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エッセイ:自由からの解放


わたしは、自由から解放されたい。
解放とは、逃走ではない。
自由であることから、さらに自由になること。
つまり、自由を受け取ることであり、自由を享受するということ。



わたしは「自由であること」に特別な価値を見いだしています。

わたしは、わたし自身が自由でありたいし、誰かの自由を妨げたくありません。

また、さらに言えば、最も自由であること、つまり、「自由であること」から自由であることはできるだろうか、と考えています。

それは、自由から解放されている、ということです。

今回は、自由について考えたいと思います。

自由とは何か、あるいは、自由から解放されることはできるか。

さっそく始めましょう、今回もよろしくお願いします。


1.運命と環境

あなたは「自由」と聞いて、何を想像するでしょうか?

たとえば、「選択」を連想するでしょうか?

自分の選択は自由であり自分で決定していること。

では自由ではない選択とは何でしょうか?

それは、運命によって決定されていることでしょう。

自分の選択は運命によって決定されていること。

このような意味で、自由という言葉から「選択の自由」を連想するひともいるかもしれません。

自分が思い通りにできることが「自由」という考え方です。


また、別の自由を考えてみましょう。

自然に身を任せていることを「自由」だと言うこともできます。

たとえば、魚が水の中を泳いでいること、鳥が大空を飛んでいること、草木が太陽に向かって伸びていること。

魚が陸にいると、自由ではない。

鳥の羽根が折れてしまえば、自由ではない。

日光を遮られては、草木は自由ではない。

魚の身体の構造は、水の中にいることが自然であり、そのときに自由であるということ。

鳥の身体の構造は、空を飛ぶようにできていて、空にいることが自然であり、そのときに自由であるということ。

草木の身体の構造は、日光に向かって伸びる傾向性があり、日光に当たっていることが自然で、そのときに自由であるということ。

人間で言えば、宇宙空間にいるときは、酸素がないので不自由であり、地上にいるときは、酸素があるので、自由であるということ。

つまり、自分の身体にとって自然な環境に身を置いていることが、自由であるということ。

環境の自由とでも呼びましょうか。


さて、上記の二つをまとめると以下のようになります。

①自分の思うようにできるということ、選択の自由
②身体の構造にとって自然であること、環境の自由

また「自由ではないこと」はその反対であることです。

①運命によって決められていて、自分の思うようにならない。
②身体の構造にとって不自然で、環境に適していない。

自由は、運命と環境によって、否定されます。

つまり、自由であることは、否定されていない状態である。

逆に、自由でないことは、否定された状態である。

この「否定」という拘束が、わたしを不自由にしている。

そう考えることができるでしょう。


話をより具体的にするために、賛否ある話題ですが、スポーツの話題を差し込みましょう。

わたしは、最近は、TVでスポーツ観戦をしています。

世界的なスポーツ大会が、いま行われている、ということについて、賛否があることでしょう。しかしここでは、大会開催の可否、賛否は話題にしません。ご容赦ください。

わたしが、ここで話題にしたいのは、自由についてです。


さて、スポーツ観戦をしていると自由について考えさせられます。

たとえば、プレイヤーは、とてつもなく速い球を打ち返す。

スケートボードで高く飛び、回転する。

お互いに組み合って、一瞬の隙をついて相手を投げ飛ばす。

空中で身体を回転させて、水の中に飛び込む。

百分の一秒でも速く走る。

百分の一秒でも速く泳ぐ。

一センチでも遠くへ飛ばす。

一センチでも高く飛ぶ。

乗っている自転車を回転させる。

複雑な回転をしながら鉄棒を掴む。

相手よりも一点でも多く点を取る。


わたしはこれらを観ていて、感じるのです。

プレイヤーは、先ほど述べた「運命と環境による否定」を覆そうとしている、と。

自転車で走りながら、あんなに高く飛ぶ姿。

誰よりも速く走る姿。

プレイヤーは、何もしないままでは変えられない運命を覆そうとしている。

プレイヤーは、身体にとって不自由な環境を乗り越えようとしている。


水のなかは不自由です、しかし競泳選手は水のなかをぐいぐいと進んでいきます。

重力や空気抵抗により、人間が走る速さや、飛ぶ距離には限界があります、でも大会記録や世界新記録が更新されていきます。

この状況では点は決められない。

この状況はひっくり返せない。

自分より大きいからだ、重いものは持ち上げられない。

この運命と、環境に、プレイヤーは抗っている。

運命と環境による「否定」への抵抗。

その抵抗に、わたしは自由を感じます。

自分の思うようにできず運命によって定められていること、あるいは、身体の構造にとって適していない環境にいること、この否定を乗り越えた先にある自由。

