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ものがたり屋 参 新 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

新 その 2

 それは光からはじまった。
 それは闇からはじまった。
 それは思うことからはじまった。
 それは、終わりからはじまった。

「なんだか紗亜羅の様子がおかしいんだよね」
 この実は軽く溜息をついた。
「どんな感じなの?」
 大学からの帰り道。麻美は肩を並べながら駅に向かう道すがら、気遣うように尋ねた。
「ほら、ムキになっちゃうというか。ううん、どっちかっていうと一途。そう一途なところがあるのよ。あの娘」
 立ち止まるとこの実は麻美の眼をじっと見つめた。
「解る気がする」
「なんだか、いまは頭の中が真神亮のことでいっぱいみたいなの。もう、それ以外なにも眼に入らないというか。一緒にいてもわたしのことなんて、これっぽっちも気にならないみたい。それはいいんだけど、そこまでのめり込むと……」
「なにかあったときの反動が怖いわね」
 麻美はこの実の眼をじっと見返して頷いた。
 赤と緑のクリスマスカラーに彩られた街並みにオレンジ色が混じりだしている。まるで急ぎ足のように陽が暮れようとしていた。吹く風も冷たい。ふたりの足下をかさかさと音を立てて枯れ葉が舞っていく。
「紗亜羅のやつったら。まったく、もう」
 この実は俯いたまま大きく溜息をついた。

 琴音は商店街ではなく、公園を突っ切って駅へ向かおうとしていた。以前に商店街で例のふたりに絡まれたからだった。
 傾いた陽射しがベンチの影を長く伸びきったものにしていた。歩道に散らばった枯れ葉を踏みながら琴音は足早に歩いていく。冷たい風が枯れ葉を舞わせる。思わずコートの襟元を掻きあわせた。
 そのとき枯れ葉を踏む音が不意に止まった。
「よう、待ってたぜ」
 土足のままベンチの背凭れに腰を下ろしていたツーブロックの男が琴音を睨みつけた。
「もう、いい加減にしてよ!」
 琴音はさすがに声を荒げた。
「そりゃ、こっちの台詞だって」
 ベンチの傍らに立っていたソフトモヒカンの男がドスの利いた声で凄んだ。
「お前の弟の厄介ごとをちゃんと解決してやったんだ。そのお礼ぐらいきちんとしてもらってもいいだろ」
 ツーブロックの男が琴音に迫った。
「関係ないじゃない!」
「そうはいかないんだよ。こっちはただの親切な人助けじゃないんでね。それなりのお礼ってものが必要なわけだ」
 ソフトモヒカンの男が琴音の背後に立った。
「黙って車に乗ればいいんだよ」
 ソフトモヒカンの男は琴音の両肩を掴もうとした。
「こっちも人助けじゃないんだけどね」
 亮だった。
「またてめえかよ。すっこんでろ!」
 ふたりと対峙するように立つ亮をツーブロックの男は睨めつけた。
「見て見ぬ振りはできない質なんでね」
「でけえ口叩いてるんじゃねえぞ」
 ソフトモヒカンの男は琴音から離れると亮と向かい合った。
 そのすぐ横でツーブロックの男は両手でファイティングポーズをとった。どうやらこういった荒事には慣れているようだった。ソフトモヒカンの男が亮にさらに一歩迫った。
「怪我しないうちに帰った方がいいぞ」
「暴力で黙ると思っているところが単純だな」
 傾いた西陽を正面から浴びながら亮は微笑んだ。
「なに余裕ぶっこいてんだよ」
 ツーブロックの男がいきなり殴りかかってきた。亮は左腕でそれを簡単にブロックした。すぐにツーブロックの男が回し蹴りをくれた。亮はこともなげに右腕でその足を掴むと、そのままツーブロックの男の両足を左足で払った。ソフトモヒカンの男はその場で尻餅をついてしまった。
 その隙を突いてツーブロックの男がさらに殴りかかってきた。亮はその腕ごと掴むとその左頬に強烈な右フックを打ち噛ます。ツーブロックの男はもんどり打って倒れた。
 一瞬のことだった。
 ──なに、すごくない?
 偶然、公園の入り口近くのベンチの影にいた紗亜羅はこのあっという間のできごとを目撃してしまった。
「どうする?」
 地面に倒れたままのふたりを見下ろしながら亮は小首を傾げた。
「てめえ……」
 ツーブロックの男は手の甲で唇を拭うと、血の混じった唾を吐き捨てた。
「代償は高くつくぜ」
 ソフトモヒカンの男は改めて亮の顔を睨めつけた。
 ふたりは亮から眼を離さないようにのろのろと立ち上がると、互いに顔を見合わせて、ゆっくりと後ずさるようにしてその場を立ち去っていった。
「できたら二度と見たくないものだ、その顔は」
「ありがとうございました」
 琴音は眼に涙を浮かべながら何度も頭を下げた。
「気にしなくていいよ。相手が悪いだけだから」
 亮はただ頷いた。
「でも、ほんとうに助かりました」
 琴音は繰り返し頭を下げながら、駆けるようにして駅へと向かっていった。
「なんだか余裕綽々なんだね」
 ちいさくなっていく琴音の後ろ姿を見つめていた亮に紗亜羅は歩み寄っていった。
「見世物じゃないんだけどね」
 亮は振り返ると、じっと紗亜羅の眼を見つめた。
「ねぇ、あなたっていったいなにものなの?」
 紗亜羅は真剣な眼差しで見つめ返した。
 亮は探るように一瞥をくれると頬を緩めた。
「真神亮。それだけだよ」

