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ものがたり屋 参 刻 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

刻 その 2

 時と時の間隙に墜ちるとき、
 この世のあらゆるものをはじめて知ることになる。
 その隙間に迷い込むと刻に囚われる。
 そこには閉じ込められた永遠だけがある。

 いつも朝はシャワーだったのに、なぜかこの日は湯に浸かった。
 なぜそんな気になったのかよく判らなかったけど、もしかしたら朝の目醒めがすっきりしていなかったからかもしれない。いや、そんなものじゃないな。憂鬱で仕方なかったのだ、この朝が。このところ、朝はいつもこんな気分になる。
 だからだろう、浴槽に湯を満たして、そしてそこに身体を沈めた。
 そして……。

 しばらく湯に浸かってから思い切って風呂を出た。
 浴室の鏡に映る自分の顔を見ながら歯を磨き、顎のあたりを撫でて確認をしてから髭を剃った。なんだか妙に顔色が白っぽい。
 ──確かに健康的なタイプじゃないしな。
 ひとりごちるとバスルームを出ようとして、カッターナイフが落ちているのに気がついた。なんだってこんなところに転がっているんだろう。さほど気にすることなくそれを手にリビングへいった。
 いつものように身支度をしてから、リュックサックの中味を確かめる。今日は講義があるので、必要な本や資料を放り込んで背負った。
 テーブルの上においてあったスマホを手にして家を出る。
 眩しいほどの陽射しが直撃してくる。桜が散って緑が鮮やかなになりはじめる季節。でも、陽射しが強くなるにつれてぼくの心は逆に萎んでいくのを感じる。
 ──だって気持ちいいじゃない。
 笑顔でいったのは間瀬美咲だった。ショートカットがキュートな娘だ。
 ──だからただのショートじゃなくて、ショートボブだって。
 女の娘の髪型の違いがよく解らないぼくに、そんなことをいって笑った顔がなんだかとても眩しかった。
 いつごろからだろう、親しくなったのは。去年の夏休み明けだったろうか。テストが終わった後の講義で、ぼくが熱心にノートを録っていることを知った彼女が、ノートを見せてほしいと話しかけてきたのだ。
 ミニスカートからすらりと伸びた足がとても綺麗で、ぼくはなんだか眼のやり場に困ったことがあったっけ。大人びた顔だけでなくスタイルもよかった。
 こんな娘と話ができることにちょっと驚いたことを覚えている。
 それがきっかけで言葉を交わすようになっていった。もちろんはじめは他愛のない会話がほとんどだったけど、そのうちカフェエリアで一緒にお茶を飲むようになり、年が明けると食事をしたりもするようになった。
 彼女のハキハキとしたものいいがとても心地よかった。
 ぼくは電車に揺られながら学校に向かう。
 今日は彼女、美咲は学校にいるだろうか?
 それだけがぼくの心の裡を占めていた。だって彼女の笑顔が大好きだから。
 ドアの近くに立つと外を眺める。家々がまるで飛び去っていくように見える。そのガラスの部分にぼくの顔が映っている。やっぱりどこかちょっと青白いかもしれない。
 外の光が眩しければ眩しいほどその青白っぽさが際立って見える。
 顔にかかる髪がちょっと気になる。
 ──もうちょっと伸ばして、それから髪をまとめて縛っちゃうか。
 でも、なんとなく額のあたりを開けっぴろげにする気にもなれずにこんな髪型のまま、もうずっと過ごしている。見馴れてしまえば、きっとそれまでだ。髪は垂らしたままの方が落ち着く。

 学校に着くと、まず美咲を探した。
 初夏を思わせる陽射したっぷりのキャンパス。ゴールデンウィークを目前にしているからか、行き交う学生たちがなぜか浮き浮きしている。
 ぼくは俯き加減に中庭を通り過ぎるとカフェエリアに向かった。
 テーブルのあちこちにいくつかのグループがいる。
 賑やかな集団の中に美咲がいた。
 隣に座っている朝見紗矢と美咲のふたりを男子学生が囲んでいる。美咲はテーブルの上に乗ったカップに手を伸ばしながら笑顔で話を聞いていた。
 しきりに話しかけているのは副島唯士だ。自称サーファーらしい。いや、ウインドサーフィンだったろうか。口を開くと海の話しかしない奴だ。美咲はいつもあしらうように対応していたけど、なにかと話しかけてくるらしい。
 ──女の娘のことしか頭になくて、それ以外は空っぽなの。
 いつだった美咲が吐き出すようにいっていたことがあった。
 取り巻き連中もいてふだんから四人ぐらいで連んでいる。そんな奴らが美咲と紗矢を取り囲んでいた。
 なんだか近くまでいけそうになかったので、すこしだけ離れたテーブルに腰を下ろして、じっと美咲の方を見つめた。こういうときはちゃんと意識して見つめた方がいいらしい。
 そんなぼくの視線に気がついたんだろう、美咲が微笑みを返してきた。しきりに話しかけてくる副島に頷きながら、そっとぼくに目配せをくれた。
 ぼくはなんとなくその意味を理解して頷き返した。
 美咲はその容貌からキャンパスでも目立った存在だったから、いろいろと話しかけてくるやつは多い。けれど彼女のいいところは嫌な顔ひとつせずに、さりげなくそういった連中を相手にしながら、きちんと自分の領域を守るところだった。
 だからこういうときでも、ちゃんとぼくのことに気を遣ってくれる。

