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ものがたり屋 参 貌 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

貌 その 2

 そこに映るものは、ただ見えるもの。
 それはその姿ではなく、ただの像。
 その姿を映すものは、かりそめの景色。
 それを識るものは、視ることができるもの。

 まだ夏の暑さを思わせる夜だったにもかかわらず、結人は窓を大きく開け放ち、部屋の真ん中でぼんやりと外に広がる暗がりを見つめていた。ねっとりとした風がカーテンをときおり揺らす。
 ──あれはどういうことなんだろう?
 結人は昼間に会った翔汰のことを考えていた。
 なぜあの子は麻美のことが解ったんだろう。それがどうしても結人には納得いかなかった。
 ──おねえちゃん、病気じゃなかったの?
 あのことはだれも知らないはずなのだ。麻美と麻美の母とそれに結人。診察した医師。それから……。
 ──まさか……。
 結人はそこまで考えて首を横に振った。
 窓際にいくと空見上げた。半分ほどに膨らんだ月がゆっくりと傾きはじめていた。昼間の暑さを孕んだ風が結人にまとわりつく。
 結人は夜の底を探るように眼を凝らした。やがて詰めていた息をそっと吐くと部屋を出た。
 階下にいくと父親の哲人がひとりグラスを傾けていた。縁側に腰を降ろして、氷を浮かべた陶器のグラスを手にしている。傍らには焼酎の入った陶器のボトルと水差しがあった。
「どうした結人?」
 そばまでいくと、ふいに哲人は振り返っていった。
「いや、どうしてかなと思って……」
 そういいながら結人は立ったまま哲人の顔を見た。
「お前もやるか?」
 結人は頷くとキッチンから氷を入れたグラスを持って戻ってきた。そのまま哲人と同じように腰を降ろした。
「どうしてってなんのことだ?」
 哲人は焼酎を結人のグラスに注ぎながら訊いた。
「あの渡会さんのことだよ。どうしてぼくに?」
「そのことか」
 哲人は結人のグラスにさらに水を注ぐと、その顔をじっと見つめた。
「お前にできることと、おれにできることは違う。そうだろう」
 その言葉に結人はただ黙って頷いた。
「おれにできるのは感じることだけだ。なにかがおかしい。そう感じること。でも、お前は」
「ぼくは祓うことができる」
「ああ、そうだ」
 哲人は頷くとグラスに手を伸ばして口をつけた。
「感じることっていったけど、あの人になにを感じたの?」
「これは説明が難しいんだが、ふつうじゃないなにか気配といったものを、あの人から感じたんだよ。息子のことでただ悩んでいただけかもしれない。それでもちょっと強い違和感をね。それをいろいろな表現でいう人もいるけどな」
「たとえば?」
 結人もグラスに口をつけると訊いた。
「ほらオーラとかいうのかな、いま流行のいい方だと」
「オーラか」
 結人は頷いた。
「なにかズレて感じるんだよ。その人の本来の状態とはどこかが違って、歪んでいたり、あるいはそれが二重にタブっていたり。写真でいえばピントが合っていなかったり、あるいは手ブレしていたり、露光しすぎていたり、暗すぎたり。ふつうとはどこか違っている違和感をそのまま感じる。あの人からもそれを感じたんだ。でも……」
 哲人は結人の顔を改めて見た。
「でも?」
「感じるだけでは、あの人のためにはならない。しかも、息子のことっていうじゃないか。だからお前ならもしかしてと思ってさ」
 哲人は空になったグラスに焼酎を注ぐと、水を足して口をつけた。
「ねぇ、祓うってどういうことなんだろう。ぼくは気がついたら勝手にやってたけど」
「祓うか……。おれにはよくわからん、実際にできないしな。ただ、お前のかあさんは」
「かあさん?」
「ああ、たか子は意識してやっていた」
「そうか、これは母親譲りなんだ」
 結人はそういって自分の左手をじっと見つめた。
「たか子は祓うことを、元の居場所に戻してあげるだけっていってた。彼女なりの独特の感覚があったんだろう」
「元の居場所?」
「間違ったところにいようとするからおかしくなっているんだって。それは執着かもしれないし、未練かもしれない。その本来の場所とは違うところに拘る意識っていえばいいのかな。簡単にお化けとか怨霊なんていえればいいんだろうけど、そんなに単純なものではないしな。それはお前にも解っているだろう」
 結人は大きく頷いた。
 ──そうなんだ。この世の中には不思議なことがあまりにも多い。
 科学がどれだけ進歩してこの世の構造が明らかになってきても、それでもまだ解明できていないことが山ほどある。
 たとえば麻美の頭にできた腫瘍がそうだ。できたこと自体も謎だし、またすぐに消えてしまったことも謎だった。担当した医者には説明できない現象でもあった。そもそもあり得ないことだったから。
「それで、どうだった、その子、翔汰っていったっけ?」
「うん、それがね、不思議なんだよ。なぜだかいろいろなことが解っちゃうらしい。麻美とふたりであの人の家にいったんだけど、あの子、翔汰君はぼくたちのうしろの方をじっと見つめて、それから麻美のことを話したんだ。だれも知らないはずのことを」
 結人は昼間のできごとを思い出しながらいった。
「だれかが教えくれるって、あの母親はいってたな」
「それだよ、そのだれかって、いったいどういう存在なんだろう。あの子にはいったいなにが見えているのか、それが皆目見当がつかなくて……」
 そういうと結人はそっと唇を噛んだ。
「なぁ、結人。なによりも結論を急ぐのはよくない。すべてにはこの世の法則とは違ったことはあっても、しかし必ず答えがあるはずだ」
「それなんだよ、問題なのは。この世の法則が通じないことがある……」
「いいか、これだけは覚えておけ。ただ見るんじゃない、観るだけでは足りない。視るんだ」
「視る……」
「一番、難しいことだけどな」
 哲人はそういうとグラスを持ち上げて口をつけた。
 ──視るって、いったいどうやって……。
 結人はどうしていいのかわからずぼんやりと空を見上げた。
 縁側の向こうには木々が立ち、その奥が神社になっていた。その木々の間から沈みだした月が透けて見える。
 まだ熱を孕んだ風が吹いてきて、結人の頬を撫ぜた。それはしかし決して心を落ち着かせてくれるものではなかった。
 
