見出し画像

ものがたり屋 参 環 その 4

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

環 その 4

 めぐる。古からめぐるもの。
 はじまりがあり、そして終わりはない。
 新たなはじまりへとすべては繋がる。
 めぐる。それは遙か古から続くもの。いつまでも……。

 吹く風が冷たい。ときおり空からは白いものが落ちて薄らと積もることもあった。義平たちが京へとむかった後、屋敷には人も少なく余計に寒さを感じるのかもしれない。主のいない屋敷は賑やかさとは無縁となり、まさに火が消えたも同じになるからだ。土間に立っていると足下から冷たさが伝わってくる。
「かえで、菜を切っておくれ」
 奥向きを仕切っているあさひにいわれてかえでは頷いた。
 菜を切り板に乗せると刀子で切りはじめた。
「そういえば義平様は大丈夫かね」
 椀の用意していたあさひがぽつりと呟いた。
「え? どうかされたので」
「なんだよ、話を聞いていないのかい。京での戦いに敗れたという話だよ」
「それは……」
「親方様の義朝様たちは京を逃れて東へと向かっているらしい」
「それで義平様たちも?」
「さて、詳しいことは聞いていないが落人狩りなんてのもあるし」
「落人狩り……」
 かえでの胸の奥を冷たい風が吹き抜ける。
「あちこちの村ではそこの村人たちが待ち構えているって話だからねぇ……」
 ──佐久間様……。
「痛っ」
 思いも寄らぬあさひの話につい気もそぞろになったかえでは刀子で左の人差し指を切ってしまった。
 その切り口からひと筋の鮮血が流れ落ちる。
 かえでは痛むことも忘れて流れる紅い血を見つめていた。

 翌朝、楓は大学へいくと迷うことなくカフェエリアへと向かった。結人の姿を探すためだった。さすがに朝一番にカフェエリアに結人はいなかった。
 キャンパスを歩き回り、やっとのことで敷地のかなりはずれたところにポツンと建っている古い校舎へ向かう結人を見つけた。
「久能さん」
 半ば強引に結人の腕を掴むと楓はその左手を見せた。
「いきなり、どうかしたの?」
「これ、見てください。この左手の怪我」
 結人は眼の前に差し出された楓の左手をじっと見つめた。
「これが、なに?」
 首を傾げて楓を見る結人の視線に一瞬言葉を詰まらせながら、それでも楓は口を開いた。
「昨日、また夢を見たんです。台所で食事の用意をするようにいわれたんです。それで菜を切っていたときに、いきなり気になることをいわれて、うっかり左の人差し指を切っちゃったんです。そこで眼が醒めたら」
「もしかして、キミの指が?」
「そうなんです。人差し指がぱっくりと切れていて……」
「つまり、夢の中で起こったことが、実際にキミの身に起きたということ?」
 楓は大きく頷いた。
「どういうことなんだろう?」
 結人は足下に視線を落とすとじっと腕組みをはじめた。
「だから夢の中のかえでは、このわたし、野仲楓なんです。なんて説明すればいいのか解らないけど」
「確かに夢の中で感じた感触といったものが、眼醒めてもそのまま残っていることはあったけど、しかしまさか……」
「だって、こうやって指を怪我しちゃっているんです」
 楓は絆創膏を貼った左人差し指を改めて結人の眼の前に突き出した。
「まさか、夢と現実が直結しているなんて……」
 結人はただ頭を振ることしかできなかった。

「くそっ!」
 義平は馬上で悔しそうに歯ぎしりをした。
 内裏を平家方にすっかり固められてしまった義朝軍は六波羅への総攻撃へとその矛先を変えた。しかし、六波羅は清盛本体ががっちりと守りを固め、いかな源氏方の猛攻といえどその牙城を崩すには至らなかった。
 軍勢の中へ騎馬のまま突入したのはいいが、しかしすぐにその周りを囲まれ、思うままに馬を操ることすらできなかった。
「義平様!」
「おうっ、佐久間か。ここが勝負所ぞ」
「しかし、多勢に無勢。いったん兵をまとめるが肝心かと」
 義平は群がる雑兵を返す刀でいったん蹴散らすと、馬上から戦いの様子を見つめた。
 押しているようには見えても、しかしまたすぐに敵方の新手が現れ、源氏方は消耗していた。押し返す力もすこしずつ鈍りはじめている。
「佐久間、いったん引くぞ」
「おう!」
 義平に従って綱を左に強めに引く。馬首を巡らせようとしたそのとき、後方から突っ込んでくる敵方の騎馬が眼に飛び込んできた。
 振り下ろされる刀をすんでのところで躱す。手にしていた槍をそのまま突き出した。しかし手応えはなかった。再度、刀が振り下ろされる。突き出した槍でそれを受けとめた。そのまま敵は馬ごとぶつかってきた。
 あっと思った瞬間、馬から落ちていた。右肩が酷く痛む。手にしていたはずの槍が転がっていく。
 その刹那、その視界に飛び込んできたのは血走った敵雑兵の眼だった。両手で刀の柄を握りしめ、必死の形相で振り下ろそうとしていた。
「うおっ」

