第3回 『18 Months Before…』

割引あり

よくわからんタイトルの時は、だいたいわたしのうつ状態体験記だ。

今回はうつ状態で休職するまでの経緯を、
休職の18ヶ月前から振り返ってみようと思う。

18 Months Before  

新プロジェクト異動


話は休職する18ヶ月前、すなわち2022年6月ごろにさかのぼる。

ひとつ前のタイトルを作り終えたこの時期、
わたしはいささかとまどっていた。

異動先がなかなか決まらなかったのだ。

異動先がなかったからではない。
異動先の候補が3つも4つもあったからだ。

紆余曲折あって、結局、わたしの異動先は以下のようになった。

①新規プロジェクトの企画立ち上げ
②半年後にサービスイン予定のスマホゲームの成長設計担当

通常所属プロジェクトはひとつに絞られるものだが、
光栄なことに2つのプロジェクトを兼任させてもらうことになった。

「新規プロジェクトの企画を主にしつつ、
立ち上げが確定するまでは繁忙期タイトルのお手伝いをする」

ということである。


①の話を受けた時は嬉しかった。
「企画書を書かせていただく」とは、選ばれしゲームクリエイターにしかできない栄誉ある業務である。


また②の話もなかなか嬉しかった。
「スマホゲームの成長設計」とは、すなわち「ユーザーのみなさまにどう課金していただくか」の設計に他ならない。

しかもサービスイン半年前時点で、なんと完全未着手。

そのような重要事項を、ディレクター直属で担当してほしい、ということだった。
これもまた、ゲームクリエイター冥利に尽きる話である。

さらに並行して、1ヶ月限定で以下の業務も拝命した。

③新人研修のアクション部門指導担当

「アクションとはなんぞや」ということについては、後ほど説明する。

とりあえず、わたしの所属部署に配属した新人に対して、「アクションとはなんぞや」を説明する研修の担当者になったわけだ。

すなわち、この1ヶ月間わたしは、

①新規プロジェクトの企画立ち上げ
②半年後にサービスイン予定のスマホゲームの成長設計担当
③新人研修のアクション部門指導担当

の3つの業務を並行して担当することとなったのだ。

充実感は甚だしいものがあったが、
その分忙しくもあった。

朝8時から夜22時まで、全力ダッシュするように仕事をした。

この時期、人生で初めて酒で記憶を飛ばした。
酒で記憶を飛ばしたことは、後にも先にもこの時だけだ。

※詳細については、インスタグラム参照

そのように一時ふらつきもしたが、なんとか社会人人生で最も充実していて、最も多忙な1ヶ月を走り抜けたのである。

17 Months Before  

体調異変

社会人人生で最も充実していて、最も多忙な1ヶ月を走り抜けた先に待っていたのは、
意外や意外「ヒマ」だった。

①新規プロジェクトの企画立ち上げ

社内経営陣のチェック待ちになって、特にやることなし。

②半年後にサービスイン予定のスマホゲーム
の成長設計担当

1ヶ月後リリースの社内β版向けのディレクターフィードバック対応の予定だったが、
たいてい1日しかプレイされないβ版に成長サイクルもクソもないので、ディレクターからのフィードバック特になし。

③新人研修のアクション部門指導担当

普通に研修期間終了。

と、①②③全ての仕事がヒマになってしまった。

そして全力ダッシュから急ブレーキをかけたことによって、体調に異変が出始める。

まず、眠れなくなった。
寝付きはいいのだが、朝4時ごろ目が覚めてしまう。

後で知ったが、「中途覚醒」という症状だそうだ。

そして、2週間に一度くらいのペースで、
一日中寝てしまう期間が生じるようになった。

とにかく眠くて動けない。それも一日中。
だから当然、会社も病欠した。たいてい2、3日連続で病欠していたと思う。

これも後で知ったが、日中眠気が出るのはうつ状態の症状のひとつらしい。

つまり、うつ状態の兆候が出始めたのは、
休職する17ヶ月前ということになる。

15 Months Before

プロジェクト内異動

その後の2ヶ月は、また忙しくなった。

サービスインに備えて、タイトル全体の成長設計をしなければいけないからだ。

この時期は、睡眠障害は続いていたし、眠くてしょうがない日もしばしばあったが、
それでも期待された成果は問題なく出せていたし、わたし自身のモチベーションも高かった。

