都会を出よう、暮らしを豊かにするために
今日の我が国において問題となっているのは、地方都市の高齢社会化と大都市圏への過度な人口集中だ。一方はインフラサービスや都市財政が維持できなくなるという危険をはらみ、もう一方は過密な交通状況や防災体制への脆弱性が国家破綻のリスクを高めている。
両者の抱える問題には共通した要因がある。その土地に暮らす若者を取り巻く情勢と制約だ。彼らの多くが生まれ育った場所ではなく、大都市圏で長く暮らし続けることを選ぶ。その結果、人口や年齢の比率が偏り、地域に様々な問題を生じさせているのだ。
地方を選ばず都市部を選ぶ傾向は、戦後に入って以降まったく変わっていない。適正な範囲を超えて悪化の一途を辿っている。これは我が国にとって由々しき問題であるのだが、いまだ有効な策を打てていない。
近年は、国や地方自治体によるUターンやIターンの枠組みが整備されつつあるが、それでも地元へ若者を引き込めているところは少ない。こうした状況に陥ったのはなぜなのだろうか。
そもそも、若者にとって働きたい場所とは何を意味しているのだろうか。まずは時代をさかのぼって考えてみよう。
かつて出稼ぎ労働者が都市部に集まっていた時代には、実家の暮らしを支えるための労働現場が大都市圏に集中していた。道路や建物を作るために多くの人手を必要とする環境であったため、学歴も経済的身分も関係なく、行けば何かしらの仕事は存在していた。つまり、都市部に行くことは家業以外の仕事を得るための行動であり、やりがいや好みよりも賃金という実を取る選択だったのだ。
都市部へとやってくる若者達は、その多くが『跡を継がない立場の人間』だった。家業は自分の兄や姉の婿が継ぎ、自分は何か他の食い扶持を探さなければならない。畑の手入れや収穫の時期には帰省し、実家を手伝うのが当たり前。つまりは昔の丁稚奉公に近い感覚で都市部の仕事に就いていた者が多かった。そのため、地方に残る若者と都市部で働く若者とで、ある程度の人口的な釣り合いと調整が成立していたのだ。
しかし、時代が下るにつれて状況が変わってきた。公共団地の整備や勤続性のある業種の増加にともなって、都市部で働く若者達が領域の中で定住するようになったのだ。いわゆる核家族の成立である。実家とは別の家計を持ち、子供を都市部の学校に通わせるようになったことで、地方と大都市圏との間では人口的な格差が広がった。
さらに、今までは地元へ戻ってきていた高学歴の若者が、卒業後も都市部に留まるようになった。学んだ知識を活かす場が大手企業の工場やオフィス中心になり、勤め先の近隣地域に住み込む必要が出たためである。
この変化によって、地方都市では最新技術の伝達手段を失ってしまった。これまでは地元に帰ってきた高学歴者が家業を継いだり事業を興したりしていたが、大企業の工場に勤めると技能や成果は社内に留められてしまう。結果、新しい分野を地方の中で開拓することが困難になっていった。
文化や流行についても同様の事態が生じた。芸能というものは地域の中だけで構成されるわけではない。大都市圏からもたらされる流行や話題を取り込み、そこに解釈を加えることで初めて成立するものである。しかし、その原動力となる都市文化の伝道者は、戦後に入り目に見えて減っていった。テレビという映像メディアの普及で、茶の間にいながら都市部の文化を見聞きできるようになったからだ。
テレビを見ていれば、流行り物の触りだけは伝わってくる。しかし、それはあくまで一面的なものである。文化として取り込むためには、実態を知り直接教授を行うような人材が必要となる。しかし、歌であろうと踊りであろうと、それらを作り教える場所は既に大都市圏へと移っていた。
地方で芸能を教え成熟させる者が減ったこと、都市部の芸能を伝える者がいないことで、地方の芸能は衰退していった。一方、都市部のメディアが繰り出す芸能は世間の常識のように語られ、全国に浸透していく。その結果、地方では徐々に世間の流行への出遅れが目立つようになった。
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