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ホラーは「考察」に抵抗することができるか ~大森時生×梨インタビューを読んで~

 

 Xのタイムラインに流れてきたホラークリエイターへのインタビューが面白かったのでそのことについて少し書きたいと思う。テレビ東京のプロデューサー大森時生氏とホラー作家の梨氏に近々で二人が手掛けたいくつかのホラーコンテンツについて聞いていく内容である。実はいまたいへんなホラーブームが巻き起こっている。映像や小説、怪談に至るまで様々なコンテンツや新しい表現が次々と生み出されている。そうしたクリエイターの中でも特に注目されているのが彼ら二人である。

 ここでは二人がフェイクドキュメンタリーという手法でコンテンツを作るに至った経緯が説明されている。曰く2010年代までのホラーコンテンツは創作か実話かという真贋について発信者(作者)も消費者もあえて追求しないという約束のもとで受容される面が強かった。そこでは「ウソか本当かわからない」という態度のロールプレイを楽しむ文化があり、仮に創作であることが明確なものでも、あえてそれにノルことで楽しむという態度がシーンを盛り上げていた。例えば心霊ドキュメンタリーや心霊ビデオといった映像作品群やネット怪談(シャレにならないほど怖い話を集めてみないかスレ)などがある。実はネットの登場から現代にいたるまで、長きにわたりこのような状況の下でホラーという文化が培われ豊かに広がっていた。

 しかし一方で「考察」という文化も同時に盛り上がり始めた。その源流をたどることは難しいが、今やその帰結として「ONE PIECE」の伏線回収的な展開によって読者たちの考察合戦が白熱化している状況を見ることができる。大森氏は「一つ一つのピースを自分で文脈を紡いでいくコンテンツの需要」が生まれ、梨氏は「自分で読み解いて、それを共有して、自分が一番読み解けたと思いたい欲求」があると言う。そこに共通しているのは「主体性(当事者性)への欲求」であり、その原因を大森は「実世界で本当とフィクションの区別がつきにくくなっている」からではないかと分析する。現実に起こっていることですら何が真実か分からない、例えば新型コロナウイルスの蔓延とそのワクチンの接種をめぐり巻き起こった何を信じればいいのか分からず真実を求めて対立するような状況などにも見られたように、現実に対しても主体的な「考察」の欲求を生み出し、結果的にその悪しき側面がフェイクニュースやポストトゥルースそして陰謀論に繋がっているのではないかとも言う。ここから大森氏は「「ONE PIECE」の考察は陰謀論に似ている」「考察という言葉は本当になくなってしまったほうがいい」とまで語り、「考察」文化の持つ危険性について鋭い認識を示している。

 このような状況分析のもとで、どのようにこの「考察」文化に抗っていくかが彼自身のコンテンツ制作の軸に繋がっており、私はこの分析とクリエイターとしての批評的な創作姿勢に感心した。というのも私は元々大のホラー好きであり、昨今のホラーブームとそこから生み出される新しいホラー表現やコンテンツに非常に関心を持っているからだ。そしてこのコンビが最近テレビ東京で作成した「イシナガキクエを探しています」(ヘッダー画像)というフェイクホラードキュメンタリーはとても面白い試みだと感じていた。その魅力もこのインタビューを読むことで理解が深まり、より深い関心につながったように感じる。

 さて、大森氏が「考察」/「陰謀論」的なものへの抵抗として選択した方法は次の通りだ。まずは「初めからこのドキュメンタリーがフィクションであると謳う」ことである。これまでのホラーコンテンツは「嘘か本当かをあえて論議せず」あえてロールプレイ的に楽しむという消費者への高いリテラシーによって支えられていた。そこではホラーコンテンツを誰が作ったか分からない、もしくは作者自身が後退した「作者の透明性」が重要な役割をしていたが、現在ではホラークリエイターの固有名が認知され、そのことで作り手からの情報の発信も可能になり、こうした状況下で大森氏は「考察ものではありませんと積極的に言う」という選択をしている。そのことによって「フィクションと謳ったうえで陰謀論に勝ちたい」そのようなささやかなプライドを持ち続けたいと語る。

 私はこのような大森氏の姿勢を評価したい。創作の哲学に支えられたクリエイターはジャンルを切り開き、新しいものを生み出す重要な存在だからだ。しかし私はこの大森氏の方法については、その批評性がどれだけ機能しているのか疑問を持つ。果たしてこの方法は「考察」に、そしてその先に繋がる「陰謀論」にどれだけ抵抗できているのか。大森氏はフェイクドキュメンタリーが「初めからフィクションであることを謳う」ことが抵抗に繋がると考える。しかしそれはむしろ「真実」に見えるものにも「作者」がいると思わせてしまう可能性を生んでしまうのではないか。彼が仮想敵として挙げる「ONE PIECE」はそもそも初めからフィクションとして受容されている。ここでは「フィクション」であることは少しも考察を妨げはしない。大森氏は自身のコンテンツ制作について「情報を少なくして見せることで惹きつける」ことや「最初に惹きつけられるような導入があって、そこの先にある物語世界にダイブしていく感覚」など「主体性を生むホラー」に視聴者が踏み混む仕掛けを重要視している。ここからも分かる通り、彼が作るコンテンツは必ずしも「考察」から逃れるものではなく、むしろいっそう「考察」に導くようなフォーマットを積極的に採用してしまっているように見える。これはまさしく作者が作品をコントロールしているので「考察」をすれば答えにたどり着けることを裏付けるような発言とも捉えかねられない。(実際ネット上には「イシナガキクエを探しています」の「考察」があふれている。)ここからいったいどのように考えれば「考察」を逃れるような効果を期待できるのだろうか。