 文字通り結人は飛び起きた。
 ぐっしょりと汗をかいていた。なぜか右肩が酷く痛む。そっと触ってみた。その手が触れるだけで激しい痛みが全身を駆け抜ける。
 ──なんだっていうんだ?
 結人は暗がりの中で自らの両手を見た。その左手には強く引いた手綱の、右手にはそれまで握っていたはずの槍の感触がそのまま残っていた。そして馬から落ちたときの右肩の痛み。
 ──もし、あのまま刀が振り下ろされていたら……。
 思い出すだけで背筋に戦慄が走った。
 階下へ降りると、リビングのラックにしまってあった薬箱を引っ張り出した。湿布薬を探しはじめる。
「結人、どうかしたのか?」
 哲人の心配そうな声が背後から聞こえ、結人は振り返った。
「ちょっとね。肩を打っちゃって」
「まさかベッドから落ちたなんていうなよ」
「そんなんじゃないよ。落馬だから」
 結人は苦笑した。
 哲人はそれには応えず、シャツを脱がせると結人の肩の様子を確かめた。
「かなり腫れてるぞ」
 哲人はそれだけいうと結人の右肩に湿布用のシートを二枚貼った。その上から包帯を巻いていく。
「夢のせいなのか?」
 結人は静かに頷くと、見たばかりの夢の話をはじめた。
 哲人はじっと話を聞くと黙りこくってしまった。
「どういうことだと思う?」
「そうとうに厄介な話だな、これは」
 哲人は真顔で答えた。
「夢で傷ついたらそれが現実になる。しかも、それはぼくだけじゃなくて、彼女、野仲楓も同じ。夢と現実が直結しているなんて、どう考えても理解しようがないよ。それもぼくと彼女のふたりだけが」
「夢の中の人物との関係がなんなのかを考えることがキーポイントなのかもしれないな」
「つまりそれは夢の中の佐久間とぼくとの関係ってこと?」
「ああ、夢の中のかえでと野仲楓もだ。そして佐久間とかえでの関係もね。このふたりの問題なわけだろう?」
 結人は腕組みをするとぼそっと呟いた。
「そもそものはじまりは、あの弓弦……」
「そうか。たしかにそれが夢との繋がりでもあり、また結人と彼女の繋がりでもある。結人、ともかく彼女をここに連れてきてくれないか」
 哲人の言葉に結人は大きく頷いた。

 結人が楓を伴って綱神社へ戻ったのは夕方遅くだった。
 神社を囲むように立つ樹々の隙間から沈んでいく陽が見える。それまであたりに満ちていた温もりが、すこしずつ冷めていき、どこか張り詰めたものに変わろうとしていた。
 本殿の前にささやかな護摩壇が設けられ、すでに護摩木が積み上げられている。そこに衣冠単姿の哲人が笏を持って立っていた。
「そこの胡床に座るといい」
 結人と楓はいわれるまま、並ぶように腰を下ろした。
 真ん前には哲人が立ち、その背後には護摩壇、さらに本殿が見える。
「野仲楓さんだね。わたしはこの綱神社の宮司を務める久能哲人。結人の父親だ。話は結人から聞いている」
 哲人の語りかけるような言葉に楓は頷いた。
「これからあることをおこなう。これが正しい方法なのかどうかは判らない。けれど、いまのわたしにできることはこれしかないことは確かだ。いいかね?」
 哲人はふたりの前に三方を差しだした。
「ここに、それぞれの弓弦を」
 結人と楓はそれぞれ顔を見合ってから、自分が持っている弓弦を三方の上に置いた。
 哲人は護摩壇の前に戻ると、三方を捧げるようにしてから護摩壇の前に置いた。
 恭しく一礼すると静かに祝詞を唱える。
 すでにあたりは夜の帳に包まれはじめていた。茜を思わせる色が薄れていき、紺一色になっていく。星がひとつふたつ瞬きはじめた。微かに吹く風にはどこか緑の香りが混じっていた。社を囲む樹々が揺れてまるで囁くような音を奏でるようだった。
 祝詞を唱え終えると哲人は火打ち石で火を起こした。
 護摩壇に積まれていた護摩木が燃えはじめた。ちいさな炎が揺れながら大きくなっていく。すぐにしっかりとした炎となった。立ち登る煙が月のない夜空へと吸い込まれていく。
 哲人は三方を手にすると抱えるように持ち直して、その右手でふたつの弓弦を掴んだ。
「えいっ!」
 なんの躊躇もなく燃え上がる炎へ投げ入れた。
「あっ」
 まさか燃やされるとは思っていなかった楓は声を上げ、腰を浮かせた。しかし護摩壇へと歩み寄ることができなかった。不思議なことに身体が動かなかった。
 結人は護摩壇を見たときからこのことを予想していたのか、胡床にじっと座ったまま動く素振りを見せなかった。
 哲人はそんなふたりをまったく気にする素振りもなく、また別の祝詞を唱えはじめた。
 そのときだった。