 ──そんなわけないじゃん!
 わたし知ってるんだから。あなたの正体。
 紗亜羅は半ばむくれながらキャンパスを歩いていた。
 昇ったばかりの陽射しがやっとその温もりを届けようとしていた。風はどこかよそよそしい冷たさを忍ばせたまま吹いてくる。紗亜羅はコートの襟元を気にすることなく、知らず足早になっていた。
 翌日のことだった。
 朝一番の講義に出席することなく、キャンパスのはずれにまるで忘れ去られたようにポツンと建っている古い校舎を目指していた。
 雑然とした通路を通り抜けると、廊下の奥にあるエレベーターのボタンを押した。まるで溜息をつくようにのんびりと降りてくるエレベーターを紗亜羅は貧乏揺すりをしながら待った。
 それでもやっとのことで四階に辿り着くと、廊下の突き当たりのドアを勢いよく開けた。
「あれ? おはよう」
 窓際に立っていた結人は振り返ると意外そうな声を上げた。窓からは陽射しがわずかに覗いている。右手にはカップを持ち、口をつけたばかりだった。
「のほほんとしている結人見ると、いつも気が抜けちゃうのよね」
 紗亜羅は結人には構わず窓際のテーブルに腰を下ろした。
「それはごあいさつだね」
 結人は微笑みながら向かい合うに腰を下ろした。
「ねぇ、結人はいつもいってるわよね。この世には不思議なことがいっぱいあるんだって」
 紗亜羅は乗り出すように結人の眼を見つめた。
「ああ」
 笑みの消えた真剣な顔になり結人はしっかりと頷いた。
「もう、解らないことだらけなの。なにがどうなっているのか、どうしていいのか、わたしったらまるで真っ暗な闇夜の中を歩いている気分で……」
「それで?」
「見てほしいものがあるの。でも、これが現実のことなのかどうかもあやふやで、もう嫌になっちゃう」
 紗亜羅はトートバッグからスマホを取り出した。アプリを起動して画像を再生をはじめると、それを結人の眼の前に突きつけるように見せた。
 いきなり突き出されたスマホをそれでも結人は受け取ると、じっと画面を見つめた。
 がさがさという軽いノイズに混じって、ちいさな音だったけどやがて遠吠えが聞こえてきた。夕闇に染まった山々に谺して、いつまでも響く。
「これって……」
 結人は戸惑いながら紗亜羅の顔を見返した。
「映画なんかの作り物じゃないことは確かよ。このわたしが実際に山に分け入って、この眼で見たものをそのまま録画したんだから」
「でも……」
「そうなのよ、でも、ってなるでしょ。なんなの、わたしが撮ったこの映像は」
 紗亜羅は椅子に凭れかかると両腕を胸の前で組んだ。
 結人はただじっと画面を見つめたまま何度も映像を再生し直した。
「ねぇ、質問なんだけど日本に狼男っていたの?」
 紗亜羅は小首を傾げた。
「いわゆる獣人伝説みたいな話は日本にはないよ。主にヨーロッパだね、人間が狼に変身するって話は。日本だと基本的にはたとえば化け猫みたいに獣が妖怪になることはあっても、人間になることはないな」
 結人は記憶を探るようにじっと考え込みはじめた。
「キリスト教圏だと狼に変身するのは悪魔の所業と捉えられるけど、日本だと狼の存在がそれとは違うんだ」
「どういうこと?」
 紗亜羅は探るように結人を見つめた。
「狼。大きな神と書けるだろ。日本では神様として扱われることがあったんだ。大神、犬神いずれも神という漢字を使うよね」
「なぜなの?」
「食料を食い荒らす害獣から狼が守ってくれるから神聖視されたみたいだね。いつしか霊験あらたかな存在になったんだろう」
「だから、大神なわけか」
 紗亜羅はひとりごちるように呟いた。
「ニホンオオカミは絶滅しているはずだし、人が狼に変身するという伝説も日本にはない……」
「それでも、わたし見た」
「うん」
 結人は納得のいかない表情で頷いた。
「やっぱり、この世は不思議なことだらけなのかな」
「そうだ、彼の名前、真神だけど」
「それがどうかしたの?」
 紗亜羅は首を傾げた。
「大神の別のいい方なんだよ。つまり狼そのもののことなんだ」

