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感想文:字義と振舞い(檎陽『Drowning』)

この感想文は、同人作家であり、わたし友人でもある檎陽(@gohi_nyan)さん(以下檎陽さん)の艦これ同人小説『Drowning』の感想文である。


言葉の意味には二種類ある、字義的な意味振舞い的な意味の二つ。

檎陽さんの描く小説は、言葉の振舞い的な意味を堪能できる。

檎陽『Drowning』,2022年8月,C100


字義的な意味と振舞い的な意味とは何か。

字義的な意味とは、言葉の辞書的な内容、あるいは言葉の真偽(正しいか、間違っているか)である。

一方で、振舞い的な意味においては、言葉の辞書的な内容や真偽は重要ではない。

どういうことか。

振舞いというのは、つまり、なぜそういうことを言うのか、ということを重視する、そういう言葉の使い方である。

たとえば、お前は馬鹿だなあ、という言葉を考えてみたい。

字義的な意味では、わたしがお前を馬鹿にしている、あるいは、端的に非難している、ということになる。

一方で、振舞い的な意味では、本当に馬鹿であるかどうかは関係がない。

字義ではなく、相手を馬鹿と言える二人の関係性が重視される。

ようするに、馬鹿と言いつつ、実は「お前らしいな」だとか、「最高に面白いことをしたな」だとか、そういう風に伝わる。

そういう振舞いが可能となる関係性を重視すると、字義的な意味とは全く違う別の意味が立ち現れる。

あるいは、ようは「嫌い嫌いも好きのうち」ということ。

字義的には「嫌い」を意味する言葉でも、振舞いとしては「好き」を表現している。

文芸・文学全般に話を広げれば、ある意味では、文芸・文学は「言葉の振舞い」によって様々な機微を表現してきたのではないだろうか。

有名な「月が綺麗ですね」という言葉も、字義的には「月が綺麗である様子」であるが、振舞いとしては、ある二人が同じ月を眺めている情景であり、また「月が綺麗ですね」という発言によって表現される情緒は、二人の関係性によって成立している。

ようは、「月が綺麗ですね」という発言が「あなたを愛しています」という意味に捉えられるためには、二人の関係性が重要なのである。


さて、ここで言う「二人の関係性」というのは、この『Drowning』では時雨と山城の二人の関係性である。

「思っていることは、言葉にしないと伝わらないよね」
「最初からそう言っているでしょ」
「だからこれから、お互いに思っていることを伝えようよ」
「そんなの、何も面白くないじゃない。それにそんなに馬鹿正直な生き方なんてしたくないわ」
(『Drowning』,p.7,前者時雨、後者山城)

上記引用は、時雨と山城の会話である。

ある意味では、山城の言う通り、字義的に言葉を使うことは「馬鹿正直」であり「面白くない」ことである。

言葉の面白さは、むしろ「振舞い」にある。

どういうことか。

普通の意味で「言葉が伝わる」と言うとき、ひとは「字義どおりの意味が伝わること」を想像するだろう。

けれど、あえて強く言えば、文芸・文学的には、そういう言葉の字義的な意味はつまらない。

文芸・文学的には「伝わる」というのは「なぜこんなことを言ったのか」という「振舞い」が伝わることなのである。


さて、本作品のメインストーリーは、山城と時雨の「夏」についての会話である。

お互いが考える「夏」とは何か、言葉にして伝えてみよう、ということである。

しかし、なぜ「夏」について話し合うのか、その振舞い的な意味が本作品の要だろう。

ネタバレを恐れずに言えば、それは「祈り」である。

「それなら、信じてもらいたいことだけを言うね。君のことを思い出せる祈りが欲しかったんだ」
(『Drowning』,p.43,時雨のセリフ)

時雨は一つ嘘を吐く。

自らを危険に晒す任務があることを山城に黙っていた。

その代わりに「夏についてお互いの考えを話そう」と話をすり替えたのだった。

では、なぜそんなすり替えが必要なのか。

その振舞いの意味、時雨の思いが「当然山城に伝わるだろう」と考えてしまうのは「押し付け」であろう。

ようは、期待の押し付けである。

だから、時雨は常に会話を脱臼させる。


直接的な返答ではなく、質問に質問で返すような会話表現が多々ある。わたしはその文体を分析して「返送表現」と呼ぶことにした(非一般的読解試論 第二回「詩・時間・交換」)。質問に対して回答を返すのではなく、質問を質問にして送り返す、返送である。

時雨の想い、あるいはその振舞いの意味が山城に伝わるかどうか、それは分からない。

振舞いの意味を、山城に押し付けることはできない。

言い換えれば、自分のことを分かってほしいという承認欲求を相手に押し付けることはできないのである。

大切なひとに自分の想いを押し付けるような行為は、本当に大切にしていると言えるだろうか。

だから、時雨の嘘(=話のすり替え)は「祈り」なのである。

祈りは、対象に「押し付ける」ことを避けるためのたった一つの冴えたやり方である。

押し付けず、祈る。

自らの振舞いは、その意味が相手に届くことなく、夏の蝉の声のように儚く消えてしまうかもしれない。

「さっきの答えなんだけど、儚さだと思う」
(『Drowning』,p.15,時雨のセリフ
風鈴の壊れやすさ、そして数日で寿命を終える蝉の声が夏らしさを感じさせる理由)

それでも、時雨は祈る。

想い人を大切にすることの、その機微を檎陽さんは文学的に表現している。


檎陽さんは、艦これを中心に同人小説を描いている。

N/R/Fというサークル名で活動中。(N/R/Fにはわたしも少し参加させて貰っています)

もし同人誌即売会に出かける機会があるならば、ひとの想いの機微を感じさせる檎陽さんの小説をぜひ手に取って貰いたい。


おわり


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