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鶏の解体を通じて学ぶ、いのちを奪うこと・食べること

👹👹 この記事には鶏や鹿の死体、解体されている風景の写真が掲載されています。気分の悪くなる可能性のある方は、閲覧にはご注意ください👹👹

こんにちは、Deep Care Labの川地です。

先日、関わりのある会社のメンバーと京都の美山まで、鶏の解体体験をしに行きました。
ひとことで言えば、「生きるための知をはぐくむ」学びのあり方を模索している仲間たち。「自分たちが学びたいことをラフなノリで、いっしょに学ぼうぜ!」と言い合える共同体がとても大事だね、と議論をしていた流れから、鶏の解体をしてみよう!となりました。

なぜ鶏を解体したかったのか

ぼく自身は、狩猟にとても興味がありいつか経験したいと思っていたので、いく気まんまんで臨みました。

興味を持ったきっかけとしては、ひとつはフィンランドのエコヴィレッジに滞在していたときに、受け入れ先の方が食事を食べる前に1分も「いのちをいただくお祈り」を捧げていたことから、自分のいただきますが形だけになっていたことに気付かされたこと。もうひとつは、北欧で流行りの昆虫プロテインバーを食べたとき。一本のバーに、500匹もの虫がすり潰されているとwebサイトを見ながら口にいれた瞬間、500ものいのちの大群が体を通り抜けたかのように感じたことです。500のいのちを喰らっているのか、とありありと感じたのですが、普段スーパーで肉を買うときにも、そこまでの重みを意識したことはありません。不思議な体験でした。

こうした経験から、いのちを喰うことをもう少し考えたいがために、いちど自ら殺めてみなければわからないことがある、そう思ったのです。

生それ自体が悪だという意識ほど、日々を彩るものもない。なにもあえて殺害行為をおこなわなくとも、わたしたちは生きるだけで大小様々な殺害を避けられないのであって、悪の自覚は、日常のありふれた物事でさえ喜びに溢れたものにしてくれる。 たとえば料理は、殺された動植物を切り刻んで煮たり焼いたりした挙句に皿に盛り付ける行為であるし、その動植物の市街を友人や家族と談笑しながら食べること、あまつさえその写真を嬉々としてSNSに投稿することは背徳の極みである。また、庭の草取りは大量殺戮に他ならないし、わたしたちの家は木々の遺体を組み合わせたものであるー。生命をきちんと生命と捉えるとき、いかにわたしたちがなんの気なしに凶行を働いているかがわかるだろう
東千茅「人類堆肥化計画」p. 38より

人類堆肥化計画で、東はこう語ります。ここで強調されていることは、いのちを奪うことが不可避であること、そしてそれを意識することこそが、より暮らしを鮮やかにすること。とてもポジティブにとらえているのです。

一方で、この「生のリアリティ」とでも言うべき、いのちの収奪は暮らしから切り離されています。隠蔽されていると言っても、いいでしょうか。前から読んでいた、「山と獣と皮と肉」を体験にいく前に読み返してみました。

生き物を殺して食べることについてまわる後ろめたさを払拭するために、スーパーの肉は今日のような無機質を突きづめたパッケージになったはずだ。
繁延あづさ「山と獣と皮と肉」p.106より

ぼくは普段スーパーで鶏や豚、牛を買うとき、いのちだと意識することはありません。あたかもモノのように、買っている(もちろん、無機質なモノも来歴をたどればいのちなのですが)。こうした背景から、鶏を解体してみて、感じたことを記録しておきたいと思います。

解体体験を「楽しみ」にするわたし

京都の美山にある、田歌舎という宿泊施設にて、おこないました。ここでは、スタッフさんは百姓的に暮らし、ほぼ自給自足の生活を営んでいます。「お客さんのためのアクティビティというより、わたしたちの日常をお客さんにも共有しているだけだよ」とスタッフの方は語りました。ここに1泊2日で滞在し、2日目にまる一日かけて鶏解体を行いました。

