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「うちの子は駄目だね」〔クリシェ【凡百の陳腐句】21〕

某メンタリストが、とある学校に講演をしに行ったときのこと。

その学校の教頭が、彼に

「うちの子たちは、馬鹿だから駄目ですよ」

と口走ったという。

この一言に彼は激怒し、その教頭のプライドを全粉砕する勢いで完全否定したそうだ。

僕は彼のファンでも信者でもないが、この件に関しては、完全に彼に同意。 

彼がどういうロジックで論破したのかは知らないが、僕でも、

「お前、プロの教師だろ?
その駄目な点をクリアする道を示すのが仕事だろ?
そのための「教師」だろ?
なんで、生徒を「駄目」と評しただけで自己満足してんだ?
「教育のプロ」がそれで終わりか?
そんなの「プロ」じゃなくたってできるぞ?
俺でもできるぞ?
お前がやってるのは「教育」じゃない。ただの「生徒評論」だ」


くらいのことは言うかもしれない。

少々口汚いのは百も承知だが、僕自身

「おれのものさしに沿わないから、お前は駄目だ」

と、"大人"に蔑まれて続けてきた身。

「ひたすら蔑んでくれてありがとう!お陰様で強く成長できました」

となるわけがないことなど、僕自身がよく知っている。多少の感情は入り込んでしまう。

思うに、"Education"と"Judgement"は違う。

自分のものさしに照らして、相手を「駄目な奴」と評すること

そんな"Judgement"、誰でもできる(僕でもできる)。

「なにがどう"客観的に"駄目なのか」
「どう行動したら、その駄目な点を改善できるか」を考えて"Education"
すること。

これは、簡単にはできないし、誰でもできるわけではない。また、通常はその意思もない。

それをやるからこその、「プロ」。

それをすべき"立場"と"責務"にあるから、「教育者」としての"価値"がある。


それをしないなら、プロ教育者を語る"ただの人"だ

"ただの人"の評価に、教育的価値はない。

よって、

「うちの子は駄目だ」。

これを教育的立場にいる人間が口走れば、即、

「無能」

確定である。

それゆえ、

学生時代、

「お前は駄目だ」

と諦められたならば、その人を徹底的に「反面教師」としなければならない。

自身が「無能」教育者とならぬように

もし、教師が自分の子供に

「この子は、駄目ですね」(さすがにストレートには言わないだろうが、雰囲気に出すことはあるだろう)

と言ってきたならば、基本信用してはならない自分の大切な子供を、"ただの人"の自己顕示欲を満たすためのダシにする必要はない。

そして、間違っても「親」の立場で、子供に絶対に言ってはならない。

「『あなたは駄目な子』と口走る」、すなわち「毒親の走り」である。

なお、褒められず期待もされず、「だめな奴だ」と言われ続けた人は、実際に能力があったとしてもそれを発揮できず、モチベーションも低下して結果が出せなくなることが多いそう。

心理学では、これを「ゴーレム効果」という。

「うちの子は駄目」

というセリフの教育的効果は、科学的にも否定されている。

やはり、タブー中のタブーであることに変わりはない。


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