そうして2ヶ月かけて成長設計を一通り作り終えたころになって、チーム内異動の話が浮上してきた。

アクションパートリーダーへの配置転換である。

「アクション」とは

お待たせしました。
ここで「アクションとはなんぞや」という話をします。

ゲーム制作における「アクション」は、主に以下の2点を指す。

A. ユニット戦闘のゲームデザイン
例:
・スマブラ、各キャラの性能どうするか
・モンハン、モンスターごとの特徴づけ

B. 3Dゲームにおける、ユニットの制御
例:
・右スティックをたおしたら、キャラが走るようにする
・その前提として、キャラクターをゲームに出せるようにする

②のプロジェクトについてでいうと、主にBの業務が主になる。

スマホゲームなのでそんなに難しいユニット戦闘はないゲームだったのだが、
3Dゲームだったので、Bの業務は必要になる。
(というより、3Dのゲームであれば、どんなゲームでもBの業務は発生する)

ゲームデザイナー、すなわちプログラムも絵もできないのにゲーム会社に入った人間が何をするかというと、だいたい以下のようなことになる。

・仕様の作成
※まさに「ゲームデザイン」と呼ばれる遊びの設計から、細々とした条件ごとの処理分岐まで

・プログラマー、CG(モデル、モーション、エフェクト)、サウンドクリエイターに作業依頼、スケジュール調整など

・ゲーム制御に必要なデータの作成
※ゲーム実装の流れについてざっくりとしたイメージを伝えておくと、
「プログラマーが機械を作り、ゲームデザイナーが機械に入れるパラメーターを入力する」
というようになっております

話を元に戻すと…

というわけで、アクションパートリーダーへの配置転換が決まった。

成長設計については、「あとはデータ作成と調整のみ」というところまでもっていけたので、他のプロジェクトメンバーに引き継いでもらうことになった。

ところで、
①新規プロジェクトの企画立ち上げ
の話がなかなか出てこないとお思いの方もいると思う。

なんとこの話はなくなってしまった。

プロジェクト自体はなくなっていない。
わたしが所属する、という部分だけなくなってしまったのだ。

理由としては、②のプロジェクトの状況にあった。

(成長設計について)
しかもサービスイン半年前時点で、なんと完全未着手。

と書いたとおり、このプロジェクト、
スケジュールが危機的状況にあった。

しかもこれ、成長設計に限った話ではなく、
どのパート、セクションも同じような状況だった。
もちろんアクションも、例外ではない。


②のプロジェクトがサービスインしないと、
部署の今期の売り上げが立たなくなる。

そういうわけで、「②のプロジェクトに専念せよ」という命が下ったわけだ。

「新規プロジェクトの企画を主にしつつ、
立ち上げが確定するまでは繁忙期タイトルのお手伝いをする」

の主従は、いつの間にか逆転していたのである。

というわけで、以下ずっと

②半年後にサービスイン予定のスマホゲーム
の成長設計担当

のプロジェクトの話だと思ってください。
(①②③の分類も、いったんリセット)