つまり、否定に抵抗することで獲得する自由です。

わたしは、競技や演技の細かな機微は分かりませんが、そのように感じました。


2.スタートライン、あるいは自由からの解放

わたしは、世界的な名プレイヤーたちの活躍をTVで見て、ある種の自由を感じ取りました。

それは、プレイヤーたちが「運命と環境による否定」に抵抗することで獲得する自由です。

しかしながら、それと同時に、やはり「環境と運命による否定」も強く感じたのです。

というのも、どれだけ才能があり、どれだけ努力した名プレイヤーたちでも「上手くいかないこと」があるからです。

つまり、「失敗」するということ。

回転が足りない。

的を外してしまう。

空振りしてしまう。

隙を見せてしまう。

点を取られてしまう。

息が続かない。

踏切を誤ってしまう。

転んでしまう。

ものすごく高いレベルで演技や競技をしているため、わたしには想像もつかないミスや失敗もあるでしょう。

その失敗は、やはり、運命と環境によって、否定されているから起こるものでもある。

そもそも、人間には翼はないのだから、そんなに高く飛べない。

滞空できるわけではない、いつかは落ちる運命にある。

それに抵抗しようと、プレイヤーたちは日夜努力し、練習に励んでいるでしょう。

それでも本番ではミスや失敗がある。

このようにして、わたしは、否定に抵抗して獲得する自由を感じ取ると同時に、やはり、環境と運命による自由の否定も、強く感じ取ったのです。

やはり、名プレイヤーたちでさえ、運命と環境によって自由は否定されている。

むしろ、競技や演技を通じて、その否定を乗り越えようとしているのかもしれません。

競技や演技が始まる瞬間、スタートの合図が鳴るその一刹那に、否定に抗おうとするプレイヤーの集中した真剣なまなざしを見ました。



さて、このようにして自由と不自由を同時に感じ取ることで、わたしは、重要なことに気がつきました。

それは、ここには「自由」からの解放が隠されているかもしれない、と言うことです。

どういうことか。

演技や競技が始まれば、その後は、運命と環境に対する、プレイヤーたちの抵抗が始まります。

そうして、結果が生じる。

否定に抵抗して自由を勝ち取ったプレイヤーもいれば、否定に絡みとられて失敗されるプレイヤーもいる。

しかし、演技や競技が開始される、その直前には、それから解放されたプレイヤーがいる。

競技や演技が開始される、その直前は、いまだ、何も決定されていない瞬間だからです。

演技や競技によって、運命や環境による否定に挑戦すること、抗おうとするその最初の瞬間にだけ、自由からの解放があるのです。

この瞬間に、プレイヤーたちは、自由を受け取り、自由を享受している。

自由から解放されている。

そして、実際に演技や競技が開始される。

ポイントは、実際に演技や競技を行わなければならない、ということです。

自由からの解放は、実際に演技や競技が開始される一瞬だけ生じるからです。

プレイヤーたちが演技や競技を始めるその瞬間、スタートの合図が鳴るその一刹那、初球が投じられるその直前。

それは、日夜、挑戦し、訓練し、選ばれたものだけが立つことのできるスタートラインです。

そこで、プレイヤーは、自由や、環境と運命による否定から解放されているかもしれない、ということ。


3.さいごに

今回は、自由について考えました。

自由とは、運命や環境によって否定されていないことです。

また、スポーツ選手は、運命や環境による否定に抗っている。

そして、実際に演技や競技が始まる瞬間、スタートラインの上で、プレイヤーたちは、自由を享受し、自由から解放されている。

スポーツ観戦をしてそう感じました。


さて、わたしは、ここで「文章を書くこと」にも同じことが言えるのではないか、と思い始めました。

スポーツ選手に比べると、わたしには努力も才能も足りていませんが、文章を書き始めるその瞬間にだけ、わたしは自由を享受し、自由から解放されているのではないか、と思います。

書き始めてしまえば、上手くかけるときもあれば、全く、上手く書けないこともある。

上手く書けないことの方が多い。

書きたいことが、書けば書くだけ、書けなくなる。

しかし、この書けないという運命に抗うことで、わたしは自由となり、書き始める瞬間にだけ、わたしは自由からも解放される。

そんな風に思います。

自由になるためには、書かなければならない。

自由から解放されるには、書き始めなければならない。

上手く文章を書けなくても、何度も「また何かを書こう」と思えるのは、書き始める瞬間にだけ、自由から解放されると感じられるから、かもしれません。

何かご意見や、お気づきのことがありましたらコメントください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


おわり


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