 すっかり陽が暮れてしまった。
 あたりは夜の闇に包まれ、吹きつける冷たい風もあってなぜか心細さまでそっと忍び寄ってくるようだった。
 亮は自宅へと向かう道を歩きながら、ふと夜空を見上げた。濃紺に染まった空が広がる。ひとつふたつ瞬く星はあってもそれ以外に夜の帳に輝くものはなかった。
 バス通りを折れると住宅街へと歩を進める。
 そっと右拳を握り締めてみる。ひどく頼りない感触しかなかった。
 ──新月だもんな。
 身体全体からエネルギーというものが静かに零れ落ちてしまったようだ。それでもごくふつうの人間とは変わらないはずだった。
 月が満ちるに従って漲り溢れてくる圧倒的なパワーが、いまはないだけ。それだけのはずだったけれど、むしろ弱々しさが際立っているように感じてしまう。
 角を回ればすぐにマンションが見えてくるはずだった。
 そのときいきなり背後からライトが照らされた。振り返ると車のヘッドライトだろうか。眩しい光が亮を照らし出していた。
 ──!
 逆方向からも同じようにライトの光が亮に当てられた。あまりの眩しさに手をかざそうとしたときだった。
 ガツッ。
 後頭部に激しいショックを感じだ。まるで頭の奥で火花が散ったような苦痛を伴う衝撃。
「うっ」
 亮がその痛みに思わず頭を抱えようとすると、今度は腹部を殴打された。どうやら拳ではなく、木製のバットのようなものだったかもしれない。
 さすがの亮も身体をふたつ折りにして崩れ落ちかけた。
 そこへまた殴打が加わった。今度は頭部、背中、腹部とあたり構わずだった。
 いったい何人に囲まれてしまったのか。まったく解らないまま亮は文字通り袋抱きにされた。相手はただ無言でしかも容赦なく木製の棒状のもので力任せに叩きつけてくる。
 亮は倒れ込むと身体を丸めてその殴打をただ受け続けた。
 すぐにそこに蹴りが入った。
 ガツッ、ガツッ。
 肉が潰され骨が軋むような無機質な音が続く。
 ガツッ、ガツッ。
 やがてその殴打は止んだ。どうやら殴り疲れたようだった。
 丸めた身体のまま顔を上げようとする亮と相手の眼が合った。
 見覚えのある顔だった。
 ツーブロックの男。琴音に絡んでいたヤツだ。
 満足げな表情を浮かべると亮に唾を吐きかけた。
「きゃあ!」
 そのときすぐ近くで叫び声が上がった。
 その声がまるで合図だったように亮を取り囲んでいた奴らは車に分乗すると、その場を去っていった。
「亮くん!」
 駆け寄ってきたのは紗亜羅だった。
「やあ、また会ったね」
 亮は苦痛に顔を歪めたまま呟いた。
「大丈夫?」
 紗亜羅は亮の上体を抱き抱えようとした。
「ズタボロってのはこのことだな……」
 亮は笑おうとしたが、しかしそこで意識を失ってしまった……。
はじめから

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