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火の山二 第一章 幽霊の世界「火の山で少年と少女が燃やされたこと」


 駅からだらだら坂を十分ほど上がっていくと、やがて傾斜が緩やかになり、道は真っ直ぐに大学の正門に突き当たる。その道の両側には洒落た店が建ち並び、その一角に洋風の喫茶店があった。
 喫茶店は改装されたばかりで、全体としてガラス張りになり、外から明るい光を取り込んでいる。まだ朝早く、学生の多くは講義を受けているせいか、客はまばらである。
 僕は道路側の席に陣取り、そこからガラス越しに学生たちが通り過ぎるのを眺めていた。有線放送が静かに流れている。優しいメロディーの流行歌が店内の隅々にまで溶け込んでいく。
 水月の登場場面を、頭の中で反復する。
 幽霊には足がないというが、水月がどんなスカートをはき、その下からどんな足が伸びているのか。髪は背中に垂れる長さで、枝毛一つないようなストレート、つやつやと黒く輝いていたような気がする。全体に小柄で、人に華奢なイメージを与える。 
 問題なのは眼だ。
 彼女はほとんど表情の変化を見せない。微笑む時も、怒った時も、顔の筋肉が微妙に変わるだけである。ただ、遠くを見つめるような漆黒の瞳が印象的である。その瞳の色の微かな変化で、彼女の心の移ろいを読み取らなければならない。
 だが、それは決して困難なことではなく、むしろ、目の動き一つで、どうやってあれほどの感情を表現できるのかと、訝しく思うくらいである。
 水月を一目で認識できるのは、彼女の容姿というよりも、シルエットによってである。
 首筋から肩のライン、胸部から腰にかけての柔らかさ、彼女を形成するあらゆるラインが絶えず変化し、またすべてが見事に調和しているからである。そして、彼女が動くたびに、それらのラインが絶えず変化し、またすべてが見事に調和しているのである。 
 僕は脳裏に不思議な生き物を浮かべた。
 そして、その生き物はまた不思議な匂いを周囲に撒き散らす。すべての細胞が呼吸をし、蠢いている。それらはバラバラに活動しているようで、明らかに一つの意志を持って、各部分部分でバランスを取りながら、こちらに近づいてくる。
 その生き物を抱きしめたいような衝動に駆られる。その柔らかなラインを、指で触れたいと痛切に思う。僕が触れることで、水月の体の様々なラインがどのように変化し、どのような調和を再び形成するのか、そして、その指先にはいったいどんな感触が残るのか。

 秋が深まるにつれ、空がしだいに透明になってくる。
 空気のつぶつぶの粒子が際立って、そのひんやりとした感触が僕を哀しくさせる。
 頭の奥の方で、微かな声がする。少女の泣き声が、途切れ途切れに聞こえてくる。それはどこか遠くで聞こえているようでもあるし、耳元でそっと囁くようでもある。
 突然、じりじりとものの焦げる音がする。
 その時、ガラス越しに見えた風景がぐにゃりと歪んだ。並木道の両脇に生えているほんのり色づいた木々も、道の向こうに並んでいる洋風の建物も、みんな一斉に燃え出すのではないか。
 ーー僕の脳裏にはいつのまにか一人の少女が住み着いていた。その少女は僕が幼い頃に夢の中に登場したのだが、最近は昼間でも突然脳裏に登場するようになった。
 僕に何かを訴えるようにーー
 少女の体はいつも僕の目の前で燃やされてしまう。
 誰かがマッチで火を付け、少女の体が下半身からめらめらと燃え上がる。助けを求めるかのように少女の差し出された手が指先から焼け落ちて、それを見ている僕は凍り付いたように動けない。
 そして、僕の胸にはもどかしさだけが残る。
 あの少女とはどこで会ったのだろう。
 僕と少女との間に、一体何があったのだろう。

