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エッセイ:イギリス経験論・概観

イギリス経験論は、フランシス・ベーコンやトマス・ホッブズを源流に持ちながら、1600年代のイギリスで勃興します。

人名で言えば、ジョン・ロックから始まり、ジョージ・バークリ、デヴィッド・ヒュームへと流れる、思想の流れです。

わたしなりにざっくりと要約してしまえば、経験主体が客体の情報から知識を形成する能力についての思考の流れ。

この一文だけでも、主体とは何か、客体とは何か、知識とは何か、形成する能力とは何か。問いが続出するでしょう。

今回この問いに全部答えられるわけではありませんが、一ノ瀬さんの『英米哲学史講義』をもとに、イギリス経験論について概観したいと思います。


1.ジョン・ロック 

ジョン・ロックは、対象である物体側に主体の知覚を惹起する性質があり、そこで感受した観念を主体側が色々加工してると考えました。

もう少し言うと、物体側にある性質は誰にとっても同じで公的なものであり、感受された観念は主体によって異なり私的なものであるということ。

つまり、物体は公的であり、感受した観念は私的なものであるという公私の対立があります。

これを聞いて、わたしは虹を連想しました。

虹という現象は、日光が空気中の水滴に当たり分散して複数の色が現れる現象ですが、虹は見る人によって「見える色」が異なります。

たとえば、ひとによって7色に見えたり、3色に見えたり。

虹自体は誰にとっても同じ公的な理由で生じる現象ですが、見え方は私的でそれぞれに異なるのです。

さて、ジョン・ロックは、この私的に感受した観念を複合したり抽象したりして、人は知識を身につけると考えたのでした。

ようは、まっさらな白板に文字を書き込むようにして知識が得られていくという考え方です。

つまり経験を通じて知識を蓄える、という経験論の基礎を形作ったのです。


2.ジョージ・バークリ

バークリは、知覚主体が観念を形成するという点では、ロックと同様ですが、物体があるということ自体は否定し、また抽象の能力も部分的に批判しました。

ロックは物体があると考えたし、抽象の能力があると考えました、つまりバークリはロックを批判したと言えるのです。

バークリによれば物体自体は知覚できないので、そんなものは存在しません。

わたしたちは物体を見ているようでいて、実は物自体を見ることはできていない。

ようは、視覚によって惹起した観念を見ているに過ぎないということ。

また、抽象化した概念は、部分を全体に代表させているに過ぎないと考えました。

抽象化した概念が部分を全体に代表させているに過ぎない、というのはどういうことでしょうか。

たとえば「猫」を「にゃー」と鳴く生き物と定義しようとしたとします。

でも、当然ですが「にゃー=猫」ではないでしょう。

猫は体が柔らかいとか、髭があるとか、様々な要素が合わさって猫なのであって、「にゃー」という性質を諸性質の中で代表させているに過ぎない。

「にゃー」と鳴く性質は、猫の部分でしかないのです。

このように、バークリは、物体を批判し、抽象の能力を部分的に否定しました。


3.ヒューム

ヒュームは、主体の知識形成の説明として因果論を持ち込みました。

知識の形成を簡単に言い換えれば、AはBであると定義付けていくこと、と言えます。

ではどうやってA=Bという結びつけられるのか。

先の例を使えば、「にゃーと鳴く生き物と言えば?」と日本人(猫の鳴き声の擬音は各国違うだろうから)に聞けば、すかさず「猫」と回答が得られるでしょう。

つまり、この「にゃー」と「猫」の結びつきはどのように形成されるのか。

ヒュームは、それは習慣や習癖であると言います。

ある特定の形をした生き物は、どれを取っても「にゃー」と鳴いてる。

これを習慣的に何度も目撃することで、「にゃー=猫」の結合が形作られるということ。

ここで、ヒュームが特に強調するのは「必然的結合」です。

なぜなら、必然的ではない結合は誤った知識になりえるからです。

どういうことか。

『英米哲学史講義』で挙げられている例を借りて説明しましょう。(p.110)

電車が止まる時に、徐々に運転手がスロットルを下げるために車内で微かに風が起きる。

単に習慣を知識とするなら、このことから、「風が起きれば電車が止まる」と結合することがあり得るでしょう。

でもそれは端的に誤りです。

実際の必然的な結合は「運転手がブレーキをかけること」と「電車の停止」でしょう。

このように、必然的な結合以外は、単に誤りであり、知識として定着させるには必然性が重要なのです。

さて、ここでヒュームの因果論はある問題を提起します。

それは、因果によって物事が決まっているのではないか、という自由と必然の問題です。

どういうことか

原因があって結果がある、その連結によって知識を基礎づけると、副次的に全ての物事は原因によって説明できるという運命論が発生してしまう、ということ。

運命論によれば、わたしたちは自由な意志によって何かを受け取り決定しているのではないと言えるでしょう。

なぜなら、運命論においては、物事には原因があり、結果的に行為が決まっているからです。

では、それのどこが問題なのか。

ようは、すべてがすでに原因によって行為が決まっているのであれば、自由意志がなくなってしまうということ。

そして自由意志がなくなれば、極端な話、責任の主体を失ってしまうということです。

どういうことか。

たとえば、わたしが人を殴ったとき。

わたしが人を殴ったとしても、その行為は決められたもので、わたしがやりたくてやったわけではない。

そもそも昨日起きた別の出来事が原因なのだ、だからその原因を起こした人が悪い。

わたしは今日、あなたを殴る運命にあったのだ、ということ。

このように、原因の無限後退がはじまるのです。

一方で、ヒューム自身はというと、意志はあり得ると考えました。

つまり、自由と必然は両立すると考えていたのです。

この自由と必然、意志と責任の問題は、現代においても結論が出ていません。


4.おわりに

イギリスの経験論は、最初に述べた通り、経験主体が客体の情報から知識を形成する能力についての思考の流れなのでした。

ロックは、人間を経験の主体に位置付けた。
バークリは、物体を否定し、その人間の抽象能力を掘り下げた。
そしてヒュームは習慣によって知識は形成されると論じた。

したがって今後わたしは、経験主体において、印象や観念が知識として定着するというのはどういうことなのか、を考えなければなりません。

そのためにまず次回は、さらにロックの思想にさかのぼって詳しく学び直します。

ではまた次回。


参考文献

『英米哲学史講義』
一ノ瀬正樹,2016,ちくま学芸文庫

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