 右脇腹が酷く痛む。避けたつもりだったが矢が刺さったのだ。鎧のおかげでさほど深く刺さらなかったはずだったが、しかし傷ついたことは確かだった。まだ血が止まらない。
 振りつづけた右腕もまた動きが鈍くなっていた。敵に何度か打ち据えられたせいだろう。
 青墓宿で義朝たちと別れ、義平と飛騨を目指していた最中だった。雪の降りしきる中、いつしか徒での逃避行となり、執拗に襲いかかる落人狩りを退けての道行きだった。
 襲いかかってくるのは平家たちだけではなかった。村々に住むものたちが、落人と知ると容赦なく襲いかかってきた。自らの土地を守るためだけでなく、それが村として生き延びていくひとつの方法だと知っていたからだろう。
 山間の村を抜け、次の村まではまだかなりの隔たりがあった。決して油断してわけではなかったが、どこかに心の緩みがあったのかもしれない。気づくと落人狩りの一団に囲まれていた。人数はさほど多くはなかったが、しかし相手には地の利があった。
 物陰から矢を射かけられ、遠巻きにこちらの様子を伺っている。正面から戦うだけの胆力は落人狩りの連中にはなかった。傷ついたものが脱落していくのを、ただ待ち続ける。そして相手が弱ったところへ襲いかかる。
「佐久間、いかがした」
 つい遅れがちになるのを気にしてか義平が振り返ると声をかけた。
「義平様……」
 強がるつもりで答えたが、しかし声が掠れてしまっていた。
「矢傷はなんとかなりそうですが、しかし……」
 その弱々しい声を聞いて、義平は佐久間のもとへと駆け寄ってきた。
「佐久間……」
 崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった佐久間を義平は抱き抱えた。
「申し訳ございません。腿に受けた傷の方がどうも。足がいうことを聞いてくれませぬ」
「どこかで馬を手に入れよう。それまで頑張ってくれ」
「義平様……。隆信はここでやつらを片付けますゆえ、先を急いでください」
「なにをいう」
 義平はじっと佐久間の眼を見つめた。
 佐久間はそれに答えることなく、ただ黙って見つめ返した。
「佐久間……。いや、隆信、その方がいてこその義平なのだぞ」
「義朝様のためにも、兵を集めて、ふたたび京へ上ってください。そのために、隆信はここで落人狩りのやつらを平らげてみせます」
 義平にはもうなにもいうことができなかった。ただ黙って頷くと静かに立ち上がった。
「京へ……」
 佐久間が声をかけると、義平は改めて佐久間の眼をじっと見つめた。
「おう、京へ。そして清盛を、平家を倒してみせるわ。佐久間、その方、生き延びてどこかでその報せを待っていてくれ」
「承知」
 佐久間が頷くのを見て取ると、義平は足早にその場を去っていった。
 義平の後ろ姿が見えなくなると佐久間はその場に寝転がった。広がる夜空を見上げる。星々の瞬きが見えた。こうやって夜空の星を眺めたのはいつ以来だろうか。身体中が悲鳴を上げてはいたが、しかし心は静かだった。
 ──月はないのか?
 夜空を隅々まで探したが、しかし月は見えなかった。
 ──おお、朔日であった。新月では見えぬわ。
 東の空の端が薄らと白みはじめていた。
 細かな雪が舞い落ちる。
 ─このまま雪に埋まるのもいいかもしれんな。
 しかしそれが叶わぬ願いであることは百も承知だった。
 人の気配を感じた。遠巻きにこちらの様子を伺っているのが手に取るように判る。やがてその気配がじりじりと近づいてくるのを感じた。
 ──最期のひと暴れだな。
 佐久間は寝転がったまま改めて右手に刀を握り直した。
 