「ねえ、何を見ているの?」
 その声で、僕は我に返った。ふと見上げると、目の前に腕を組みながら訝しげに僕を眺めている水月がいた。
 僕の眼にうっすらと涙の跡が残る。
 水月の姿が涙に滲んで、ぼんやりと写る。
 僕は困り果ててしまい、思わず「夢」と言った。
「夢? あなた、朝から夢を見るの?」
 水月が不思議そうに、僕の顔をのぞき込む。黒目がちの瞳がその奥に光を宿していて、僕には眩しすぎる。
「君だって、僕の夢を見たんだろ? だから、今度は君の夢を見たんだ」
「変な人」
 水月はふわっとした調子で言い、僕の前にテーブルを挟んで座った。ウェートレスにホットコーヒーを注文し、僕を不思議そうに見つめた。
 僕は返答に窮した。君の夢を見たんだと、思わず僕の唇からこぼれたこの言葉をどうやって回収すればいいのだろう。
 僕が見続けたのは一人の少女が燃えていく夢だ。
 だけど、肝心な少女の顔がどうしても思い出せない。夢を見ている時ははっきりと分かっているのだが、夢から覚めた瞬間、その顔の部分だけがのっぺらぼうになってしまう。
 でも、なんて説明したらいいのか。
「火の山の夢」
 突然、思わぬ言葉が僕の唇からこぼれ落ちる。その言葉を口にした瞬間、僕は戸惑いを覚えた。
「火の山?」
 水月の顔色が一瞬のうちに変わった。
 顔面が蒼白となり、瞳だけが怪しく輝きを増した。水月は少し間を置いた後、気を取り直したように大きく息をし、
「それ、ほんと?」
 と、聞いた。
 火の山は幼い頃僕の脳裏に住み着いた一つの光景だ。
 そこで一人の少女が燃やされる。
 いつの頃からか、繰り返し見た夢。今ではそれが夢かどうかも確信が持てない。僕の心に住み着いた僕だけの風景である。
 それなのに、なぜ水月はこの言葉に反応したのか。
 僕の呼吸はしだいに荒くなる。
 水月のどんな些細な表情の変化も見逃してはいけない。
 水月の瞳はほんの少し大きく開いただけだったが、僕は僕の言葉に鋭く反応して動揺する彼女の思念を読み取ろうとした。
「実は同じ夢を何度も見るんだ。その夢は時には朝から出現する時もある。現に、今だってーー」
 僕はそう言って、水月の反応を伺った。
「あなた、今、火の山って、言ったわね?」
「うん」と、僕が頷く。
「ねえ、それ、もっと詳しく話して。あなたが見続けた夢の話」
 僕は水月の強い調子に戸惑ってしまった。
 何か隠し事を暴き立てられるような、あるいは警官に尋問を受けるような圧迫を感じて、僕は思わず体を硬くした。
 第一、なんて説明したらいいのだろう?
「子どもの頃から、僕は同じ夢を見るようになったんだ。一人の少女が燃やされる夢。まったく自分でも嫌になってしまう。変な夢だと思うだろ? 」
 水月はゆっくりと首を横に振った。
「ねえ、その少女、どんな顔をしていたの?」
「それがどうしても思い出せないんだ。夢を見ている最中はすべてが分かっていて、僕はその少女を確かに知っているし、二人の間にどんな事態が生じたのかもすべて理解している。でも、夢から覚めた瞬間、少女が燃やされた悲しみだけが残って、後は何もかも記憶からこぼれ落ちてしまっている。その少女の顔すら忘れてしまって、どうやっても思い出せないんだ」
 水月は顔面蒼白で、僕をじっと見つめていた。
 その張り詰めた表情からは、何を読み取っていいのか分からない。僕は仕方がなく、水月の唇が動くのを待ち構えていた。
「それ、私よ」
 水月が掠れた声で言う。
「えっ」
 僕が思わず聞き返す。
「その燃やされた女の子、たぶん私なのよ」

 僕はすっかり混乱してしまった。幽霊の出現の仕方は色々とあるだろうけど、朝から携帯電話で呼び出され、こうして二人でコーヒーを飲むとは夢にも思わなかった。
 水月はいったい僕に何を告げたいのだろう。
 僕の脳裏に住み着いた幽霊が、こうして肉体を伴って目の前に出現する。こんな出現の仕方が果たしてあり得るのだろうか?
 水月は僕の頭の中まで観察するように、目に妖しい光を宿しながら僕の眼をじっと見つめた。
「どうして、君だと分かる?」と、僕が聞く。
「不思議ね。私が見ている夢と同じ。子どもの頃から、今も見ている夢よ」
 と、水月が僕の反応を確かめるように言う。
「えっ」
 今度は僕が衝撃を受ける番だった。
 二人が同じ夢を見る。しかも、子どもの頃から同じ夢を見続けている。果たしてそんなことが起こりうるのだろうか?
 僕はしばらく黙り込み、呆然と水月の顔を眺めていた。
 水月は僕の夢をどこまで知っているのだろう?
 僕の夢の中の少女が、水月という肉体を持って出現したのか、それとも、水月が知らない間に僕の脳裏に入りこみ、幽霊となって住み着いたのか?
 そう言えば、僕はこの同級生に関して、何一つ情報を持ち合わせていない。
 不思議な幽霊ーー
 今この瞬間、水月は瞬きをすれば消えてしまうのではないか。でも、確かなことは、僕にはその幽霊が必要だということだ。幼い頃から、僕はその幽霊と共に生きてきたし、水月に対しても、大学で一目見かけた時から、すっかり虜になっていた。
 水月と幽霊、今この二つが目の前で重なった。