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解体の前日から、鶏はケースに「用意」されていました。コッコと鳴いています。オーナーがもともと、働いてた養鶏所から仕入れているらしいです。正直なところ、鶏解体をしたい、楽しみだった自分がいました。いのちを奪うというのに、楽しみだというのもおかしな話だなと思いながらも、殺すときにどう感じるのだろうか、自分で殺めた鶏はどんな味がするのだろうか、という新しい世界へのドキドキがあったことは否定できません。鶏を殺めることが消費的な観光体験と混じり合っているのかもしれないとも思い、自らを卑下もしました。でも、やはりぼくのなかではこの体験は一回やってみないと先に進めない、そんな感覚もありました。自らの手でいのちを奪うことなく、他者に委ねて生きるしか知らないことへのおかしさがどうしてもあったからです。

屠殺をする。いのちと欲

ケースから、鶏の脚をつかむ。二羽をお腹あわせに、脚をロープで縛る。カラダをよじらせる鶏。脚をにぎる手まで伝わるもがき。屠殺する場所まで運ぶ。鶏一匹あたり3kg。片腕は重みを感じている。

いよいよ、屠殺。木にロープを張る。そこに鶏の脚の結び目をかける。ロープから地面にふと目をやる。血が固まった跡。飛び交うたくさんのハエ。日々の暮らしでは見ることない、死の跡。体のなかのスンとした緊張。

まずこうやるのだ、とやり方を教わる。お手本をみる。頸動脈に小さなナイフでスッと降ろす。クビから血が滴る、飛び散るでもなく静かに。切られたことに気づかない鶏。静かに宙ぶらりんのまま。そこから20秒。暴れ出す鶏。一時が経つ。静かに羽をひろげる。フッと動かなくなる。

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暴れだしたときには、苦しみが伝播してきて、ぼくも顔がゆがみました。しかし、全体でわずか1-2分、思ったよりもあっさりとしていた、と思いました。お手本をみたあと、殺す覚悟はしてきたので、すぐ名乗りはあげられました。が、鶏に近づき目が合うと、一瞬だめになってしまいます。不思議なもので、「顔」はやっぱり大事なものです。

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一瞬のためらいを振り切る。左で鶏の頭を抑える。右手で、入念にナイフをおろすシミュレーション。左手につたわる鶏の拍動。

いざ、感じる怖さ。苦しみを与えることへの恐れ。幾度も足踏みする。よしいこう、を繰り返す。ようやくナイフを頸動脈にあてる。ナイフをおろす。

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一太刀でいのちを奪えませんでした。首周りの羽毛がクッションとなり、ナイフの角度はあまく、切り口が浅い。結果、何回もナイフを斬りつけることになる。これが一番苦しい瞬間でした。「一太刀で逝かせてあげられず、ごめん」と心のなかで謝りました。いのちを奪うことより、苦しませてしまったことが大きい感情でした。頸動脈に達するまで切ったあとは、いのちが停止するのを呆然と眺めていた気がします。

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首筋から流れてきた血で両手は赤く染まり、すぐさま水道で洗いに行きました。血を洗い流すことで生々しさから逃れたかった。一方、血がついた手で鼻を触ったりしたら何か感染するかも?という自らの安全・衛生への欲望が、ぼくという人間の生々しさを感じさせました。

死体から食べ物へ、うつろいの過程

屠殺を終えて、元の場所に鶏をふたたび運びます。生きた鶏を運んでいたより、幾分かずっしり重たく感じました。死体ゆえに脱力して重たくなっているのだろうか...。ぜんぶで8羽の死体をいったん並べたあと、お湯につけて毛むしりをしていった。丸裸になった鶏の死体は、肉屋で売られている見たことのある姿でした。昨晩たべた参鶏湯にはいってた丸鶏だな、と思いました。この瞬間から、死体から食べ物になっていきつつあったのです。一刻前に頸動脈を切るときに感じていた、いのちを奪う感情は消え去り「なんか肉屋に売ってるやつだ、食べられそう...」と思っていました。

