見出し画像

エッセイ:文字と言葉、あるいはマテリアル・イメージ・シンボルについて

文字と言葉、あるいはマテリアル・イメージ・シンボルについての思考実験です。

検討が不十分なところがありますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。

よろしくお願いします。


文字と言葉について

「文字」と「言葉」に分けて考えてみたいんです。

「文字」は形や音、「言葉」は文字が連なったときに生じる意味です。

では、分けて考えるとはどういうことか。

ようは、ことばを、〈ことば〉=文字と、【ことば】=言葉に分けて考えてみたい、ということ。

文字〈ことば〉は、「こ」と「と」と「ば」という形で構成されており、また音は「ko」と「to」と「ba」という音で構成されています。

言葉【ことば】は、次のような意味を持っています。

意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。

Oxford Languagesの定義

「形・音」と「意味」に分ける。

わたしが普段使っている「ことば」を、「文字」と「言葉」に分けてみるということ。


文字について

文字は、形であり音です。

言ってしまえば、それは物体のようなものです。

物体というのは、たとえば、赤信号、林檎、てんとう虫、郵便ポスト、トマト、そういう現実に存在する物体のことです。

では、文字はどのような物体なのか。

文字は、紙にインクで書かれた形、線、点、シミ。

あるいは、石板に刻み込まれた形、線、点、穴。

さらに言えば、音であり、喉と口の形によって響く音波です。

そういう物体的なものです。

物体は、意味とは別個に存在します。

どういうことか。

たとえば、本の意味は、ザックリ言えば「情報伝達を目的に作られた媒体」でしょう。

しかし、現実の本は、その意味(情報伝達媒体)とは別に、厚みや重みを持ちます。

物体ですから当然です。

では、「意味とは別に重みや厚みを持つ」というのはどういうことか。

ようは、本は、その厚みを使って、ちょっとした枕に使ったり、その重みを使って、紙をおさえる文鎮に使ったりすることが出来るということ。

つまり、意味を飛び越えて、物体は別の使い方ができる。

さて、文字は物体なのでした。

ということは、「文字」もまた「言葉」という意味を飛び越えて、別の使い方ができるのではないか。


言葉について

一方で、「言葉」とは何でしょうか。

文字との対応関係で言えば、「言葉」は文字が連なったときに生じる意味なのでした。

物体には様々な意味があります。

本の例に戻れば、本は情報伝達を目的とした媒体であり、その重みを使えば文鎮であり、厚みを使えば枕なのでした。

媒体・文鎮・枕。

しかしながら、本の意味はやはり「情報伝達を目的とした媒体」でしょう。

もっと言えば、「情報伝達を目的とした媒体」が本の特権的な意味でしょう。

どういうことか。

特権的、言い換えれば、一般的、あるいは、本当の意味、あるいは、第一義的、ということ。

本の一般的な意味は、「情報伝達を目的とした媒体」であるということ。

逆に言えば、本には、「枕」や「文鎮」という意味もあるけれど、それらは抑圧されて、排除されて、押し込められて、覆い隠されて、第二義以下にされているということ。

つまり、意味には、一般的な意味と、抑圧された特殊な意味があるということ。

簡単に図示してみましょう。


勘違いすること

さて、文字は物体です。

そして、その物体を並べて、意味を抑圧して、一般的な意味を抽出します。

すると言葉がフッと立ち現れてくる。

「並んだ文字」の意味をコントロールすることで、文章は書かれている。

ここから「勘違いすること」の仕組みが分かるでしょう。

「あつい」という文字列を、抑圧抜きに書いてみましょう。

あつい

さて、この文字列「あつい」の意味は、何でしょうか。

熱い、厚い、暑い、篤い、アツい。

その意味は、読む人によって異なる、別の言い方をすれば、意味は確定していません。