 水月の瞳が哀しい色を帯びる。
 辺りの空気が透き通って、この喫茶店の中まで秋が入りこんでくる。僕は微かに寒気を感じている。
 この喫茶店は、なぜか人の気配があまりしない。僕の視界には、水月ただ一人しか映らない。僕には彼女の唇からどんな言葉がこぼれ落ちるのか、見当がつかなかった。
 水月が僕と同じ夢を見る。
 僕にはそのことの持つ意味が理解できないでいた。
「洋(よう)、あなただったのね。子どもの頃からいつも私の夢の中に登場していた男の子って。すっかり大きくなっているから、今まで気が付かなかったわ」
「とても信じられないよ。こんなことって、本当にあるのだろうか? 二人は現実に出会う以前に、夢の中で出会っていたことになるんだよ。」
「それはそうね」
 と、水月が呟く。
 その時、ウェートレスがコーヒーを運んできた。まだ女子学生のアルバイトという感じで、痩せぎすで動きがどこかぎこちない。あまり慣れていないのか、とても不器用な運び方で、カップをガチャガチャいわせながら、今にもこぼしそうだ。
 僕と水月はいったん話を切り、ぼんやりと彼女の指先を見つめている。
 あんなに細い指で、どのように筋肉を動かして物を運ぶのだろう。それでも、小さな指がカップを重たそうに持ち上げ、水月の前に置く。 
 緊張したせいか、かすかにコーヒーを受け皿にこぼした。
「失礼しました」
 と、慌てて言う。 
 僕は彼女が早く立ち去らないかと、ほんの少しいらついている。
 彼女の指はカップを置いた瞬間自由を取り戻し、少し軽やかに宙を掴んだ。 
 水月は何を考えているのか、おとなしくカップの行方を目で追っている。なんて淋しそうな表情をするのだろう。
 夢の話ね。
 水月が静かな調子で話し始めた。

 僕は養護施設で育った。
 一人っ子で、父親を幼い時に亡くしたのだ。そして、母親に棄てられた。
 ずっと孤独だった。
 今は大学生だが、それ以前の記憶はおぼろげで、断片的なことしか頭に残っていない。おそらく自分で自分の過去を無意識のうちに葬ろうとしたのではないか。
 時間が刻一刻と進むにつれ、現在が過去へと変わり、過去はすでにその存在を喪失する。それを掬い上げようとする意識が希薄な場合は、過去は二度と戻ってこない。
 僕は僕の過去を断罪する。
 なぜだろう、あの頃の僕は誰とも深く接触することを拒んでいた。相手の心を覗き込むことも、自分の心を人に見せることも、なぜか怖かった。というよりも、人と触れ合うこと自体を恐れた。
 まるで冬眠だ。
 自分の過去を葬り去るように、意識を閉ざしてしまう。そうした長い冬眠生活の中で、貪るように夢を見た。
 死んだ父の夢、それは僕の夢の中でも最も哀しいもので、それを見るたびに目を覚まし、僕は全身を汗でぐっしょり濡らしてしまう。
 夢の中に現れる父は、いつも哀しそうに僕を見つめるだけで、一言も言葉を発しない。
 僕は父を永遠の過去にした。
 だから、いつだって父はあの時と同じ顔、同じ姿で僕の前に現れる。でも、僕が語りかけると、父は淋しげな残像となって遠のいていく。
 そして、母との別離。
 僕は母の記憶を意識の隅に追いやった。母は僕を棄てたのだろうか。それとも、死んでしまったのか。そこで、僕の思考は停止する。
 僕は母を憎む。
 僕を棄てた母を憎む。僕は自分の意志の力で母を葬り去る。懐かしい匂いのする母のいる風景を自ら拒絶する。
 だから、僕は帰る場所のないノラ猫のように、いつも孤独を抱えたまま自分の力で生きていかなければならなかった。
 あの頃の幼い頭脳では、大人の世界で起こったことを正確に理解する術などない。
 理解不可能な出来事に出くわした時、幼い魂は自分の心を閉ざすことによって自らを防衛する。
 それが冬眠だ。
 そして、貪るように夢を見る。少女の夢。
 水月の夢。

