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ぴょんたのはなし

小さいころにぴょんたという名のウサギを飼っていた。

ある日、幼稚園の帰りに通りかかった小鳥屋で小さなゲージのなかに子ウサギたちが丸くなっていた。そのなかでもひときわ白くて青い目をしたかわいいウサギがいた。私の家族は団地暮らしで、本来ペットを飼うことは禁止されていたのだけれど、母と私はその日のうちにそのうさぎを買うことに決めてうちに連れて帰った。そして、ぴょんたと名付けた。我ながら安直な名前である。

ずっと団地に住んでいたために大好きな犬を飼うことが出来なかった分、リスやハムスター、ウサギ、モルモットといった小動物を飼うことにうちの両親は寛容だったのだと思う。

ぴょんたを連れ帰ったその日からはとにかく賑やな毎日が始まった。ウサギの運動量と行動範囲はハムスターとは段違いだった。カゴからすぐに飛び出して、電話製品のコードは噛み散らかされ、障子は破られ、柱はぼろぼろに、家じゅうお床にコロコロとした丸いフンが転がる。

団地の一階に住んでいたので、ベランダに置いた荷物を伝って手すりを飛び越えて、家の外へと逃げてしまったこともあった。辺りを探しても全然出てこなくてもう帰ってこないかもしれないと諦かけたその翌朝にひょっこりと生垣から出てきたときは心の底から安堵したのを覚えている。

当時私はなぜか盆栽に興味津々で親にねだりにねだって買ってもらった桜の盆栽をベランダに置いたとたんに、ぴょんたに花びらを全部食べられてしまったこともあった(その後、その桜が花を咲かすことはなかった・・・)。

ぴょんたは「ミニウサギ」という謳い文句で売られていた割には順調に大きくなっていき、1年も経つころには立派な馬面のオスウサギになっていた。

ちょうどその頃に同じ団地に住んでいた仲の良かったM家でもウサギを飼い始めて、ある日M家のなっちゃんと二人でうさぎたちを一緒に遊ばせていたら、急にぴょんたが馬乗りになった。コイツらは何をしているのかと私たちはきょとんとして見ていたのだが、その後しばらくして5匹※の子ウサギが生まれた。そう、M家のウサギはメスだったのだ。

その後、一家庭で何匹も飼いきれないので団地の友達に子ウサギを譲り、やがてその子ウサギたちもすくすくと育っていき、ぴょんたは団地に誇る一大ウサギファミリーを築き上げていったのだった。

なにかと人騒がせなぴょんたであったが、母親や私が家に帰ってくると、ぶんぶんと鼻を鳴らして迎えてくれるなどかわいいところもあった。ウサギはバカだから人には懐かないと聞いていたけど、全然そんなことはなかった。

夏の暑い日は玄関のアスファルトに寝そべっている姿はなんともかわいらしかった。ある冬の日にはウサギのくせに寒がりでストーブに近寄り過ぎてお尻の白い毛がうっすら焦げ茶色になってしまったところなども少々アホだがかわいらしかった。

そんなぴょん太だが3歳を迎えた頃、急に元気がなくなっていった。食べ物を食べられなくなり、どんどんと痩せていった。

今でも覚えている最期の日。ちょうど冬休みに茨城の母方の実家に帰省しているときだった。毛布の上でぐったりと横になったぴょん太。小さなからだで「はぁー、はぁー、はぁー」と苦しそうに3回大きく息を吸い込んだのを最後にそのまま動かなくなり、冷たくなっていくのを見て私はたくさん泣いた。

私はその時はじめて身近に親しい者の死を体験したのだった。

大人になった今となっては人との別れというものをあの時よりずっとよく理解しているつもりでいるけれど、やはり悲しいものだ。誰かと親しくなり同じ時間を過ごすことで、そこには愛着が生まれる。でもたとえどんなに大切にしようと思っても、いつかは失われてしまう。それはお互いが望んでのことかもしれないし、突然何かのきっかけで奪われるかもしれない。

それはこの前の書いた際にも実感したことだ。


だから、誰か大切な人が出来たときに私は頭の端っこで失うことの悲しさを考えてしまう。ぴょんたを見つけた時のように無邪気なだけではいられない自分がいる。

それでも前を向いて誰かを大切にしたいと思えるのは、これもまたぴょんたのおかげだ。

誰かを失った悲しみというのはその直後はどうしようもないほどに大きいものだけれど、時間が少しずつ癒してくれる。

時間が経って思い出すのは失った悲しさよりもその人と過ごした楽しい思い出の方なのだとぴょんたのが教えてくれた。

ぴょんたとの思い出は今も私をあたたかい気持ちにさせてくれる。

だから、誰かを好きになることに臆病になったとき、私はぴょんたのことを思い出す。

※うさぎは一羽と習うけど、どうもしっくり来ないのであえて匹としてます。

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