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エッセイ:彫刻の森美術館「形(カタチ)を感じるということ」

先日、箱根にある彫刻の森美術館に行ってきました。

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彫刻の森美術館は、1969年に開館。

広大な敷地に、岡本太郎やヘンリー・ムーアなど有名な作家の彫刻作品が、屋外にたくさん展示されています。

こんな感じです。

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屋外の展示、晴れていたこともあって、とても気持ちよく観覧することができました。

もちろん、屋外だけでなく、屋内展示もあります。

なかでも有名なのが「ピカソ館」です。

ピカソ館には、ピカソの陶芸作品などが、300点ほどの作品が展示されています。


わたしは、彫刻の森美術館の作品を観て、とても興味深い体験をしました。

彫刻作品は、奇妙で面白い形のオブジェがほとんどです。

その奇妙さに、最初は驚きました。

非自然的で奇妙なオブジェが、自然の中に置かれている、という違和感。

しかしながら、最終的には、その違和感は融解し、奇妙なオブジェが自然の中にあることが当然のことのように感じられました。

非自然と自然の対立のようなものが、融解してしまったのです。

今回は、わたしが体験した「対立の融解」について、美術館全体の所感や、お気に入りの作品について振り返りながら、書いていきます。

よろしくお願いします。


1.屋外展示について、自然と非自然

何より屋外展示に感動しました。

運よく、晴れていたこともあり、とても気持ちよかった。(下の写真は美術館の入り口あたりです)

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わたしが訪れたことのある美術館は、主に絵画の展示が中心で、彫刻作品を観たことはありますが、彫刻作品を中心にした展示を観るのは初めてでした。


第一印象は、「変な形の彫刻作品がたくさんある!」ということです。

大自然の庭園に、非自然的な、抽象的なオブジェがたくさん置かれています。

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これは岡本太郎の作品です。

自然と、非自然のアンバランスが、独特の空気を作ります。

全体の雰囲気は、公式リンクを貼りましたので、見てみてください。

(イメージを共有するために、たびたび、リンクを貼りますね。)

さて、作品を見始めたころは、「自然と非自然のアンバランスさ」にクラクラしましたが、見慣れてくると、抽象的なオブジェが、自然に溶け込んでいることに気がつきます。

作品に慣れ始めると、作家ヘンリー・ムーアの次の言葉がすっと腹に落ちるのです。

「ひとたび野外に出て陽を浴び、雨に打たれ、雲の移りゆきを感ずるときには、彫刻も生活の一部であるということがよくわかる」

最初はあんなにも違和感をおぼえていたのに、気がつけば、非自然的な、抽象的なオブジェが、自然に溶け込んでいるように感じられる。

なぜでしょうか。

自然の中に置かれた彫刻と、その風景が、わたしは「街並み」に似ているのかも知れない、と考えました。


家や建物、橋、マンション、学校、池、バス停。

川、山、空、防風林、庭、畑、田んぼ、カラス除けのカカシ。

道路、雑草、黄色点滅を繰り返す信号機。

自動販売機、スーパーマーケット、コンビニ、ビル群の中の街路樹。

わたしが住み、わたしが生活し、わたしが見慣れている「街並み」は、よく考えてみると「自然なもの」と「人工的なもの」が同居している。

そもそも、わたしの生活は、「自然なもの」と「人工的なもの」とが一緒にあるのです。


最初は、変な形のオブジェにクラクラしましたが、それに慣れたわたしは、普段の生活においても「変なもの」に囲まれているのだ、ということに気がついたのです。

「非自然」と「自然」が同居していることは、日常感覚的には、変なことではないのかも知れません。

つまり、彫刻の森は、一見、非日常空間に感じるけれど、実は、わたしの日常生活と地続きにあるのです!