「本当に不思議ね」
 水月がぽつりと言う。
「私も子どもの頃から繰り返し同じ夢を見ていたの。でも、それはもう夢とは言えないかもしれない。」
「君の見た火の山の夢、僕に話して欲しい」
「それはそうね」
 水月はそう言って、コーヒーカップを口に運んだ。ちょっと苦そうに顔をしかめて、一呼吸置く。
「夢の中に出現する私はいつも小学四年か、五年生くらいだわ。お母さんに手を引かれてとぼとぼと歩いている。やがて眼前に小さな丘のような盛り上がった場所が見えてくる。古墳のような形をしていて、うっすらと背の低い草木が茂っていたわ。」
 僕は水月の話を一言も漏らさないと、集中していた。僕の脳裏にも火の山の光景がしだいに浮かび上がってきた。
「私、本当は分かっていた。お母さんが私をあの山に棄てるつもりだって。だから、私はお母さんの手を必死で握りしめていたの。お母さんの手、汗でぐっしょりと濡れていた」
「そうか。僕の脳裏に絶えず蘇る少女は、確か小学四、五年くらいだ。あれは幼い頃の水月だったんだ」
「たぶんそうだと思う。私が見た夢が、あなたと同じだったらーー」
 水月はそう言って、大きな溜息をついた。そして、言葉を続けた。
「その山、突然燃え出すの。目の前で一匹の子犬が駆けていったのだけど、その子犬の体に火が付いて、やがて、炎に包まれて、消えていく。私、恐ろしくて恐ろしくて、お母さんの体にしがみついたわ。だって、私には、分かっていた。次は、私の番だって」
 水月が小さく言う。まるで息が歯の隙間からそっと逃げ出すように、微かな声で。
 僕は思わず息を呑む。
「火の山」
 僕の息も漏れる。
「そうーー私もとっさにそう思ったわ。子犬の全身が炎に包まれた瞬間、火の山って言葉が脳裏に浮かんだの。他になんて呼んだらいいのか、分からないもの。すべての生き物を火で燃やしてしまう山ーーだから、洋の口から火の山って言葉が零れた時、私、本当に心臓が止まるかと思った。そんな言葉、誰も知っているはずがないもの」
「うん」
「不思議」
 と、水月が呟く。
 彼女の瞳が心なしか膨らんでいるように思える。表面を涙の滴が覆って、それが一定量溜まると、行き場を失って落ちてくる。
「不思議ね。本当に不思議ね」
 水月が掠れた声で言う。
「あなたもあの時、あの場所にいたのでしょ? 私が棄てられて、火の山で燃やされるのを見たのでしょ?」
 水月が僕の瞳を覗き込む。
 切実な、胸が痛くなるほどの切実な表情で、水月が一心に僕の瞳を覗き込む。
 僕はゆっくりと頷いた。
「僕があの時見た少女は幼い頃の水月だったんだ」
「そして、あの時私が見た少年は、洋、あなただったーーずっと誰だか分からなかったけど、今朝夢から冷めた時、突然気が付いたの。あの少年は、洋だって。でも、確信が持てなかったから、とりあえずあなたに電話をした」
 僕の視界にはもう水月しか入らない。
「突然の電話、驚いたよ」
「そうでしょうね。で、私が燃えてしまった後、洋はどうなったの?」
 水月が僕を真っ直ぐに見つめて、そう聞いた。 
「僕もお母さんに棄てられたんだ。火の山でお母さんに燃やされた」
 僕が吐き捨てるように言う。
 その言葉を聞いたとたん、水月の瞳から大粒の涙が零れた。能面のように表情を一切崩さずに、ただ一滴の大粒の涙が頬を伝って流れた。
「やっぱりーー」
「二人とも親に棄てられ、火の山で燃やされたんだ」
 と、僕がぽつりと言った。


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