デレラの読書録:千葉雅也『現代思想入門』
かつてないほど平明達意に現代思想について書かれた本。
コツを知りたければこれだけ読めばいいとさえ思う。
とはいえ、描かれているコツは本格的である。
それは、複雑なことを高解像度で理解するために、二項対立を意識してダブルで考えるということ。
現代思想を代表してデリダ・ドゥルーズ・フーコーが呼び出される。
彼らは二項対立を脱構築する思想を展開していた。
脱構築とは何か。
ようは、二項対立は必ず片側が優勢に設定されていることを指摘し、当の二項対立の前提となるもう一段高い視座を提示することだ。
彼らが脱構築するのは彼ら以前の思想である。
現代思想以前の萌芽としてニーチェ・フロイト・マルクスが呼び出される。
彼らは、秩序の外部にある非理性的なものを発見していた。
ニーチェなら、アポロン的なものに対してデュオニュソス的なものを、フロイトなら無意識を、マルクスは労働力を発見していた。
これらは、秩序ではなく秩序の外部(下部)にある蠢く力だ。
秩序の外部にあるもの、その蠢く力。
それはカントが物自体として表現し、ラカンが現実界=捉えられないもの=対象aとして指し示していた。
ここからどう距離を取るか(一段高い視座に上がるか)というのが現代思想家たちの脱構築的な思索である。
ようは否定神学批判という視点がニーチェ・フロイト・マルクスからデリダ・ドゥルーズ・フーコーへの変遷の根底に流れている。
秩序と秩序の外部という二項対立、そしてその外部を対象aとして否定神学化しないために、ダブルで考える。
外部を追い求めて、対象a=否定神学化すると、当の「外部」には永久に追いつけないだけで終わってしまう。
そうではなく、仮固定して、一旦秩序化する。
仮固定とは何か。
それは、固定する秩序に変化可能性があることを担保する、ということだ。
固定するけど、変わるかもしれないよ、という意味で、仮の固定なのである。
秩序と秩序の外部をダブルで考える(秩序は仮固定に過ぎないと考える)ことが、複雑なことを単純化せずにそのまま思考するためのコツである。
秩序が生成変化するということ。
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