 すぐに次の講義がはじまる。美咲たちはぞろぞろと教室へ向かいだした。ぼくもすこし離れて同じように教室に向かった。
「どこへいくつもりだ?」
 ぼくの進路を塞ぐように副島たちが目の前に立っていた。
「いや、講義だから」
 ぼくは俯いたまま答えた。
 こういうときはまともに相手をしない方がいい。なぜだかそう思った。
「お前、学部どこ?」
「どの講義に出ようと関係ないだろ」
 ぼくは小声で答えた。
「なんだか勘違いしていないか?」
 そういって副島は凄んでみせた。
 ぼくは上目遣いに奴の顔を見た。そのとき心配そうにこっちを観ている美咲が眼に入った。
 ──心配ないから……。
「勘違いって?」
「美咲にまとわりつくのは止めろよ。彼女も迷惑がっているんだ」
 副島はそういうとぼくの眼を睨みつけてきた。
「そっちこそ、なにか勘違いしていないか? だれのなんの話をしているんだい」
 ぼくは努めて事務的にいうと、彼の脇をすり抜けるようにして教室へ向かった。
 つまらない講義だった。いや、どれもつまらないか。でも、このギリシア古典論という講義はとくにつまらなかった。せっかく美咲と同じ講義を受講しているというのに、ぼくははじめての講義のときから興味をすっかり失ってしまっていた。
 しかも彼女の周りには取り巻きがいて、席を同じにして講義が受けられないというのも苦痛のひとつだった。とくに副島は目障りだった。
 
