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卒アル見るのが、苦手

何気なしに、ネットサーフィンをしていた時。
オススメに出てきた記事が、つい最近まで通っていた、中高一貫校のPRだった。

途中で辞めてしまったとはいえ、高校1年生までの4年間通った学校であるから、かなりの親近感を覚える。

指が勝手に、記事を開く。

しばらく会ってない、同期達の楽しそうな写真が、たくさん載っていた。
へぇ~、って。
同期の様子に、好奇心が傾いたり、不快感が募ったり、懐かしさを感じたり、苛立ちを覚えたり、感情が忙しない。

と言いつつも、ほとんどの感情がネガティブで、泣きたい気分になった。

思い返せば、中学の卒アルを渡された時も、こんな気分だったように思う。


卒アルを見るのは苦手だ。
心が苦しくなる。

どう、形容すればいいのか分からないけれど、圧迫されて、閉じ込められているような、閉塞感がある。
写真に写っている当時の私は楽しそうだけれど、写真を見て思い起こす感情は、さっと刷毛で黒くぬったように、重苦しい。

お前らみんな嫌いだ、って。
そういう気分になる。

私は楽しくなかったって、恨み言をいいたくなる。

いや、違うな。

その当時は、その当時で、楽しかったのかもしれない。

でも、孤独感が蘇る。
「悲しかった」「辛かった」「苦しかった」「寂しかった」って、今なら言語化できるけど、
中学生の私にはそれがうまく、できなかったから。

だからなのかな。
写真を見たら、一度名前をつけた感情が蘇る。

すごくモヤモヤする。
泣きたい。

でも、そんな母校の文化祭に、行こうと思ってる。
先生達に近況報告をしておこうと思って。

あと、数少ない友人たちに、挨拶をしに。

それ自体は全然嫌じゃないけど、やっぱり複雑。
複雑な理由は、私の勝手なコンプレックスにあると思う。

同期達の中に、将来、東大や京大に通う子が、たくさんいると思う。
中学1年生から、大学受験に向けて必死こいて準備して、みんなみんな、名だたる大学に入っていく。
そんな世界線。

私はそこを辞めて、この大学受験のレースから離脱したから、自分は負けてしまった、という意識がある。

いつからだろう。
おそらく、中学受験の勉強を始めた、小学校4年生頃からだ。
偏差値を主な判断基準に置き、通う中高、通う大学がその人の価値の全てを表すような錯覚が、身についたのは。
誰がこんな価値観を、私に植えたんだろう。
親だろうか。
先生だろうか。
学校だろうか。
それとも、日本の社会構造だろうか。

そして植えられた、偏差値を絶対的な定規とする価値観は、簡単には抜けない。

私は、この劣等感から逃れる術を知らない。

そしてこの劣等感が、私の気分を複雑にさせるのだ。

今はかなり幸せに生きている。
受験勉強以外のことが、思う存分できるからだ。

ボランティア活動に参加しはじめた。
演劇で主役をやった。
ディベート部を立ち上げた。
作文が入選して、賞金がもらえた。

他にも同時並行で、いっぱい色んなことをしている。
私は元々、こういう課外活動的なことが得意なのだ。

勉強も好きだけれど、知識を詰め込まれて競争するのは、あまり得意ではなかった。

でも私に植わっている価値観が、この受験競争に勝たねば、己に価値は無い、と。
ずっとそう言い続けていて参ってしまう。

今は学校を辞めたから、そういう呪縛から比較的離れているとはいえ、やはり、中学時代のあの息苦しさというのは、写真を見ると、鮮明に思い出される。

やっぱり、卒アルを見るのは、息苦しい。
いつになったら、楽しく、懐かしく見ることができるのかな、なんて。

中学時代があるから今の自分があるわけで。
中学時代を全否定したい、わけじゃないけど。
辞めて良かったとは、本気で思っている。

あんな学校最後まで通ってたら、今、生きているかどうか分からない。

怖いところだった、ほんと。





なんかツラツラ指が赴くままに文字を連ねたら、一貫性の無い、ごちゃごちゃした愚痴になってしまった。
多分これ読んだ人幸せな気分にはならないよね。
ごめん。

でもなんか言いたくなっちゃった。
そういう気まぐれです。

見ちゃった人、ここまで付き合ってくれてありがとう。

受験競争には復帰できないけど、私は私のやり方で頑張ります。

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