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【11/15】ところで、人間とロボットの違いって何?(戸田山和久『哲学入門』を読む③)《基礎ゼミレポート》

今回も引き続き、Fさんをリーダーに、戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)の第一章を読み進めていきます。前回確認した、アメリカの哲学者ジョン・サールが発案した中国語の部屋に対する戸田山氏の反論のパートです。
*中国語の部屋の議論については前回の記事を参照ください。

【戸田山】批判:サールの議論は、カテゴリー錯誤の気配がある。部屋の中にいるジョン(部分)が中国語を理解していないとしても、外にいる人間からすると、部屋そのもの(全体)が中国語を理解していると述べることに不合理はない。
【サール】反論:では、部屋の中にいるジョンがマニュアルを丸暗記した場合はどうだろうか。それでも、彼が中国語を理解しているとは言えない
【戸田山】再批判①:われわれ日本語話者が日本語を話すときも、ジョンと同じように、無意識下でマニュアル参照や記号の並べ替えをやっていない保証はない(現象として意識されないだけ)。
再批判②:中国語の部屋は、会話以外何もせず、言葉を世界の中の事物や行動に結びつけられない純粋会話機械には意味の理解はありえない。逆に、指示通りに行動できるロボットならば、意味の理解を実現する可能性はある。
【サール】再反論②:再批判②で言われているロボット説は、会話だけでなく行為を考慮に入れているのだから、意味理解が単なる形式的記号操作には尽きないことを暗黙のうちに認めてしまっている。例えば、指示通りにボタンを押せばロボットが動く増補版のマニュアルを作り、それに従ってジョンがロボットを操作すれば行為できる。それでも話は同じで、行為ができたからといってそれは意味を理解しているとはいえない
【戸田山】再再批判:サールはここでもカテゴリー錯誤に陥っている。ジョンは中国語を理解していないが、ロボットに意味の理解がないということにはならない。

ところで、サールが執拗に固執するように、なぜ、命令に応じて行動するロボットは意味を理解していないと私たちは思うのでしょうか。それはロボットが「心」を持たないからであるとされます。では、心を持つとはどのような状態のことなのか。本書は、心を持つとは、「環境中で自己の存続に有利な活動を遂行しながら自己を存続させてゆくような存在になる(62‐63)ことであり、「心をもつもたないは、機能ではなく、その機能が何のためにあるか、つまり機能の目的の存在様式の問題」(63)であると述べます。
したがって、ロボットが意味をもつといえるためには、ロボット自身が自らの生存における何らかの目的をもつことが必要条件である(ロドニー・ブルックスの見解)ということになります。

そして、後半の課題は、生きものが生存のために何かをする、すなわち、「認知(cognition)」をどう考えれば良いのかを、1950年代後半に生まれ、心理学、計算機科学、論理学、言語学、哲学からなる複合的分野である認知科学の観点から考察することだと述べられます。

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当日、参加者の皆さんと話題になったのは、人間とロボットとの違いとは何かということでした。当日お話ししましたが、「人間は問題解決の主体だが、ロボットはそうではない」というのはデカルト的な自己意識や「存在する私」を想起しますし、ロボットは人間が作り出す道具である限り欲求と信念を持たないというのは、人間は代替不可能であるがゆえに尊厳を持つとし、物体(物件)と区別するカントを想起する議論であるように思いました。むしろ、こうした私という主体的存在や尊厳をもつ人間主体といったものを前提にすることで、その前提を固守すべく煩雑な議論や説明が積み重ねられていく印象があります。

例えば、人間が「水が欲しいよう」と発する場合、欲求の主体は私であり、代替不可能な私であると考えられます。しかし、はたしてそうでしょうか。むしろ、水を欲しているのは水分が欠乏した身体組織であって、欲求を発している人間はそれに対するただのアラームに過ぎず、この意味では、灯油が切れたことを知らせるストーブと同じではないのかという話をしました。とはいえ、そこで言われている身体組織も、単なる物理的存在ではなく、「私の身体」(ベルクソン)であるとも言えます。あるいは、本書が述べているように、機械が自らの存在を必要とし、その存続を欲するのは(「灯油が欲しいよう」)、あくまでもその機械を必要とする人間のためであり、これに対して人間には、自らの存在を必要とするものが存在しない、いわば、存在の存続を欲している人間自身が自らの存在を必要としていると言わざるを得ないという点で、やはりロボットや機械とは違うとは言えるかと思います(ロボットと人間の違いを欲求と信念、必要性と目的性によって規定するのはよくできた議論ではあります)。しかし、それでもなお、では「人間が自らにとって存在する必要はあるのか」「何のために存在するのか」という問いは立てられるわけで、さまざまな哲学的観点からこの問いに応えることができるなという意見が当日交わされました。本書では、この問いに対して、おそらく進化論的観点からある程度の回答が用意されているのではないかと思います。

それでは、次回、11月22日(火)22時は、65頁から読み進めていきましょう。

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