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流行に乗ることは悪くない

 2020年に入ったということで、昨年のことを一通り思い返してみよう。新しい年号である『令和』、タピオカミルクティー、香港の大規模なデモ、グレタ・トゥンベリさんら若い世代による環境問題への呼びかけ……。たった1年という短い期間の内にも、多くの出来事とそれに付随する流行があったはずだ。そして、誰もが報じられるニュースや井戸端の話題としてそれらに触れ、いずれかのもたらした流行に乗っかって騒いだり、あるいは距離を置いて冷ややかに見つめたりといった態度を各々でとってきたと思う。

 僕達の生活は、時々刻々と移ろう世の中に聞き耳を立て、ころころと変わる流行事に身を任せることで成り立っている。特定の商品が流行ればそれを買い、特定の場所が流行ればそこを訪ねる。もっぱら社会現象として捉えられるそれらは「商売の企みに乗せられている」「中身のないものだ」「マナーを守らず周囲は迷惑している」とメディアや論者から批判をぶつけられ、それでも懲りずに人々の間で広がっていく。かと思えば、大衆の熱が冷めたら痕跡すらも留めずに、幻同然の体で消えてしまう。

 時として、流行とは考えもなく他人に流されることだと断じる人がいる。けれど、僕は流行というものを「自我の伴わない流された行動」だとは決して思わない。流行に乗るという行動は、身内の話題に合わせるための努力であり、自分自身の社会的な欲求に基づいた選択でもあるからだ。ただ物を買って満たされたり、旅をして充足感を得ることを求めるだけなら、そもそも流行りなど存在しない。僕達が流行りものを求めて乗っかるのは、その行いの中に抱いた感情や思い出を他の誰かと共有し、盛り上がることができるからだ。

 たとえば、平成から令和へと年号が変わった2019年の5月1日。僕達は日付が変わるその瞬間を指折り数え、日を跨いだその瞬間を祝ってメッセージを送ったり写真を撮ったりしていた。そこでカメラのレンズが捉えたのは「令和を迎えた瞬間」だっただろうか。違うはずだ。僕達が記録に残そうとしたのは、「令和を迎えて喜ぶ僕達の姿」であり、「その瞬間を味わった人々が生んだ空間の熱気」だったはずだ。カメラやスマホを向ける人達は、令和の空気に佇む僕達の感情を、思い出をこそ形に残そうとしていた。

 流行の食べ物や飲み物にしたって同じだ。それ自体の味や食感に魅せられて足しげく通う人は確かにいるが、比率で見れば、一緒に食べた思い出や仲間との旅の記憶を共有している人の方が多い。

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