普段は本当に見慣れてしまって気がつかないけれど、私の生活の中にも彫刻のような「変な形」が同居している。

だから、彫刻作品を観ても、不思議と受け入れることができたのだ、そう思いました。


2.お気に入りの作品、抽象的な形としての身体

お気に入りの作品はウンボルト・ボッチオーニの「空間の中の一つの連続する形」です。

屋内展示で、写真禁止でしたので、写真がありません。(ちなみに屋外展示の作品はほとんど撮影可です。)

「空間の中の一つの連続する形」が見られる公式リンクを貼りますので、ぜひ見てみてください。

さて、「空間の中の一つの連続する形」とは、何でしょうか?

それは「身体」なのだ、と思います。

というのも、わたしは、自分の身体が「抽象的な形」であると感じることがあるからです。

わたしの身体は、三角形であり四角形であり丸であり直線である、と。

わたしの身体は、空間を移動する「抽象的な形」なのだと感じるのです。

その所感を、そのまま表現するようなこの作品に、わたしは心奪われてしまいました。

彫刻作品は、物体として、空間に存在します。

その存在感が、わたしに「説得力」を与えるのです。

わたしには、この作品が「動いている」ように見えました。

三角形と四角形と丸と直線が、ずっと「動いている」と。

抽象的なわたしの直感と、具体的に空間に存在する作品。

忘れられない出会いになりました。


3.形象を感じるということ、ピカソの言葉

ピカソと言えば、「ゲルニカ」が有名です。

しかし、彫刻の森美術館のピカソ館では、陶器の作品をたくさん見ることができます。

たくさんの作品はもちろん素敵でした。

いろんな角度から見た表情を一つの作品に詰め込むピカソ。

陶器は、そのアイデアを形にして、具現化しようとしているようでした。

形や絵柄が詰め込まれていて、一つのお皿なのに、いろんな表情がある。

表情が「動き続けている」ように感じるのです。


ピカソ館の壁には、ピカソの言葉が刻まれています。

わたしは次の言葉がとても心に残りました。

具象美術も非具象美術もない。
すべてが形象としてあらわれる。
一人の人物、一つの物、
一つの円もみな形象だ。
それらは程度の差はあれ、
強くわれわれに働きかける。

具体的(具象)でも、抽象的(非具象)でもない。

すべては、わたしたちの眼の前に「形象」として現れる。

この言葉は、自分の身体が「三角形であり四角形であり丸であり直線である」と感じてしまうわたしに「その直感は間違っていない」と言ってくれているように思えるのです。


また、この言葉は、この彫刻の森美術館全体のことを表現する言葉であるようにも思えます。

自然の中に、非自然な抽象的なオブジェがある。

しかし、自然も、非自然も、それぞれが、独自の形象をもってわたしたちの前に現れている。

木、山、雲、オブジェ、建物、窓、人、道、芝生、車、ベンチ、花、カメラ、帽子。

それぞれが、それぞれの形象をもって、わたしの眼の前に立ち現れている、そう感じました。


4.さいごに

彫刻の森美術館で、たくさんのオブジェを、あるいは「形象」を見て、わたしは、身体を感じ、作家のイメージと、わたしのイメージを感じたのでした。

自然も、非自然も、それぞれが「形象」を持っている。

そう考えると、自然と非自然の対立も、抽象と具体の対立も、すっかり融解してしまいました。

森の中の美術館のはずなのに、わたしの住む街並みであるかのようにすら感じられました。

なぜならわたしの生活する日常空間もまた、自然と人工が、それぞれの形(カタチ)を持って現れている場所だからです。

ビルの形、山の形、雲の形、家の形、冷蔵庫の形、金木犀の形、信号機の形、街路樹の形、川の形、橋の形、車の形、蜂の形。

すでにわたしは、あらゆる形象=形(カタチ)に取り囲まれて生活しているのです。



彫刻の森美術館という非日常的な空間で、わたしは不思議と、自分の生活と街並みを想起していたのでした。

非日常空間と、日常生活が地続きになる場所。

彫刻の森美術館、とても良いところでした。


おわり

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