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デレラの読書録:宇佐見りん『推し、燃ゆ』


『推し、燃ゆ』
宇佐見りん,2023年,河出文庫

存在論的な問いへの苦痛。

平たく言えば、わたしは何故生きているのか、なぜ生きるのがこんなにも大変で辛いのか、疲弊するのか、その意味を問うこと、それが存在論的な問いである。

存在論的な重さ、とも言い換えられるかも知れない。

人々はこの存在の意味の重さを、あまりに軽々と処理する。

存在論的な問いへの重さは、軽さへと反転する。

こっちでは明るいキャラ、あっちでは暗いキャラ、こっちではこだわりキャラ、あっちではテキトーキャラ。

キャラクターを軽々と使い分けて、存在論的な重さを忘れてしまう。

一方には、存在論的な意味に立ち上がれないほどの重さを感じるひとがいて、他方では、その重さを忘れて軽々とキャラクターを使い分けるひとがいる。

どちらが良いわけでも悪いわけでもない。

さて前置きが長くなった。

本書『推し、燃ゆ』は、存在論的な問いへの重さに耐えられない主人公の物語だろう。

アイドルを推すことが、存在論的な重さを耐えるための、身体を支える「背骨」になる。

推しの言動、一挙手一投足を解釈し続けることで、存在論的な空白を満たしていく。

生きることの問いを、推しは何故こんなことをするのかという解釈の問いへと変換する。

自己の問いから、推しの解釈の問いへの変換。

しかし、推しは引退する。

推しは推しでなくなる。

「推しは人になった」(p.144)という端的な一文。

存在論的な空白を埋める存在が消えたあとに残った「重さ」に改めて直面する。

重さに直面した主人公は一体どうするのか。

結末はご自身で読んでいただきたい。

存在の意味の問い。

存在論的な重さとは裏腹に、存在は実は無意味でもある。

キャラクター、人格、ペルソナ、SNSアカウント、何とでも呼べるが、存在の意味は手軽にコロコロと変えることができる。

それほど実は存在は無意味で軽い。

しかし同時に、その空白、ぽっかり空いた穴から声が聞こえる。

空白から響く声は問う。

なぜ生きているのか、なぜ辛いのか、なぜ疲弊するのか、生きる意味は何か。

声を聞くたびに身体が重くなっていく。

存在の無意味さが、逆説的に存在の重さを錯覚させる。

重さに耐えられず、立っていられず、地面に手をつく。

起き上がるのに必要なのは、推しの声なのかも知れない。

存在の意味を問う声を、推しの声は上書きしてくれる。

推しの声を聞いている間は、存在の意味を問う声は聞かないでいられる。


しかし、推しの声はいつか止んでしまう、しかも唐突に。

推しの声に支えられて立ち上がることに慣れてしまったとき、別の不安に苛まれる。

推しの声が聞こえなくなることの不安である。

自分の意味の不安は、推しの声で耐えられる。

ならば、推しの声が聞こえなくなる不安は、どうやって耐えたら良いのだろうか。

そして、この小説の結末で、ついにその不安が完全に現実化する。

推しの声は消えて、主人公は存在の意味に押しつぶされる。


そして思うのだ、われわれはすでに押しつぶされたまま生きているのかもしれない、と。

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