では次のように書いたらどうでしょうか。

今日は昨日に比べて「あつい」、汗がダラダラ垂れてくる。

こう書けば、「あつい」というのは「暑い」であることが分かります。

このように、文脈によって、意味は狭められていく。

これが抑圧です。

またこの構造によって「勘違いすること」が生じるでしょう。

ようは、「アレ取って」とお願いされたときに、コレだと勘違いする、ということ。

あるいは、文字が物体であるがゆえに、意味が十分に抑圧されていなければ、勘違いが生じてしまう、ということ。


完璧な説明と、詩情について

文字はひとを勘違いさせる。

では、文字列の示す意味を、カチコチに、完全に、完璧に、100%伝わるようにすることはできるでしょうか?

わたしは、それは不可能であるように思います。

いくら抑圧しても意味を確定できない。

また、勘違いの構造は、そのまま、文学的な詩情のようなものを生み出すでしょう。

つまり、文字列の解釈の広がりを持たせるように、文字列から情景を醸し出させるように、緩やかに、艶やかに使うこともできるということ。


マテリアル、イメージ、シンボル 1

さて、わたしたちは、「文字」と「言葉」を分けることから出発しました。

そして、「文字」は物体であり、「言葉」には、特権化された「一般的な意味」と、抑圧された「特殊な意味」がある、ということを見てきました。

ここからわたしは、話を飛躍させてみようと思います。

この章では、そのための助走を始めます。


文字という物体は、特殊な意味群を想起させ、そのなかのいくつかが特権化された意味になる。

この過程を、マテリアル、イメージ、シンボルと言い換えてみたい。

文字という物体は、特殊な意味群を想起させ、そのなかのいくつかが特権化された意味になる。

 ↓言い換え

マテリアルは、いくつものイメージを想起させ、そのなかのいくつかがシンボルになる。

つまり、文字はマテリアルに、特殊な意味はイメージに、一般的な意味はシンボルに相当する、そういう関係です。

このマテリアルとイメージとシンボルの三つについて考えてみたい。

簡単に図にしてみます。


マテリアル、イメージ、シンボル 2

わたしたちは、マテリアルを認識できているでしょうか。

たとえば文字。

文字というものは、紙にインクで書かれた形、線、点、シミ、口から発された音の波、なのでした。

そこから、わたしたちはイメージを想起します。

「林檎」という文字から、あの甘酸っぱさ、赤さ、丸み、油分による光沢、薫り、固さ、シャリシャリとした食感などをイメージするでしょう。

では、そのイメージをすべて剥ぎ取ったあとに残る「林檎」という文字を、わたしたちは認識することが出来るでしょうか。

ここで「実は、文字そのものを認識できていないのではないか?」という疑問が生じます。

つまり、「林檎」という文字、それ自体をわたしたちは認識することが出来ないのかも知れません。

イメージを剥ぎ取られたマテリアル。

むき出しのマテリアルは、すぐにイメージの衣をまとって、わたしたちから身を隠そうとする。

あるいは、そもそもマテリアルというものは、ブラックホールのような無の存在なのかもしれません。

マテリアルは、イメージを持たない。

マテリアルは、無である。

マテリアルは、イメージを喚起する。

認識できないマテリアル。

図1(下記に再掲)で、マテリアルが、イメージにも、シンボルにも触れずに少しく隙間が空いているのは、こういう理由です。

図1を再掲


マテリアル、イメージ、シンボル 3

さて、イメージとシンボルの関係についても、振り返っておきたいと思います。

イメージとは、マテリアルによって喚起された、個人的な、特殊な意味なのでした。

一方で、シンボルは、イメージが文脈などによってある程度抑圧されて、一般化された意味です。

たとえば、女性とは何か、ということについて、ひとはそれぞれにイメージを持っているけれど、一方で(良いかどうかは別として)シンボル化された女性像というものがあるでしょう。