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午前はここまでで一旦終了。お昼ごはんは、鶏肉のたたき・鳥と根菜の煮物・山菜の炊き込みご飯でした。いのちの奪う瞬間のことを考えつつ、いただきますはしたものの、その後、一瞬で鶏肉のおいしさに盛り上がりました。めちゃくちゃ弾力があって、美味しかった。お昼ごはんの鳥は自分で殺めた鳥ではないにせよ、ひたすら美味しい鳥を頬張るのに夢中でした。"飽くなき食への欲望"とはよく言うものの、本当に自分は欲のかたまりなんだなあ、と今振り返りつつこの文章を書いていると、思います。

食後、鶏の解体をはじめる。スタッフの方のお手本を眺めつつ、包丁をいれていきます。羽の部分をばらしながら、手羽先が出てきたときには、スーパーに並んでいる手羽先はこうやって解体されているのか!と食べ物と生き物が再びリンクする感覚がありました。普段、あれだけ食べているのにその部位が体のどこにどのようにあるのか、あまりにも知らないんだ。

スタッフさんは手練なので10分ほどで捌いてましたが、結局ぼくたちは一羽を解体するのに3時間ほどかかりました。スーパーや肉屋で買えば、5分で済みます。これだけの時間と労力、そして屠殺する瞬間の死の実在を、お金で省略しているのが、ぼくの日常です。

死が突きつける、エネルギーらしきもの。

鶏の解体体験のまえに、みんなで散歩をしているときに解体所を通りかかりました。ふと目をやると、水槽に子鹿の死体が沈んでいる。その死体をみたときの衝撃と生々しさに、目をそむけるどころかなぜか、目を奪われました。ただの怖いもの見たさかもしれません、または死の存在を目の当たりにすることが、日々のなかではあまりにもないために、目に焼き付けておきたかったのかもしれません。実際にはげしい存在感(死んでいるのにこの表現はおかしいですが)、エネルギーのような何かを死体そのものに感じました。以前、アーティゾン美術館の鴻池朋子さんの展示「ちゅうがえり」で感じたような、圧倒される感覚。

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猟師さんが顔をだし、「今朝、捕れたんだ」と語りました。獣害、とりわけ鹿による畑の食い荒らしなどは近年、とても増加しています。オオカミという天敵の絶滅や、温暖化による雪の減少により鹿が増え自然淘汰が効かなくなったり、狩猟者も高齢化・減少していたり。COVIDも環境危機に関連していますが、獣害もまたそうなのだ、と初めて知りました。

死体は水に半日は漬けておく必要があるらしく、夕方ぼくらが帰る頃に解体みせてもらえることになりました。そして、鶏解体も終えたあと、さあ、やるよ!と縄で天井から鹿を吊し上げて、まるで舞っているような鮮やかな動きで、解体をしはじめていきます。ベロンと、皮をはぎ、脚を切り落とし、子鹿はまたたくまにハラミやロースといった「部位」になっていきました。

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不思議なもので、あれだけ死を突きつけられていたのに、皮が剥がされ「ここ焼き肉でいうとハラミだよ」と猟師さんの説明を聞いてると、それは死体ではなく肉になっていました。もちろん、肉も死体の一部のはずです。が、やはりそこには、朝にぼくの全身に向けられた「死のもつエネルギー」のようなものは消えていました。

いのちを奪うことの日常性。「スーパーで買うんやなくて、おれは山にいく。それだけのこと」

途中、宿泊客として来ていた小学生2-3年?くらいの男の子が通りかかりました。「うわっ、なんで殺してるの、かわいそうじゃん」「悪いやつだ、お前は悪いやつだ」と言い放ちました。猟師さんは「でも君も肉、喰うやろ?それは誰かがこうやって殺してんねん」「スーパーで買うんやなくて、おれは山にいく。それだけのこと」と返していました。このやりとりが、ほんとうによかった。