 ──お前こそ、何様だよ!
 正直むかついた。
 ここまで腹が立ったことはないかもしれない。それほど副島に対して怒りを覚えた。
 そのおかげでこの日は一日、なにも手につかなかった。
 ──眼にもの見せてくれる。
 確かにいいことじゃないかもしれない。それでもぼくの心はその真っ黒い思いでいっぱいになってしまったことは確かだ。
 問題はどう思い知らせてやるか。それだけだった。
 家に戻ると机に向かってノートパソコンを開く。副島については前からなにかと絡んできていたのでいろいろと調べておいた。それをまとめたフォルダを開く。あいつがSNSにアップした写真や情報をメモしたファイルでいっぱいだった。
 念のためにあらかじめ調べておいたあいつの住所を確認する。
 投稿した写真から自分の家が特定されるなんて、あいつの頭では想像もできないに違いない。スマホで撮った写真には画像だけでなくいろいろな情報が紐付けされている。その中にはGPSの位置情報も含まれていた。
 それを調べて、ぼくはマップアプリにマークしておいたのだ。マップアプリで改めてあいつの家の場所を確認して、ぼくは机の引き出しに隠しておいたフォールディングナイフを取り出した。ていねいに刃の部分を開く。使うたびにきちんと手入れしてあるので切れ味は確かなはずだ。
 そっとその刃の部分を指先で撫でてみる。鈍い光りとともに冷たい感触が伝わってくる。
 夜が静まるのを待ってぼくは副島の家に向かった。サーファーを気取っているわりにはあいつの家は横浜の住宅街にあった。きっと海までは車でいくんだろう。いや、ただマリンスポーツをやっている振りをしているだけかもしれない。
 駅からあいつの家までは十五分ほどだったろうか。スマホのマップアプリで確かめながら歩いていく。
 南の空に月が昇りはじめていた。満月を過ぎて欠けはじめたその月が意外なほど明るく夜道を照らしている。樹木のむせかえるような匂いがあたりに満ちていた。それはまるで精液を思わせる臭さだ。
 その匂い立つ香りがなぜかぼくの頭を痺れさせた。
 副島の家はすぐに判った。門の横にガレージがあって、そのすぐ脇にあいつがふだん自慢しているウインドサーフィンのボードなんかが置いてあった。
 辺りを窺う。二階建ての一階は真っ暗だった。二階の窓に灯りが見えたけど、あそこからガレージには眼が届かないだろう。
 ガレージの脇へ忍び込む。
 ウインドサーフィンの道具がどんなものなのか正確には知らなかったけど、ボードとセールに別れていたはずだ。月明かりを頼りにじっと目を凝らしてみると、ボードの横に透明のセールが巻かれた状態で置いてあった。
 ポケットからフォールディングナイフを取りだして、刃を開いた。空に浮かぶ月の光が冷たく反射する。
 まずセールをその場で広げると真ん中にナイフを突き立てた。あいつの、副島の顔を思い出しながら思い切り突き立てる。それからそのままズタズタに切り裂いた。
 ──美咲にまとわりつくのは止めろ。
 どの口がいうんだ!
 ボードにもナイフを突き立てた。ぼくの怒りが収まるまで何度も何度もだ。
 物音を立てないように気をつけながら、ボードのあちこちにナイフで傷をつけると、すぐにその場を離れた。
 なんだか復讐を果たしたような気になって、ぼくは高揚したまま駅に向かった。
 歩きながらぼくは美咲のことを想った。彼女の短くカットされた髪をそっと撫でる。そしてその頬にこの手を添えて、顔を近づける。そっと眼を閉じて唇を重ねる。
 そんなことを想像していたらいつのまにかペニスが硬く勃起していることに気がついた。きっと、むせかえるような樹木の匂いのせいだ。しかしどうすることもできずぼくはそのまま歩いた。
 駅に着くともう真夜中近かった。これから家に帰る気にもなれなかった。なんだか妙に興奮していたのだ。それはあいつの、副島の大切なものを傷つけることで復讐を果たしたという気持ちと、美咲に対する欲望が綯い交ぜになっていたからかもしれない。
 ペニスは硬くなったままだった。
 駅の近くに二十四時間営業のファミレスがあったのでそこに入った。
 席に着くと珈琲を頼んだ。しばらく頭を冴えたままにしたかったのだ。熱い珈琲をブラックのまま流し込むように飲んだ。その苦味が興奮しきっている心を満たしていく。黒い液体がぼくの心をさらに黒く染めていく気がした。
 スマホを取り出すと写真アプリを起ち上げた。アルバム機能でまとめておいた美咲の写真を順番に観ていく。
 美咲の笑顔、途惑ったときの表情、ちょっとすました顔。そのどれもが美しかった。そのどれもが愛おしかった。
 ──ぼくの美咲。
 ぼくはいつまでもいつまでも彼女の写真を見つめた。
 気がついたら朝になっていた。通りが見える店の窓越しに朝陽が飛び込んくる。その煌めきはぼくにはふさわしくないほど輝いていた。
 この輝きは美咲にこそふさわしいものだ。
 ぼくは店を出ると、乗客もまばらな電車に乗って、美咲の家のある駅で降りた。まだ通勤に向かう人もほとんどいない。
 ──美咲はどんな朝を迎えているんだろう?
 まだ眠っているかもしれない。起き抜けの顔はきっと可愛いだろうな。
 ぼくは股間の膨らみを意識しながら美咲の家に向かった。もちろんあらかじめ調べておいたのだ。スマホのマップアプリでその道のりは何度も確認してあったから、まったく迷うことなく彼女の住むアパートへ向かった。
 二階建てのアパートの階段を上っていく。一番奥の部屋が彼女の部屋だ。名札で確認して、そして……。
 ──いきなりドアチャイムでいいのかな?
 ぼくは玄関の前でちょっと考えてしまった。彼女の家を訪れるのははじめだった。どんなに親しくなってもやはり順序というものがある。
 けれどいまのぼくを、いまだに高揚したままのぼくの足を止める理由はなにもなかった。
 ドアを避けるようにして立つとぼくはドアチャイムを鳴らした。
 ぼくの心臓が早鐘を打つ。まるで永遠とも思える時が流れる。しぱらくしてもう一度ドアベルに手を伸ばそうとしたとき、いきなりドアが開いた。
 美咲がそこにいた。
 正面に人がいなくて不思議に思ったのか、首を傾げながら横を向いたときに、ぼくと視線があった。
 その瞬間だった。
 ぼくは彼女を身体ごと押し込むようにして家に押し入った。
 あまり突然のことに美咲は混乱してしまったようだった。
 ぼくは委細構わず後ろ手にドアをロックすると、彼女の口を左手で塞いで、そのままリビングまで押していった。
 ぼくの勢いに廊下の中程で美咲は転んでしまった。彼女はざっくりとしたスウェットのパーカを纏っただけだった。その裾が開けてすらりと伸びた足はもちろん、下着が丸見えになっていた。
 ぼくはそのまま美咲の馬乗りになる。左手は彼女の口を塞いだまま、右手にはフォールディングナイフ。
 美咲はなにか叫びたがっていたけどぼくがその口を塞いでいて声を上げられずにいた。
 ぼくは手にしたフォールディングナイフを彼女の左頬に当てた。
 大人びた綺麗な美咲の顔がゆっくりと恐怖に歪んでいく。その変わり様が堪らなくぼくの心を鷲掴みにする。
 ──愛しいぼくの美咲……。
 ぼくの股間は硬くなったままだった。
はじめから

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