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デレラの読書録:平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』


『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』
平井靖史,2022年,青土社

ベルクソンの難解な時間哲学を、問いの前提から説明してくれる本書。

専門用語にこだわらず分かりやすくパラフレーズしてくれる。

専門用語の再生産ではなく、日常語に換言して読者の想起を促す。

まさに創造的である。

では、ベルクソンの時間哲学とは何か。

時間と聞いて、わたしはまず「絶対時間」を連想する。

「絶対時間」とは、ようは客観的な時間である。

誰にとっても同じ時間、ひとによって変わらない絶対的な時間。

しかし、ベルクソンはそれは空間化された時間だと言う。

空間化された時間は計測可能だが、それとは違う計測できない時間がある。

本書では体験の時間と呼称している。

では体験の時間とは何か。

絶対は計測できる、つまりそれは「量」である。

他方で、体験時間は計測できない。

なぜならそらは「質」だからだ。

質、あるいは、個人的な体験。

リンゴを食べたときのみずみずしさ、甘酸っぱさ、皮のテカテカした感じ。

この「感じ」が質である。

この質を感じる時間が体験時間である。

では、この体験時間はどうやって作られるのか。

この質の問いをとっかかりにして、本書はベルクソンの時間哲学を掘り下げていく。

時間哲学の主役は「記憶」だろう。

マルチ時間スケール、拡張記憶、運動記憶、様々な概念が飛び出す。

常にオートマチックに発動している運動記憶、そこに注意的再認と想起で拡張記憶にアクセスしてひらめきが起きる。

拡張記憶と運動記憶の二段構えが、わたしたちを知的創造(連想、ひらめき)の世界に導く。

なるほど!面白い!

また、わたしが特に共感したのは、「自我の変容」である。(p.342)

自我の変容、どういうことか。

それは運動記憶がトークンからタイプを作り出すことに関わる。

ようは、習慣化だ。

新しい、知らないことに出会ったら、運動記憶はそのトークン(知らない新しい出来事)をタイプ化(凡庸化)し始める。

しかもそれはオートマチックに作動する。

それは拡張記憶にも取り込まれ、紋切り型の凡庸なイメージに落とし込まれていく。

これを読んで、わたしは昨年行った宮古島旅行を思い出した。

わたしは去年、家族と人生で初めて宮古島に旅行に行った。

宮古島はもちろん、わたしは国内では広島よりも南に行ったことがなかった。

正真正銘の、初めての南国である。

日差しのキラキラとした感じ。

カラッとしている空気。

海の透き通ったコバルトブルー。

路肩で揺れるサトウキビ畑。

泡盛の芳醇な香り。

わたしは人生で初めて会う「質感」の応酬にクラクラしながら旅行を楽しんだ。

しかし2泊3日の3日目である。

わたしは宮古島をなんとなく習慣化し始めた。

最初はどこに何があるか分からなかったが、どっちに行けばビーチがあり、どっちに行けばお土産が売っているか分かる。

わたしは宮古島を知り始めた。

たった3日で?と思うかもしれないが、驚くべきことに、初日、2日目の質感は、やや凡庸なものになっていった。

それは宮古島の美しさを少しも減じないのだけれど、わたしは着実に、オートマチックに、トークンのサンプリングを済ませていく。

やや寂しさがあるが、同時に、新しいものを知る喜びでもある。

マルチ時間スケールでは、あの記憶は人格質においてはいまだなお現在である。

わたしのバックグラウンドには、宮古島の海、ビーチ、足に当たる波の粒、サンゴの砂浜と海風の生っぽい香りが残っている。

本書を読んで、どんどん新しいものに出会いたいと、そう思った。

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