シンボルの利点は、共通言語化されていることです。

シンボルを見れば、大抵の人が同じ意味を読み取るということ。

たとえば、電車で「車いすマーク」を見つければ「そこは車いす優先席である」と読み取ることが出来る。

あるいは、消火器の場所がわかる、AEDの場所が分かる、エレベーターがどこにあるかわかる、点字ブロックがあれば駅までの道のりが分かる。

また、分類にも役立ちます。

たとえば、本屋さんに行ったとしましょう。

そこで、歴史や哲学や、科学や数学、料理や日曜大工、旅行誌や子どもの絵本、といったカテゴリーが無ければ、欲しい本がどこにあるかも分からないでしょう。

分類が全くない本屋さんがあっても楽しそうだなあ、と少し思いますが、やはり、日常的に本屋さんに行った時には、カテゴリー分けされていないと不便で困ります。

ようは、「カテゴリー分け」という一般化の手続きは、買い物を楽にしてくれるということ。

このように、シンボルは共通言語化や分類によって利便性を提供します。

しかし便利な一方で、シンボルは、抑圧であり、限定であり、枠にはめ込もうとする力でもあります。

どういうことか。

たとえば、一般的な女性像が、女性の役割を規定したり、同時に、一般的な男性像が、男性の役割を規定したりするということ。

エレベーターのマークがエレベーターの有無だけを表現するように、シンボルとしての男性・女性は、男性・女性の役割を、意味を固定化するということ。

そして、意味や役割が固定化されれば、その意味や役割に当てはまらないひとは「例外」扱いされ、「少数者」扱いされ、「弱者」扱いされてしまいます。

実際にはそこには人間というマテリアルがあるだけなのにも関わらず、一般的な意味に当てはまれば「普通」で「多数者」で「強者」になり、当てはまらなければ「例外」で「少数者」で「弱者」となる。

このように、シンボルは、イメージに対して「線引き」をするのです。

このイメージはA、このイメージはB、という線引き。

その線引きは、利便性と暴力性を両面に抱えているということ。

さて、ここには倫理の問題があるのですが、今回はそれを脇に置きます。

そろそろ、わたしはこのマテリアル、イメージ、シンボルの三区分から飛躍する必要があるでしょう。


飛躍

一旦、まとめましょう。

マテリアルというものは、イメージを剥ぎ取られたむき出しの物体、あるいはブラックホールのような無の存在なのでした。

わたしたちはマテリアルそれ自体を認識できない。

そして、イメージは、マテリアルに喚起され、無数に存在します。

そのイメージを一般化し、線引きし、整理すると、シンボルというものが誕生します。

イメージは、マテリアルから生まれ、シンボルは、イメージから生まれる。

イメージは、マテリアルから飛び出し、シンボルは、イメージを抑圧する。

このように、三区分を考えてきたのでした。

では、この三区分からどのように飛躍するのか。


ここがロドスだ、ここで跳べ

(ヘーゲル『法の哲学』,中公クラシックス,p.27)


