている賢者論についても、賢者(知者)とは、質素倹約・禁欲生活をするものであるという一般的な考え方に対し、スピノザは、できる限り喜び(歓楽)を得ることも賢者にふさわしいのだと述べ、一石を投じていると佐々木さんは言います。

さらに、この議論は、『エチカ』第5部の定理一〇備考へとリレーされると佐々木さんは指摘します。

したがって、自分の感情について完全な認識を持たないあいだわれわれにできる最善のことは、正しい生き方ないし一定の生活信条を考えて記憶にゆだね、、これを生の途上でたびたび遭遇する個々の具体的な事物に絶えず適用し、そうやってわれわれの表象作用がこの生活信条によって広い範囲にわたって変状されて、いつでもそれを使えるようにしておくことである。

同上、279頁。

『エチカ』のこの箇所は、先の『知性改善論』の生活規則を詳細に論じ展開したものとして読めます。佐々木さんは、スピノザが『知性改善論』を手元に置いてこれを書いていたとしか思えないと言われていました。
こうした部分に佐々木さんはなぜ胸を打たれたのでしょう。おそらくは、過酷な生活環境の只中にあって、周囲の厳しい意見に晒されながらも、つねに自らの思想に幾度も立ち返り、一貫してこだわり続け、これを深く追求し続けるスピノザという人、その思想の強靭さに、佐々木さんは胸打たれたのではないでしょうか。


また、参加者の方々とのやり取りの中で、佐々木さんが実践されている企業内哲学研究との関連に触れつつ、企業が追求する利益は、金銭的なものに限ったものではなく、「美味しいものを食べに行く」というような、個人が得ることができ、また、他者と共に快を得ることができるものこそが利益であり、こうした利益を共に分け与えることが、ラテン語の「companio」すなわち、company(会社)の本来の意味として相応しいということが、スピノザを読んでいるとわかると言われていたのが印象的でした。5月から3回に渡り、スピノザを共に読んできた参加者の方々も、この感覚を共有していただいたようで、さまざまな感想を述べておられました。

今回、佐々木さんと共にスピノザを読むことで、哲学のテキストを読むということが、単に内容を理解するということを超えて、読む側の在り方(体勢 institution)を変様させるものだということを改めて実感できたゼミとなりました。

さて、次回は、6月6日(木)22時です。6月の参加者募集も始まっていますので、ぜひ、多くの方にスピノザを読む「歓楽」を楽しんでいただけることを願っております。こちらの古典ゼミに興味をお持ちの方は、Peatixをご覧ください。


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また、ソトのガクエンの哲学思考ゼミにご参加いただきますと、月額制で、佐々木講師担当の古典ゼミだけでなく、基礎ゼミ、シネマ読書会、表現スキル思考ゼミ、大学院進学情報&原書ゼミにもご自由にご参加いただけます。ゼミメンバーであれば、これまでのゼミのアーカイブをすべてご覧いただけますし、専用Discordにて他のメンバーの方々とも交流していただけます。
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