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【11/8】「意味とは何か」とチューリング・テスト(戸田山和久『哲学入門』を読む②)《基礎ゼミレポート》

本日はFさんのレジュメをもとに、戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)「第1章 意味」を36頁から51頁まで読み進めました。

本書は哲学とは「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を、科学的・物理的な世界観に書き込むことを目的とします。その典型例として「意味」についてこの章では取り上げられます。参加者の方々と当日議論していましたが、意味とは何かという問いに対して、それを辞書的意味とするのか、指示対象との関係性とするのかによっても捉え方・答え方は異なりますし、また、辞書的意味や指示対象として指示される意味自体がどこに存在するのか、さらには、存在するとしたらどのような仕方で存在するのか(存在しないのか)等々、すでに混迷を極める問いであることが分かります。

そこで、戸田山氏は、「まずは問いを小さく分けて、具体的にする。それを徹底的に考える。そこで得た洞察をできるかぎり一般化し抽象化する」(37)ことを、哲学的な問題を考えるときの手段として提起します。「意味とは何か」という問いは、「意味を理解するロボットあるいはコンピュータを作るにはどうしたらよいか」という問いに変換し、取り組まれることになります。

まず、意味を理解する機械について、アラン・チューリングが発案した「チューリング・テスト」が紹介されます。チューリング・テストとは、審判役を務める人間(図ではC)が、人間(B)もしくは機械(A)のいずれかと接続したディスプレイとキーボードを介して会話を行い、会話の内容だけで自分の話し相手が人間か機械かを判定するものです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Turing_test#/media/File:Turing_test_diagram.png

しかし、このテストは、「会話を通じて人間の振りができる機械」なら合格するけれども、その機械が「意味が分かって会話している」かどうかは分かりません。すなわち、意味を理解するときには、プログラミングのアルゴリズム処理のような形式的記号操作以上の何かが必要であると、一般に考えられます。

こうした観点からの批判として、ジョン・サールが提案した「中国語の部屋」という思考実験が紹介されます。ある部屋に英語話者のジョンを入れ、一つの窓から中国語の質問を入れると、中のジョンは英語で書かれたマニュアルを参照して漢字の文字列を操作し、書き上げた文を質問に対する答えとして部屋の外に送り返します。部屋の外にいる人には、部屋の中にいる人間が中国語を理解しているように見えますが、ジョンは中国語を理解してはおらず、たんに記号を形式的に操作しているにすぎないというものです。ここからサールは、心は統語論以上のものをもつ、すなわち、意味論を持つと主張するものです。


さて、当日は参加者の方々と、テキストの内容に加えて色々な話題について議論することができました。人間が言葉の意味を理解するとき、形式的記号操作以上の「何か」があると言われるときの「何か」とは何なのか、また、そもそもそのような「何か」があるのかということが議論されました。

ゼミ終了後も、ゼミ専用のDiscord内では、今回の意味の哲学的考察の一例として、ウィトゲンシュタインやくクリプキの議論、野矢茂樹氏の「相貌論」を紹介していただいたしました。


次回11月15日(火)22時からは、引き続きFさんをリーダー(reader)に「第1章 意味」51頁から読み進めていきます。今回は、サールの中国語の部屋に対する戸田山氏の批判が論じられます。

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