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「昔は地味で、今は派手」という思い込み

 今年のNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』。初回を観ての感想は「画面の色彩がうるさい」といったところだ。内容自体は悪くないのだが、とにかくあの情報量の多さとドぎつさには困惑してしまった。服の色味がとても強く、映像の補正のかけ方も相まっていつもより格段に眩しい。誰がどんな話をしていただとか、殺陣がアグレッシブでカッコいいだとか、そういう情報を弾き出すぐらいにしつこく主張してくる。僕のような感想を持った人はそれなりにいるらしく、ネットで調べてみると賛否両論ともに相当な数が挙がっている。

 非現実的にも思えるあの鮮やかな装束だが、どうやら最近の研究によったもので完全な創作というわけでもないらしい。使っていた染料の発色や特性であったり、染色の技術、着替えることがそう頻繁でなかった生活状況などが関係しているようだ。国外から持ち込まれた異国の風俗や文化がもてはやされ、南蛮のスタイルを取り入れた服もあったというし、現代に残る鎧兜や陣羽織といった装備品から見て、当時の人達が派手好みでおしゃれだったのは確か。そうなってくると、僕達のイメージにある慎ましく色味に乏しい服飾の方が、実情を一切無視した架空の存在に思えてきてしまう。

 室町時代の末期ほど遠い過去のことでなくても、色褪せたり色に欠けたイメージがこびりついているものは少なくない。ほんの百年ほど前の情景ですら、写真と同じモノクロームで陰鬱なものだったと思い込んでいる節がある。ところが、コンピュータの力を借りて分析され着色された当時の写真は、今時と大差ないほどカラフルだ。むしろ、いっそうの活気にあふれ、都市も自然も万の色彩に満ちているようでさえある。明治や大正の頃を生きていた人達は、こういう鮮やかな世界の中で仕事や恋や戦争を繰り広げていたのかもしれない。それを踏まえて見直すと、近代史に対するイメージにも大きな変化が生じてきそうだ。

 自身で理解している通り、人間は物の色を知る生き物である。僕達の感覚器は、手に取るものや身を置く場所の色がそれぞれ異なることを感じ取り、触れなくとも質感の差をおおよそ把握することができる。この能力に助けられ生かされてきた以上、数多の世代を重ねて築いてきた文明が数多くの色を伴い形作られているのは必然と言えるだろう。それぞれの時代、それぞれの地域で、色には図形や文字と同じように意味が与えられ、信仰や芸能、技術の中で常に用いられてきた。現代においても、色の与える印象や意味は重要なものとされ、デザインや芸術の世界では大事な教養のひとつとなっている。

 だが、ここに一つの疑念が生じる。すべての時代において、果たして色の見え方は同じだったのだろうか。色に対する感じ方や意味の捉え方、と言い換えてもいい。同じ色相、同じ輝度をもったものを手にしたとして、古代と現代とでは受ける印象もかかる意味も異なっている。となれば、時代の異なるもの、そこに存在する色彩を目にしたときにお互いの印象や意味付けが合致するとは言えないだろう。その状況にほど近いのが、世相や文化に対する世代間の認識差である。

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