 これまでの大森氏の分析からも分かる通り、彼は「主体性」や「当事者性」自体が「考察」を生むと考えている。そこでは「読み解く私」が積極的にピースを集めてしまう。ここに厄介な問題がある。「主体性」はとにかく点と点をつなぎ合わせて何かを暴きたいという欲望に支えられている。そこでは「フェイクである」「フィクションである」ことはもはや問題ではない。「実世界で本当とフィクションの区別がつきにくくなっている」と彼自身分析している通り、そのような世界では「嘘か真実の最終的な審判」が私のいる地点からは不確なことから、全ては作り物であり真実に見えるものも誰かの作り物ではないか、それであればむしろ主体的に自分の信じたいこと信じ込み(ポストトゥルース)、断片を積み上げてロジックを作りあげ、そこに「フェイクニュース」や「陰謀論」が生まれる。ここに「主体性」を持って世界を「考察」することが「陰謀論」を生むという厄介な問題の源流があるように思える。

 実は大森自身もこの危険性に自覚的である、「主体性のあるコンテンツとかロールプレイ的なものはどうしてもそこ(いつ自分が間違うのか気が付けない)とは不可分ではいられない」と。考察を欲望し続け、何かしらの答えにたどり着いた主体は「真実に近づいた」という快楽を感じ、さらに考察を加速してしまう。しかし実はその考察が何の根拠もなく、むしろ完全に間違っているかもしれないという事実に気が付くことができない。「真実にたどり着きたい」という欲望が「真実のように見えるフェイク」を生み出してしまう。また「ホラー」というジャンル自体が多かれ少なかれ「分からないこと」や「謎」を内包していることから「ミステリー」や「サスペンス」の要素を持っており、それはそもそもの成り立ちから「考察」を欲望させる性質を持ち合わせていることを意味している。「考察」に抵抗するフォーマットとしては「ホラー」はそもそも相性が悪いのだろうか。

 ホラーが文化として受容されるために少なからずエンターテイメントの要素が必要なのだとしたら、そのようなエンタメ性を排除、もしくはエンタメ性を持ち合わせたまま「考察」を誘発せずに存在できるのだろうか。(大森氏自身もテレビのフォーマットである以上ある程度のエンタメ性を避けられないことを自覚しているし、むしろそれを利用しようとしている。)難しい問いに見えるが、実は一つのカギになる現象がこのホラーブームの内部で同時に起こっている。皆が知る怪談というジャンルの中に「実話怪談」というサブジャンルがある。これはあくまでも誰かが実際に体験したとされる恐怖体験(もしくは不思議な体験)を語りというフォーマットで表現するものである。このジャンルの特異な部分は「よくわからない話ということ自体に怖さや面白さが生じることである。つまりよくわからなければよくわからないほど存在として際立つのだ。この「よくわからなさ」は聞き手に何のヒントも与えてくれない、むしろその脈絡の無さは物語化を拒絶しているかのようであり、そこから生まれる考察不可能性こそが最大の魅力とも言える。これは大森氏の「フィクションとしての提示」とは真逆のものに思えるが、彼が作成した「イシナガキクエを探しています」にも物語化を避ける「よくわからなさ」に支えられている要素も多くみられる。また語りではなく小説や文章などの文字による怪談はより創作性が高いように思われるが、それらにも脈絡が無くわけのわからない話が多く掲載されている。

 このような事例から見ると「考察」させない「ホラー」の可能性も同時に模索できるのではないかとも思えてくる。謎解きのピースを拾い集めて積み上げていく、そのような構築性を欲望させる構造から、むしろ構築自体が不可能になり、構築性の欲望自体が解体され、全く太刀打ちできず主体的な読み込みが決して許されない「畏怖」にも似たものへの新たな欲望。そこでは作者も読者も全く同じレイヤーで制御も予測も不可能な新しい次元が広がっている。

 ホラーとは「考察」の欲望を喚起させながら、かつその欲望自体を「解体」するような二重の力を持ったジャンルなのかもしれない。そして仮にパズルのピースが合わず、話に脈略が無く、考察を拒絶するような要素があっても力を失わなわずむしろ魅力が増してしまうような唯一無二のジャンルではないだろうか。大森氏梨氏が言うように今もっとも「遊べる場所」としてのホラー、いまだタコ壺であるサブカルチャーとしての入れ物をいつかブームの終わりが来るその時まで豊かに溢れさせて、欲望を考察だけに仕向けず、分散し解体し変化させ新しい文化の景色を作り出して欲しい。

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