結局、いのちを奪うことをぼくがやらずとも誰かがやっているわけです。それを自分でやるのか、他者にまかせるのか、それだけの違いでしかない。

ここにくる前には、いろんな本を読んだりもしていて自分のなかで解体体験は、どこか特別で「大きな」ことだと、感じていました。が、スタッフのみなさんの言動から本当にこれが彼らの日常なのだ、と。もちろんぼくにとってはどこまでいってもスーパーで殺された死体を買う日常とは異なる「非日常」ですが、彼らの日常性、つまり異なる世界や生き方の可能性に触れられたことが、とても大きいなと思います。

たとえば、「山と獣と肉と皮」にのっている生々しい写真を見て、どこかグロテスクだと思っていた光景も、この日の終わりには見慣れたものになっていたり。屠殺することも、もちろんもう一度やろうとしたら、それなりの覚悟はまたいるでしょうが、でも彼らの「スーパーで買うように山にいく」感覚の1ミリでも、自分の中に入り込んできた気がします。

生の暴力性を受け入れつつ、罪悪感ではなく彩りを感じたい。

また、釣りをして魚を捌くのと同じ地平に在るのかもしれないし、ベリーを摘むことだって同じかもしれません。「解体」だって、ぼくたちは日々スーパーで買った玉ねぎを細切れにしている。それらもいのちだ、と感じます。「特別な大きさ」を感じていたのは、鹿や鶏がより人に近い生き物だったからでしょうか、そうしたいのちのランク付けはやっぱり自分もしているんだなと感じました。

東の文章をもう一度みてみましょう。

生それ自体が悪だという意識ほど、日々を彩るものもない。なにもあえて殺害行為をおこなわなくとも、わたしたちは生きるだけで大小様々な殺害を避けられない
東千茅「人類堆肥化計画」p. 38より

人間である以上は、いのちを奪うこと自体は不可避です。たとえヴィーガンであろうと、植物のいのちを奪っているのですから。自分で殺めるにしろ、他者が殺めるにしろ、生きるとはあらゆるいのちの絡まり合いのなかにしか成り立たない。その自覚こそが、彩りをあたえる。生きることは根源的に暴力で罪深い、でも東が「日々を彩る」と語るように、ぼくはここに罪悪感を感じることも、なにか違うように思います。食べるために山に入るとは、生きるために山に入っている、ということです。生きることの罪深さへの自覚は必要だけど、罪悪感を感じるのもおかしな話だなと思いました。

誰しもが、鹿を自ら解体したり山菜を摘んで暮らすのは現実的ではありませんし、山や森に還れだけでは成り立たない。猟師さんだってジビエを都市のレストランに卸し生計を立てていたり、絡み合う大きなシステムがある。
ぼくは、都市にくらしスーパーで肉を買う、も別にいいと思います。一方で、この自分で殺めるという経験を経れば、日々いのちをいただく際に、もっと心からの感謝ができるようになるんだ!と、当初は思っていたし、期待していました。しかし、日々にもどって、そんな簡単に変わらない自分がいます。

純粋に、これもいのちが宿っていたものである、と感じて食べる。それが、いまの生活の中でいかに難しいことか。ぼくは、これからも悶々しつづけることでしょう。もっと、いのちを奪っていることへの自覚性を高め、彩りを感じるようになりたいものです。

解体した鶏は、一人一羽分、持ち帰りました。むね肉はカオマンガイに、もも肉はシンプルに塩焼きに、手羽は大根と辛味噌で煮て、内臓類は醤油煮です。生きていて、屠殺して、解体した鶏をぼんやり思い浮かべながら、それが自分の一部になっていくことを愉しみながら、いただきました。

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