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「好きなことで生きていく」ことの難しさ

 僕達がインターネットにまだ広さを感じていた頃、動画投稿サイトのYouTubeはタイトルに書いたような売り文句を掲げていたことがある。その当時のYouTubeにおいて一世を風靡していたのは、好きなことをやって動画に仕立てる人達や、とっておきの一芸を披露して人気を獲得する人達だった。だから、あの時のコマーシャルにおける「好きなことで生きていく」とは、誇張でもなんでもなく事実を述べたものだったし、運営者もそのようなスタンスを維持してサービスが発展していくべきだと考えていた。

 それから何年か経って、YouTubeは様相が一変してしまった。自分の得意なことや人々を惹きつけるものを発表するのがメインだったのが、今では恒常的に配信を行う事業者めいたユーザーと、煩わしくて信ぴょう性の薄いゴシップ動画を拡散するスパムとがひしめく、スラム同然の混沌としたサイトと化している。両者とも「質より量、ボリュームより頻度」といった体で動画を投稿している点では似通っている。少なくとも、かつての「好きなこと」と縁遠い場所になってしまったことは確からしい。

 勿論、昔と同じような趣旨で、自分の好きなことを大事に作り上げた動画をアップロードしているユーザーはいる。しかしながら、そうした動画はなかなか表に出てこない。気になったキーワードを検索にかけた際、ページの先頭を占めているのは、コメンテーターや識者を気取ったコンテンツか、どこかから引用した文章を淡々と読み上げる動画である。目的の動画を探り当てるには根気強く探し続けなければならないので、少し興味を持った程度で検索する視聴者の目に触れる頻度は低い。以前と違い、独自性を貫く人達には生きづらく実りの少ない場所になっているのだ。

 あれほど才能の輝きにあふれ楽しさを謳歌していた場所が、なぜこのような変貌を遂げてしまったのか。僕個人の見立てではあるが、これには、動画サイトにおけるコンテンツの位置付けと収益制度が絡んでいるように思う。

 動画投稿の再生環境やアップロード環境が整備され、配信サービスとして確立された当初、個人で作成した動画をアップロードするという行為はある種特別な意味を持っていた。既にホームムービーという形で、自分の身内だけで消費される動画は一般に普及していた。しかし、見ず知らずの相手が自由に視聴できる環境で個人が動画を提供することは、精神的にも技術的にもハードルの高いものだった。

 同じく公衆の面前にあるものとしての比較対象は、まだエンターテイメントとして主力にあったテレビ番組や商業ビデオ、映画作品。映像の素人にはそんなレベルの面白さなど作れないという意識が根強かったから、ユーザー動画の投稿というのはかなり勇気のいる参加型要素だった。「収益を得る」なんて、それこそあり得ないことだと思っていただろう。

 YouTubeは、そうした世間の抱える意識の壁を取り壊したサービスの一つだった。ユーザー登録すればどんなジャンルの動画も投稿でき、誰もがブログのようにコメントを投稿できる。かしこまったものを作って公開しなくてもいいという雰囲気を醸成したことで、新進気鋭のウェブサービスは人々の動画投稿に対する遠慮を取り払うことに成功した。日本においては匿名掲示板の空気を含んだサービスだったニコニコ動画が同様の開拓を成功させているが、「特別なことをする必要はない」という意識を育んだという意味では、共通の要素を含んでいたと言える。

 こうした状況の中で、ユーザー発の強力なコンテンツとして確立されていったのが、芸事や技能を売り物にした「好きなことをする」動画だった。やっていることは広場の大道芸に近いかもしれないが、場所を選ばず自分の長所を発揮していける動画サイトは彼らにとって次世代の武器として機能していた。

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