この三区分は、それ自体が一つのイメージなのではないか。

あるいは、マテリアルもシンボルも「イメージ」に過ぎないのではないか。

どういうことか。

ようは、すべてはイメージである、ということ。

シンボルがイメージである、ということは、おかしなことではないでしょう。

というのもシンボルは、一般化されたイメージなのであって、もとはあるひとつのイメージに過ぎません。

ようは、複数あるイメージのなかで、その中のひとつが(あるいは何個かが)特権的にシンボルとなっただけなのですから。

たとえば、トランプの「2」は、大富豪というトランプゲームのなかでは一番強い手札であり、特権的な地位にいます。

しかし、トランプがただの紙札である、という点では「2」も「3」も「8」も「13」もどれも同じ「紙札=イメージ」であるということ。

では、マテリアルはイメージなのでしょうか。

マテリアルは、イメージを剥ぎ取られたむき出しの物体、あるいはブラックホールのような無の存在なのでした。

イメージを剥ぎ取られているのだから、イメージではない、そう思えるかも知れません。

しかし本当にそうだろうか。

わたしたちは、先ほど林檎を例に考えたのでした。

「林檎」という文字から、あの甘酸っぱさ、赤さ、丸み、油分による光沢、薫り、固さ、シャリシャリとした食感などをイメージするでしょう。

では、そのイメージをすべて剥ぎ取ったあとに残る「林檎」という文字を、わたしたちは認識することが出来るでしょうか。

マテリアル、イメージ、シンボル 2

ここに罠があるのではないか。

どういうことか。

つまり、「イメージを剥ぎ取った後に何かが残る」はずだ、ということ自体が、罠であるということ。

ようは、「イメージを剥ぎ取った後に何かが残る」ということは、別の言い方をすれば、特別な何かがある、ということです。

特別な何か、ようは、本当の〇〇がある、真の〇〇がある、実は〇〇が残っている。

ではその証拠は何でしょうか。

それは、人間が〇〇を認識できない、ということです。

人間は〇〇を認識できない、だからそこには〇〇というものがある。

この「できないからだ」という論法を、否定論法と呼びましょう。

〇〇がある、なぜなら〇〇を認識できないからだ、という論法です。

もっとも身近な例を言えば、幽霊の否定論法があります。

幽霊がいないことを誰も証明できない、だからいるのだ

あるいは、徳川埋蔵金の存在を誰も否定できない、みたいな小話がなんとなく説得力を持ってしまうのは、この論法によるものでしょう。

さて、マテリアルもこの一例ではないか。

マテリアルは、「イメージがない」というイメージであり、そのイメージが、否定論法によって説得力を持ち、それが一般化され「マテリアル」というシンボルとなっている、ということ。

つまり、マテリアルとは、一般化されたイメージであり、「イメージがない」というシンボルなのです。

したがって、わたした最初の図を以下のように書き換える必要があるでしょう。

端的に言ってしまえば、すべてはイメージでしかない、ということ。

その中で、何かが区分され、定義され、意味付けされている。

その中で、序列が生まれ、否定論法がなされ、一般化し、抑圧している。

トランプの例で言えば、元々はみんな同じ紙札でしかなかったということ。

トランプの大富豪ゲームのなかでは、シンボルは「最強札の2」であり、マテリアルは「番号を持たないジョーカー」である、しかし全部同じ紙札(イメージ)に過ぎない。

その中で、ルール(文脈)を制定することで、一つ一つの権威づけがなされるのです。


最後に

わたしは、文字と言葉という二区分からスタートして、マテリアルとイメージとシンボルという三区分を経由して、すべてはイメージであるという一元論に着地しました。

この着地点から、わたしたちはどのようなことが言えるのか。

たとえば、文字と言葉の対立については、どうでしょうか。

「文字」という意味の剥ぎ取られたマテリアルがあるのではなく、文字とは「意味が剥ぎ取られた、という意味」を含意した言葉であることが言えます。

つまりは、すべてがイメージである、ということは、すべては言葉である、ということ。


また、イメージの一元論は、シンボルやマテリアルに対する相対化の力となります。

どういうことか。

特殊な意味群が大量にあり、そのうちの一つが特権化しているにすぎない。

これは、シンボルとは別のイメージを持つことができれば、シンボルが持つ特権性を打ち崩せる、ということです。

言ってしまえば、イメージによって意味が拡張していく、ということです。

この拡張の可能性については、また別の場所で思考実験したいと思います。


さて、このイメージに(「すべてはイメージである」というイメージに)、序列を与えるのは、恐らくあなたです。

あなた(読者)という文脈が、このイメージを抑圧することになるでしょう(共感する、あるいは否定するということによって)。

あまりに検討が足りていない、身勝手な文章であるにもかかわらず、ここまで読んでくださってありがとうございました。

真偽は別にして、面白いと思ってくださったなら嬉しいです。

おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?