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(8/8)「私たちはいかにして誤らない(偽なる観念を持たない)ようにできるのか??」〜スピノザ『知性改善論』ゼミ(@ソトのガクエン)レポート#13

皆様、こんにちは。ソトのガクエンの小林です。
先日(8/8)に実施されましたスピノザ『知性改善論』ゼミのレポートです。

今回は、『知性改善論』(講談社学術文庫)65ページの第76節(B76)から読み進めました。ここでは、自然の根源の認識について論じられますが、この自然の根源とは、神の観念のことです。

あるものの概念は、その個々の事物が実在する範囲を越えてしまうし、あるいは、同じ概念のもとでは、個々の差異が一緒くたにされてしまいますが、自然の根源=神の観念の場合はこれは起きない(私たちが真理の規範を手にしてさえいれば)とスピノザは言います。「この存在者こそ、まさしく唯一で無限である。すなわち、存在するもののすべてであり、その外にはいかなる存在も与えられない。」(66)

第77節(B77=A43)で議論されるのは、いったい私たちはどのようにして偽なる観念(疑わしい観念)に引きずり込まれるのか、同時に、いかにして疑いを取り去ることができるのかという問題です。
スピノザは、もし魂が、たった一つの観念しか持たないならば、その観念が真であろうと偽であろうと、いかなる疑いも生じないし、また確実性もなく、ただあれこれの感得だけがあることになるだろうと言います。ならば、疑いが与えられるのは、別の観念を介してであると言えます(ここでスピノザは、感覚が誤ることを疑ったことのない人は、太陽の見える大きさと実際の大きさが違うことを疑うことがないと、おそらくはデカルトの『省察』の議論を意識しながら述べています)。さらに、再度、デカルトの欺く神を持ち出し、神についての明晰かつ判然たる観念(神は完全な存在者である)を持っていれば、神は欺くものではない(欺くことは不完全の印である)ということを理解し、疑いの一切を取り去ることができるとスピノザは述べます。

これらを踏まえ、第80節(B80)で言われるのは、ならば、先立って探究すべきものを探究し、ものどもの連鎖が断ち切られないよう正しくまっすぐ進み、問題を解く前に、問題をいかに定式化すべきかを知るならば、その人は確実な観念、すなわち、明晰かつ判然とした諸観念以外の何ものも手にしないことになるということです。「疑いはつねにものどもが順序を踏まえずに探究されることに起因する、と結論づけられる。」(70)

さて、次回、8月22日(木)はいよいよスピノザゼミ最終回です!ぜひ皆様、奮ってご参加ください!

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