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5/15放送分「沖縄本土復帰記念日」

5/15は「沖縄本土復帰記念日」です。1971(昭和46)年にアメリカとの間で締結された法律「沖縄返還協定」が、1972(昭和47)年5月15日午前0時に発効しました。

沖縄は戦後27年間、アメリカ軍の統治下に置かれました。日本国憲法が適用されず、立法・行政・司法といった施政権はアメリカが握っていました。その施政権が、1972年5月15日に日本に返還され、沖縄県が誕生しました。このことを沖縄の日本復帰と呼んでいます。

日米が戦った太平洋戦争の末期、沖縄では激しい地上戦が行われました。日本は本土への上陸を遅らせようと、沖縄で時間稼ぎの作戦を立て、戦闘が長引いた結果、県民の4人に1人が亡くなったと推計されています。アメリカ軍は沖縄本島などを占領し、日本本土への出撃拠点としました。

1945年8月に日本は無条件降伏を受け入れ、アメリカを中心とする連合国に占領され、アメリカ軍は全国各地に駐留しました。その後、日本はアメリカなどと結んだ、1952年発効のサンフランシスコ講和条約によって独立を回復しますが、1953年復帰の奄美や、1968年復帰の小笠原とともに、沖縄は日本から切り離されました。

アメリカ統治下では通貨はドル、車は右側通行で、日本本土への渡航にはパスポートが必要でした。

1965年8月に当時の首相、佐藤栄作が戦後の首相で初めて沖縄を訪れたのを機に、復帰への動きが加速しました。当時はベトナム戦争のさなかで、多くの米軍爆撃機が沖縄の嘉手納基地から出撃していました。米軍の事故や事件が相次いだことに住民の不満が増し、復帰運動が本格化しました。

琉球政府は米軍基地の「即時・無条件・全面返還」を求めていましたが、基地が残ったままの復帰となり、基地の整理・縮小を求める地元の声はいまも根強く残ります。

また現在も、1日1件以上のペースで不発弾が処理されていて、沖縄県によると、沖縄戦で米軍が使用した弾薬は約20万トンに上り、本土で使われた弾薬(約16万トン)を上回るとのこと。うち約1万トンが不発弾となり、今も約1900トンが残るとみられ、県内の2022年度の処理件数は467件に上ったそうです。

沖縄の気候は気持ちいいし、沖縄料理は美味しいし、気軽に沖縄に行けるようになりました。関西から修学旅行で訪れる人気地でもあります。でもそれらは先人の苦労や犠牲の元に成り立っています。沖縄では今もなお戦争の爪跡が色濃く残っていて、苦しんでいる人がたくさんおられることを忘れてはいけないと思います。

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