 護摩木が火に弾ける音に結人はそっとその眼を開けた。
 一瞬のことだった。
 ──夢ではない。
 それが結人には解った。気づくとその双眸から涙が零れていた。
 見やると哲人は燃えさかる護摩壇を前にまだ祝詞を唱えていた。
 結人の隣にはじっと眼を瞑ったままの楓の姿があった。

「あれから何年になるかのう」
 川原で遊ぶ幼子たちをやさしげな眼でじっと見つめながら繁じいが呟いた。
「五年を過ぎところでしょうか」
 傍らで同じように子たちが遊ぶ様子を見守っていたかえでが答えた。
「五年か……。早いものだのう、かえで」
「繁之様のおかげで、こうしてかえでも生きていられます」
「なにをいうか。その方が頑張ったからではないか。だからこうして子も大きくなっておる」
 あたりに残っていた雪もすっかり融け、吹く風にはすこしずつ温もりが感じられるようになっていた。やがて蕾も綻び、あたりには桜の花が咲き誇るようになるだろう。
 まだ川の水は冷たいはずなのに、子どもたちは夢中で魚を追っている。その様子を見ながらかえでは改めて命を考えずにはいられなかった。
 義朝の横死とともに六条河原で義平が打ち首となったことがこの屋敷に伝わったとき、かえでは改めて佐久間もともに果てたことを覚悟した。実際に佐久間がどうなったのかそれについての報せはなかったが、かえでには判っていた。
 新月の夜、預かっていた弓弦が気がつくと中程で断ち切れていたのだ。それを見たときに、かえでは佐久間が事切れたことを悟った。そこへ義平斬首の報せが重なったのだった。
 しかし、佐久間の死とともに、新しい命を授かっていたことをも知った。
 それから五年……。長いようであっという間の五年でもあった。都では平家がその力を伸ばし、まさに武家を支配する世になろうとしていた。
「平家の世か……」
 繁じいはじっと遠くを眺めながら呟いた。
「どうされたのです?」
 かえでがその様子を横から見て訊いた。
「なに、これから世がどうなるか。それを案じての」
「これからですか?」
「そう、これからだ。やっと武士が世に出ることができるようになって、さてこれからわしたちはどうなるのか。老い先短いからこそ余計に気になっての」
 繁じいは笑みを浮かべて頷いた。
「そういえば三郎様は伊豆に?」
「どんな思いで過ごされているか」
 繁じいは改めて川で遊ぶ子に眼をやった。
「どんな子に育つかのう」
「といいますと?」
「この屋敷で育てば、やはりいずれは弓馬の道に励むことになろう。それでいいのか、かえで」
 かえでもまたじっと川で遊ぶ我が子に眼をやった。
「それがきっと志を継ぐことかと思います」
 かえではしっかりと頷いた。
「その覚悟があればよし。いずれ名を授けねばの」
「名ですか?」
「ああ、義隆とな」
「それは」
「もちろん、義平様とそれから父親から一字ずつ頂いてじゃ。よい名じゃろ」
 ──佐久間義隆。
 かえでは繁じいに告げられた名をその胸に刻んだのだった。