12 Months Before

サービスイン

サービスインまでの3ヶ月間は、進捗、品質管理から末端の実作業まで、アクションパートのほぼ全てをやっていた。

わたしが異動した時点でのアクションの状況は、惨憺たるものだった。

大体のスマホゲームと同じように、うちのプロジェクトもガチャでアイテムを売って利益を上げるゲームになっていた。

うちのタイトルだとそれは武器で、その武器の最大の売りが必殺技になる。

その必殺技の見た目を作るのが、アクションパートに課せられた最大の使命となっていた。 

端的にいえば、「メイン商材のPR映像の製作」である。

が、なんとわたしが加入した時点で、全必殺技ディレクターがいっさい目を通していない状況だった。

それでもウデのあるクリエイターが担当していればお客様にお出しできるクオリティになることもあるのだが、そういうわけでもなかった。

スマブラで例えると、「最後の切りふだを作るべきところを、横スマくらいのしょぼい見た目になっている」みたいな感じだった。

それが総数なんと50点。

そしてさらにそこに、必殺技以外のモーション、敵キャラのモーションなどの未調整モーションの作業が乗ってくる。
おそらく総数500点ほどだったと思う。

まともなタイトルだったら、1年半かけてやる作業量だ。
これをサービスインまでの3ヶ月でやることになった。

しかもやるのはわたしだけではない。

モデル、モーション、エフェクト、サウンドといったデザイナーの方々に作業依頼をしなくてはいけない。

そんなわけでわたしは、就任1日目で上記の惨憺たる状況をプレゼン資料にまとめ、
ディレクターなどプロジェクト上位陣、およびデザイナーの方々に頭を下げた。

そしてサービスインまでの3ヶ月、「できるだけのことをやる」の一心で全身全霊で走り抜けた。

そして3ヶ月後、足がもつれるなか倒れ込むようにサービスインを迎えたのである。

具体的に言うか。
この時期の残業時間は毎月100時間近くになっていた。
しかも、100時間の間、一切ダラダラできない。

それでも耐えられたのは、睡眠薬を飲み始めたからだ。

アクションパートに異動するくらいのとき、管理職に体調のことを話したら、病院に行くことを勧められた。

調べたら睡眠の問題は精神科の管轄らしい。
「精神科」という響きに抵抗はあったが、睡眠薬を処方してもらうことで、とりあえず睡眠障害は改善された。

9 Months Before

怒濤の運営期

這々の体でサービスインを迎えた直後、休む間もなく運営が始まった。

運営が始まる前のわずかな隙間で、また少しチーム体制の変更があった。

わたしは「新モード担当のリードゲームデザイナー」というものになった。

「リードゲームデザイナー」とは、パートリーダーをまとめる統括だ。

プロジェクト内の序列でいうと、プロデューサー、ディレクターに次ぐ3番目だ。

要は出世したわけである。こりゃめでたい。
(結局そんなこたあなかったんだが…)

「新モード担当のリードゲームデザイナー」になるにあたり、わたしの業務は以下のようになった。

①リード業務
(プロジェクト全体の予算、人員調整など)

②新モードの製作統括

③引き続きアクションパートリーダー業務
※本来新モード制作とは関わりないのだが、
プロジェクト内に適当な人材がいなかったため、引き続きわたしが兼任することになった。

③について、サービスインを迎える前までは実作業もわたしの手でやっていたが、
それではさすがに手が回らないことが予想されたので、思い切って部下に任せることにした。

が、先に書いた通り

それでもウデのあるクリエイターが担当していればお客様にお出しできるクオリティになることもあるのだが、そういうわけでもなかった。
スマブラで例えると、「最後の切りふだを作るべきところを、横スマくらいのしょぼい見た目になっている」みたいな感じだった。

みたいな人たちだったので、全然回らなかった。

というわけで、

④アクションパートの実作業

もわたしの業務に追加された。

まとめると、運営期のわたしの業務は

①リード業務
②新モードの製作統括
③引き続きアクションパートリーダー業務
④アクションパートの実作業


ということになった。

なんと、2022年6月、わたしにうつ状態の症状が見え始めたころより、兼任業務がひとつ増えてるじゃないか!


そこからはもう、とんでもないことになった。

・サービスイン時点でスケジュールが、ギリギリまで遅れていたので、毎月スケジュールは崖っぷち

・売り上げが芳しくなかったため、その対策として、突然の仕様実装が頻発する

・サービスイン半年後予定の新モード追加がサービスイン3ヶ月後に前倒し

・アクションパート作業員のひとりがメンタル不調で2週間欠勤。からの残業禁止
(ほとんどの作業はおれがやってたんだけどなあ…)

頭の中でずっとユニコーンの「大迷惑」が流れていた。


さすがにサービスインまでの作業で疲れ切った体にこの作業量は耐えられるはずもなく、
体調も少しずつ、だが確実に悪化していった。

見かねた管理職がアクション作業員を追加してくれたおかげで、なんとか倒れることはなかった。

3 Months Before

サービスインから6ヶ月後、驚くべきことに、
めちゃくちゃヒマになった。

プロジェクト全体としては相変わらず超がつくほどの繁忙期だったのだが、わたしだけヒマになった。

前述のとおり、アクション作業員の方を追加してもらったのだが、その方が待ちに待った「ウデのあるクリエイター」だったので、
③アクションパートリーダー業務
④アクションパートの実作業
を引き取ってもらった。

