世間とルールと本当の「配慮」
最近、息子たちと電車に乗る機会が
一気に増えました。
旦那さんの転職や就学という大きな節目
長男のリスタートなど、様々なものが
移り変わっていったこともありますが
長男の心身不調も回復期を迎え、
信頼している先生の所へ「不登校へのケア」目的で
通い始めたことが交通機関を良く使うようになった
主な理由です。
45分間の母子分離をするために
バスと電車を乗り継いで片道約1時間かけて
向かうのです。
幸い、今のところ不安定さは出ず
癇癪や荒れることもありません。
でも、交通機関を使うという事は
それなりの「覚悟と対処手段の確保」が
必要なのです。
交通機関を利用するということは、
世の中の「ルール」に沢山触れるということです。
不安定になった時、過剰欲求をした時や
疲労からくる癇癪を起こした時など、
様々な特性への「配慮」が必要になります。
最近、「外部の人に神経を使いすぎだ。」
と、よく言われるようになりました。
そういった「特性」があるということが分かるように
「ヘルプマーク」があるんでしょう?と言われます。
正直なところ、私も初めは思っていました。
「ヘルプマーク」を付けていれば
ある程度分かってくれるだろうと。
しかし、
ヘルプマークという今の小さな「配慮」だけでは
何も伝わらないのが現状です。
ヘルプマークをつけていようが、
クルクル回ったり座席で体を動かしていれば
それは「迷惑行為」であり、注意しなくていい
ものではありません。
「マークついているから(支援が必要だから)
分かってください。」だけでは、
ただの押しつけだと私は感じるようになりました。
じゃあ私たち(障害者側)が
伝えたいものってなんでしょう?
本当の気持ちってなんでしょう?
それはーーー。
きっと、こういうことだと思うのです。
癇癪の声でイラだつ気持ちも痛いほど分かります。
日常的に聞いているものだから。
クルクル回っている姿に「変な人」だと
思う気持ちも分かります。
親の私にも分からないことだらけだから。
だからこそ、見守ってほしい。
親とは違う目線で、他者との関わりの温もりを
感覚で味わって欲しいと思うのです。
きっとそこは
「障害がある・ない」に関わらずで、
子供だから・大人だから・高齢者だから
とかじゃなく、
人と人との間に
見えない配慮が相互に生まれあった瞬間
本当の配慮に繋がるのではないでしょうか?
そのためにも
配慮を受ける側として
配慮をする側として
その人の背景を想像する力は
身につけていきたい、そう思うのです。
ヘルプマークが何を意味しているのかーー。
私が障害を持った子育てをしている親でも
声をかけることに躊躇する場面は多いです。
その人の背景を想像する力も
限度と限界があるから。
だけど、ちょっとした気遣いやおせっかいが
時にはその人の心を安堵させる薬になることも
私は知っています。
だからこそ、ヘルプマークの意味や意義、
内容の有無に限らずひと目でわかるものを
創作したいと悶々する日々を送っています。
その人の背景を想像する力と、
ひと目でわかるようなヘルプマークがあれば
今必要不可欠な
「見えない配慮が生まれ合う場」が
沢山生まれる世の中になるんじゃないかーーー。
そんな日を夢見ながら
こうして「見えないものを見える化する」
活動を続けているのだと思います。
それでは、また。
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