 楓の双眸からもまた涙が溢れていた。
 ふっと見上げると、そこには燃えさかる護摩壇を背後にした哲人がいた。労るような眼差しでじっと楓を見つめていた。
「あの……、わたし……、いったいなにが……」
「途惑うのも当然だろう。こんなことはわたしにもはじめてだといっていい。わたしがやったことは、縺れて絡み合った結び目を解いただけといえばいいかな」
「つまり?」
 楓はまるでわけが解らず首を傾げた。
「キミと夢の中に出てくる女性は、本来であれば別の人生を歩む存在だったはずだ」
「はい」
 楓は頷いた。
「ところがなにかがそれを変な形で結びつけてしまった。それは結人も同じだ。しかも厄介なことに、キミと結人、それからそれぞれの夢に出てくるふたりがさらに絡み合ってしまった」
「かえでと佐久間だ」
 結人が改めて気づいたように口を開いた。
「そのふたりは、きっと離れがたい関係でもあったのだろう」
「わたしと夢の中のかえではどういう関係だったというのです?」
「どうも尋常な繋がりではないようだ。それは結人とそれから佐久間だったかな、そのふたりもおなじだ」
「つまり?」
 結人が探るような眼で哲人の眼を見た。
「こんなことをいったらたぶん世間の人は嘲笑するだろう。たとえば生まれ変わりといってもいいかもしれない」
「生まれ変わり……」
 楓はその言葉をじっと噛みしめるように、護摩壇で燃え続ける炎を見つめた。
「だから夢で起こったことが、わたしの身にも起こってしまった?」
「繋がり続けていくうちに、その結びつきが強くなったんだろう」
「でも、そんな常識では考えられないことが起こるなんて……」
「信じられないかね?」
 哲人の言葉に楓は大きく頷いた。
「ねぇ、そのキミの常識ってのはなんなの?」
 結人の問いかけに楓は一瞬考えてから口を開いた。
「それは科学的に明らかなこととか」
「じつはこの世には科学でも解明できないことが、それこそ想像もつかないほど存在しているんだよ。それをキミが知らないだけなんだ」
「そんな……」
 楓は意外な思いで結人の顔を見返した。
「ぼくが研究している量子力学だってそうなんだよ。簡単な実験をすれば判ることだけど、物理法則がまったく通用しないことがしょっちゅう起こる。ひとことでいうと、この世は不思議なことだらけで満ちているといってもいい」
 楓は訊き返す変わりに哲人の顔を見た。
「結人のいうとおりだ。わたしもいろいろと身を持ってそれを教えられてきたということだ」
 哲人はそういって苦笑した。
「それじゃ、わたしが夢の中のかえでの生まれ変わりだとして、どうしてそのかえでとわたしの現実が繋がってしまったんですか?」
 楓は哲人に訊いた。
「なぜかはわたしにも解らない。けれど、なにが繋げたのかははっきりしたはずだ」
「それが弓弦だったと?」
「そういうことだ」
 哲人は頷いた。
「わたしはかえでだった……」
「じゃ、ぼくは佐久間隆信だったということになるのかな」
 楓と結人は互いの眼を見つめ合った。
「人が生まれ変わることがあるとしたら、それもあり得るということだ。そこになにか意味を求めても、きっとなにもならないだろう。ともかくすべての絡み合った関係は解けたということだ」
 どこからか風が吹いてきた。しかし、護摩壇の炎はその風に揺らぐことなく真っ直ぐと燃え続けていた。立ち上る煙がどこまでも広がる夜の闇に音もなく融けていく。
「ありがとう」
 楓は結人に微笑みかけた。
「ぼくがなにかをしたわけじゃない。キミが自分で答えを探したわけだから」
 結人は自らにいいきかせるように頷いた。
「こんなことがあってなんていえばいいのか、これから大学でも声をかけていいかしら。その、もし迷惑だったら遠慮するけど」
「気にすることはないよ。いつでも声をかけてくれればいい。見ず知らずの関係でもないわけだし」
 楓はほっとしたように頷いた。
 ──武士か……。
 まだ腫れが引ききっていない右肩にそっと触れると結人は苦笑した。
 ──やっぱりぼくはこの時代がいいや。
 見上げるとそこには月のない夜が広がっていた。深く藍色に染まった空には、星々がただ静かに瞬いていた。
はじめから

■ 電子書籍 Kindle 版・ePub 版 各シリーズ大好評販売中

「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

NOTE では基本的には無料公開を、そして電子書籍としては ePUb 版を販売してきました。より多くの人たちに作品を届けるため、Kindle 版の販売もはじめました。Kindle Unlimited でもお読みいただけます。
ストーリーを気軽に楽しみたければ NOTE で読んで、一冊の本として愛読したい作品は Kindle 版や ePub 版を購入する。
そんなスタイルで Zushi Beach Books の作品たちをお楽しみください。

また、今回の Kindle 版の販売にともない、「ものがたり屋 参 その壱」「ものがたり屋 参 その弐」の各話について NOTE でお読みいただけるのは、その 2 までとなります。完結編となるその 3 は、Kindle 版でお楽しみください。
よろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?