「よし、これで本業の新モード追加に専念できるぞ」と思ったのも束の間、
なんとプロジェクトの予算削減で新モード追加の話が凍結されてしまった。

これで、
②新モードの製作統括
の業務も消滅した。

①リード業務
についても、統括すべき業務が消滅したので、もはややるべきことはなくなった。

そういうわけで、怒涛の6ヶ月を過ごした後、突然ヒマになったわけである。
このパターン、どっかで見たな。

そして体調が悪化した。
眠くて動けない日が大きく増えた。

これは2023年10月の出来事なのだが、
プロジェクト全体で取る夏休みが数日あったとはいえ、この月の出勤日は10日ちょっとだったと記憶している。

11月はなんとか体調は持ち直したが、
相変わらずやることはなく、ヒマだった。

正確にいうと、やることがないわけではなかった。

他パートは相変わらず忙しくしていたのでその手伝いをするとか、運営をスムーズに進めるうえで必要なマニュアル整備をするとか、探せば仕事はあった。

が、もう体は動かなくなってきていた。

1 Months Before

体調急変

2023年12月、体調が急激に悪くなっていった。

まず、思考が暗くなった。
周りの人間が全員敵に見えるようになった。
体の変化としては、声がとても小さくなった。

また、趣味への興味が消滅した。
12月序盤に大阪にコンサートを見に行く予定があったのだが、面倒になって土曜だったにも関わらず日帰りにした。

インスタグラムを見ていただければわかるが、美味い飯には目がない人間であるわたしは、
どこか旅行に行く機会があったとすればできる限り滞在時間を長くして、できる限り美味い飯を食おうとする人間である。

それが、土曜にも関わらず大阪日帰りである。
しかもコンサートがはじまる直前に大阪に着くような新幹線で行った。
現地で食べたのは、新大阪駅の北極星のオムライスだけだ。

食欲自体も減っていた。
「あすけん」というアプリでカロリーを記録していたのだが、12月は1日の必要量に届かない日が増えていた。


さすがにおかしいと思ってインターネットでいろいろと調べてみたところ、
どうやらそれらは「うつ病」の症状であるかもしれない、ということがわかった。

睡眠薬を処方してもらうために月1回の頻度で精神科に通院していたので、
上記のようなことを医師に相談してみた。

医師の第一声は「会社を休むことはできますか」だった。

運良く年末年始は10日ほど休暇をとって実家に帰省する予定だったので、しばらく休むことはできそうだった。

また、「うつ状態の疑い濃厚」ということで、抗うつ剤も処方してもらった。

度重なる体調不良によって、有給休暇、振替休日はもう2、3日しか残っていない。

この10日の休みと、抗うつ剤の効果によって回復できなければ、いよいよ休職するしかなくなる…。

ここではじめて脳裏に「休職」の二文字がちらついた。

わたしは自身の実績と未来を守るための、約1週間の最後の戦いに挑むことになる。


1 Week Before

最後の戦い

ご存知の通り、わたしはこの戦いに敗れた。

結論からいうと、年末年始の休み中、わたしは全く休むことができなかった。

まず、抗うつ剤の副作用によって、四六時中吐き気が止まらなかった。

実家ではいろいろと美味しい料理を出してもらったのだが、ほとんど食べることができなかった。
すき焼きを出してもらった時には、3枚目の肉で吐きそうになってしまった。

また、睡眠障害が悪化した。
これも抗うつ剤の副作用らしかったのだが、睡眠薬を飲んでも0時に寝て4時に起きてしまう、
つまり睡眠薬を飲んでなかった頃の状態に戻ってしまっていた。

