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周囲に感謝できる人こそ歩んでいける

今日でオリンピックが終わる。まだパラリンピックがあるので前半戦終了、といったところではあるが、一つの盛り上がりが一旦落ち着いた。(まさか閉会式で宝塚が国歌斉唱するとは…世界に素晴らしい歌劇団が紹介されることはとても嬉しいが、さんざん不要不急と虐げてきた国に使われることがとても恨めしい。組子の無事を祈るばかり…)

本大会は、いつもよりも選手の精神的なタフさが求められる大会になった。何の罪もないのに五輪開催に対する批判の眼差しが選手に向けられ、選手本人も「この状況で参加していいのだろうか」というジレンマを感じ、それでも目標を目指し最大限の力を発揮しなければならない…。加えてSNSの発展により、大衆の誹謗中傷の声が容易く選手の目・耳に入ってくるようになってしまった。外野が、環境が、雑音だらけの中で、いかに自分の精神を整え臨めるかが試された大会だった。

競技後のインタビューが印象に残っている。どの選手も結果に関わらず周囲への感謝の言葉が必ずと言っていいほど述べられていた。「このような状況下で開催してくださった方々」「苦しいときに応援してくれた家族、仲間、コーチ」「テレビの前で応援してくれている人たち」に対する言及がいつも以上に多かったと思う。その視点を持つのは当たり前のように思えるが、自分が置かれている状況を正しく理解していないと言及できないことだと思う。

私が愛するエンターテイメント界も同様だ。我が愛するMr.Childrenは、ライブで必ずサポートメンバーや裏方(設営、音響、照明etc)に対する感謝を舞台上で述べる。ミュージカルでは、生演奏をしてくれたアンサンブルメンバーへの拍手を舞台上のメンバーが贈り、観客も贈る。表舞台には必ず裏のサポートメンバーがいる。そのことを忘れない人たちだからこそ、”てっぺん”に立てるんだと思う。

いちアスリートであれば、幼い頃にスポーツに出会うきっかけになったかもしれない学校の友達や兄弟、自分の能力を高めるため指導してくれた監督・コーチ、切磋琢磨し合うライバル、そして様々な場面で支えとなったであろう家族、応援してくれるサポーター…どれか一つが欠けていたら今の立場には立っていなかったかもしれない。一人の才能だけではたどり着けなかった事実に気づけているからこそ、自分のため、周囲のために闘うことができるんだと思う。逆に自分の才能に酔いしれてしまっているアスリートは、栄光を一度は経験できたとしても長くは居続けられないのではないだろうか…。

アスリートではなくても同様だ。私が今こうして、大学に進学し、就職し、やりたいことを仕事にできている現状は、様々な人との出会い、そしてその道を支援してくれた家族がいたからである。私の両親は、好きなように歩む娘の道を遮ることは一度もなかった。その支援があったから、私は立ち止まりそうになったときでも、再び前が向けている気がする。

自分が置かれている現状を理解し、おごらずないこと。どんなに浮足立っても忘れずにいたい。人は一人では生きていけないのだから。

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