デレラの読書録:宇佐見りん『推し、燃ゆ』
存在論的な問いへの苦痛。
平たく言えば、わたしは何故生きているのか、なぜ生きるのがこんなにも大変で辛いのか、疲弊するのか、その意味を問うこと、それが存在論的な問いである。
存在論的な重さ、とも言い換えられるかも知れない。
人々はこの存在の意味の重さを、あまりに軽々と処理する。
存在論的な問いへの重さは、軽さへと反転する。
こっちでは明るいキャラ、あっちでは暗いキャラ、こっちではこだわりキャラ、あっちではテキトーキャラ。
キャラクターを軽々と使い分けて、存在論的な重さを忘れてしまう。
一方には、存在論的な意味に立ち上がれないほどの重さを感じるひとがいて、他方では、その重さを忘れて軽々とキャラクターを使い分けるひとがいる。
どちらが良いわけでも悪いわけでもない。
さて前置きが長くなった。
本書『推し、燃ゆ』は、存在論的な問いへの重さに耐えられない主人公の物語だろう。
アイドルを推すことが、存在論的な重さを耐えるための、身体を支える「背骨」になる。
推しの言動、一挙手一投足を解釈し続けることで、存在論的な空白を満たしていく。
生きることの問いを、推しは何故こんなことをするのかという解釈の問いへと変換する。
自己の問いから、推しの解釈の問いへの変換。
しかし、推しは引退する。
推しは推しでなくなる。
「推しは人になった」(p.144)という端的な一文。
存在論的な空白を埋める存在が消えたあとに残った「重さ」に改めて直面する。
重さに直面した主人公は一体どうするのか。
結末はご自身で読んでいただきたい。
存在の意味の問い。
存在論的な重さとは裏腹に、存在は実は無意味でもある。
キャラクター、人格、ペルソナ、SNSアカウント、何とでも呼べるが、存在の意味は手軽にコロコロと変えることができる。
それほど実は存在は無意味で軽い。
しかし同時に、その空白、ぽっかり空いた穴から声が聞こえる。
空白から響く声は問う。
なぜ生きているのか、なぜ辛いのか、なぜ疲弊するのか、生きる意味は何か。
声を聞くたびに身体が重くなっていく。
存在の無意味さが、逆説的に存在の重さを錯覚させる。
重さに耐えられず、立っていられず、地面に手をつく。
起き上がるのに必要なのは、推しの声なのかも知れない。
存在の意味を問う声を、推しの声は上書きしてくれる。
推しの声を聞いている間は、存在の意味を問う声は聞かないでいられる。
しかし、推しの声はいつか止んでしまう、しかも唐突に。
推しの声に支えられて立ち上がることに慣れてしまったとき、別の不安に苛まれる。
推しの声が聞こえなくなることの不安である。
自分の意味の不安は、推しの声で耐えられる。
ならば、推しの声が聞こえなくなる不安は、どうやって耐えたら良いのだろうか。
そして、この小説の結末で、ついにその不安が完全に現実化する。
推しの声は消えて、主人公は存在の意味に押しつぶされる。
そして思うのだ、われわれはすでに押しつぶされたまま生きているのかもしれない、と。
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