精神的にも追い込まれた。
仕事のこと、親に対する申し訳なさ、休職すべきか否か…
それらを一日中、頭がいたくなるほどぐるぐる考え続けていた。

誰かがトイレに行く足音にびくびくするほど、精神をすり減らしていた。

ここに至ってもまだ、「休職」の二文字を受け入れることはできなかった。

「年明けの一日目は会社に行こう」
「それで最後の判断をしよう」

そう心に決めて、わたしは実家を後にした。

1 Day Before

奮戦及ばず…

結果的に最終出社日となったこの日も、
例のごとく朝4時ごろ目が覚めた。

吐き気もあり、食欲も湧かず、昼食をまともに取る気も起きなかった。

わたしが休んでいる間もチームは稼働していたこともあり、
チャットが溜まっていたことも堪えた。

30分に1回くらい、トイレの個室にこもって10分くらい下を向いてぐったりする、ということを繰り返していた。

この日、中抜けして医者に行ったのだが、そこで「無理だけはしないように」という言葉をいただいた。

「これ以上続けるのは、無理だ」

ここで腹は決まった。

「休職しよう」


その後2時間くらい就業規則の休職関連の箇所を読み漁った。

とりあえず、「傷病手当」というものがあるから、収入が0になることはない。

計算方法を調べて、実際自分のもらえる額を算出したところ、どうやら生活するのに不自由ないくらいの額はもらえそうなことがわかった。

その日は泣きながら帰った。

いや、泣いてはないか。

ただ、親の顔を思い浮かべた時、たまっていた涙が一粒二粒こぼれた。

Zero

次の日、上司あてに「メンタル不調につき、しばらくお休みをいただきたい」というメールを送ろうとした…
…がその手がなかなか動かず、結局次の日に送った。

その日は上司がお休みだったようで、1日返信が来なかった。

その日、東京ドームにブルーノ・マーズのコンサートを見に行く予定だったのだが、どうにも行く気が起きず、結局行かなかった。
チケット代5万円をドブに捨てたのも、たいして気にならなかった。

次の日返信が来て、「医師から診断書をもらってこい」といわれた。
病院の予約が取れるのが次の週の火曜だったので、3日ほど待つことになった。

この間も「医師から診断書など出せないといわれたらどうしよう…」などと不安が止まらなかったが、なんの問題もなく診断書を出してもらえた。

その後、業務引き継ぎを行い、2024年1月16日、わたしは正式に休職期間に入った。

前述の通り、わたしが抱える業務はもはやなかったので、引き継ぎはなんと10分もかからなかった。

引き継ぎが終わった瞬間、プロジェクトのことも、今までの実績も、未来のキャリアも、全て忘れてしまった。


1 Months Later

ここからは、休職してからの経過を簡単に書こうと思う。

休職1ヶ月目は、うつ状態のピークだった。
風呂は2日に1回しか入れない、食欲も湧かない…
体重も5kg減った。
人付き合いも、旅行の予定も、全てキャンセルした。

それでも、月末の友人の結婚式には這うようにして出席した。
これが回復への転機になった。

2 Months Later

2月、いくつか旅行の予定を入れていた。
動けるくらいには回復してきていたので、行ってみることにした。

これが、思いのほかよかった。

「ゆっくり電車に揺られて、美味いものを食って、散歩して、あとはホテルで寝る」

旅行は、時間の制約さえなければ、大した負担にはならないのだ。

むしろ、家にこもっているより、よほど健康にいい。

そこで、3月、4月と長めの旅行の予定を入れた。

ここでインスタグラムをはじめた。

勤務地が離れた同僚や、地元の友人とひさびさにコミュニケーションをとるのが楽しかった。

「人と話すのって、楽しい」

人生で一番、そう思えた。

5 Months Later

そんなふうにして、4月末ごろになると、人付き合いへの抵抗も完全になくなった。

「うつ状態で休職した」という事実も、自分の中で完全に整理できた。


ここで母親に休職のことを打ち明けた。

「うつ状態で休職している。だけど、とりあえず将来的に社会復帰できそうなところまでは回復したし、いま意識は完全に回復している。」

こちらが元気そうにしていたからか、母親もそんなに心配そうにはしていなかった。


あとで聞いたら、この話を聞いた時、首を痛めてしまったようだ。

やはり、驚いてはいたようだ。

自分の中で整理できたタイミングで打ち明けたのは、正解だった。

The Day

ここまで読んでいただきありがとうございます。
最後に、「The Day」という章を書こうと思います。

これは、今振り返った時に、明確に休職へ向かう分かれ道になった日の話です。

特定の人を傷つける内容になりかねないので、
有料とさせていただきます。


これは、2023年8月ごろの話だ。
「3 Months Before」の章の直前になる。

その日、わたしは少し遅めの2022年度人事評価面談に臨んでいた。

結果、「A」だった。

S/A/B/CのAだから、悪くない。
Aを2年連続でとれば、次の階級への昇進試験を受けられるので、むしろいい評価だ。

2021年度に1階級昇進していたので、キャリア全体で見ても順風満帆だ。

2023年度は「A」を獲りに行く勝負の年になる…

その面談では、2022年度の評価について、
および勝負の2023年度の評価方針について説明を受けた。

曰く、
・2022年は、個人の実力によって成果を出してくれた
・その結果、プロジェクトとしても大きな恩恵を受けた

・2023年は、マネジメント能力の面に比重をおいて評価を行う

「マネジメント能力の面に比重をおいて評価を行う」

ここがどうも引っかかった。

前述の通り、抱えている部下が実作業を回せず、本来マネジメントに専念すべきわたしが実作業も担当せざるをえない状況だったからだ。


当時わたしは3人の直属の部下を抱えていた。

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