 渡会奈々美から結人に電話があったのは次の日の昼過ぎのことだった。
 ──翔汰が、あの子が学校で大げんかをしたと……。
 スマホを取り上げた結人の耳に、取り乱した奈々美の声が響いた。
「大げんかって、怪我でもしたのかしら?」
 渡会家へ向かう道すがら麻美が訊いた。
「おかあさん、取り乱しちゃって詳しくは聞いていないんだけど、どうなんだろう」
 結人は答えると、まっすぐ前を見た。
 やがてふたりの視界に渡会家が見えてきた。まだ昼の輝きを見せる陽射しが当たっている。門のところでドアホンを鳴らすと、すぐに玄関のドアが開いた。
「すいません、突然電話してしまって」
 奈々美がそういってふたりを迎え入れた。
「それで翔汰君は?」
 玄関に入ると結人は訊いた。
「いま、部屋に」
「怪我とかは?」
 麻美が尋ねると、奈々美は不安に顔を曇らせながら首を横に振った。
「怪我はなかったんですが、ただだれとも話したくないと……。それでどうしたらいいのか判らなくなってしまい、思わず電話をしてしまいました」
 そういってふたりを縋るような眼で見た。
「お邪魔してもいいですか?」
 結人の問いに、奈々美はすぐに頷いた。
「お願いできますか。そのために来ていただいたので」
 結人と麻美は家にあがるとそのまま階段を上っていった。
 右側の部屋が翔汰の部屋だった。その部屋の前でどうやって声をかければいいのか結人が考えているとドアがそっと開き、その隙間から翔汰が結人の顔をじっと見つめていた。
「翔汰君」
 麻美がそんな翔汰にやさしく声をかけた。
「帰ってよ」
 そっけない返事が返ってきた。
「翔汰君、どうしてけんかしたのか教えてくれないか?」
 隙間から覗く翔汰に向かって今度は結人が声をかけた。
「どうせ解ってもらえないんだから、帰ってよ」
 翔汰はそういうと俯いた。
「そんなこと話してみなくちゃ判らないじゃないか」
「だってみんな同じだもの」
 ちょっと拗ねたような声だった。
「ねぇ、教えてほしいんだ。キミにはなにが見えているの?」
「え?」
 結人の問いかけが意外だったのか、翔汰はそのままじっと結人の眼を見つめて黙った。
「キミにしか見えない人がいるんでしょ。それはだれなのか教えてほしいんだ。もしかして、いまも見えているのかな、そんな人が」
「それは……」
 翔汰は口籠もると下を向いた。
「ねぇ、部屋に入れて」
 麻美はそういってドアを押した。
 翔汰は抵抗することなく後ずさりして、ドアが開くようにすると、そのまま部屋の奥にいき、勉強机の前にしゃがみ込んだ。
 綺麗に整理された部屋だった。窓際には勉強机があり、その横にはベッド。逆側の壁はクローゼットになっていた。
 窓は開けられていてカーテンが吹き込む風に揺れている。射しこむ陽射しが翔汰の背中に当たっていた。
「翔汰君、けんかしたって聞いたけど、怪我はない?」
 麻美が労るようにしていった。
 翔汰はただ黙って頷いた。
「大げんかって聞いたよ」
 結人が尋ねた。
「うん、だって尚登君がひどいこというから……」
「尚登君なんだ、喧嘩の相手は」
 麻美が訊いた。
「そう、片山尚登君」
「そっか。で、なんていわれたの?」
 結人は翔汰と向かい合うように腰を降ろすと、その顔をじっと見つめた。
 翔汰は顔を上げると探るように結人の眼を見返した。
「覚だって……」
「え? サトリ?」
 麻美は結人に確かめるようにいった。
「心を見透かす人のことだよ」
 結人は麻美にそう簡単に説明すると、翔汰に向き直って口を開いた。
「尚登君はその意味を解っていてキミにいったのかな?」
「おまえは覚だって。ママに聞いたんだって。人の考えていることが解っちゃうバケモノだって」
「そんなこといわれたんだ」
 麻美は慰めるようにいった。
「そんなことないよね」
 結人は促すようにいった。
「ぼく、そんなこと解るわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
 結人が訊き返すと、翔汰はその眼をじっと見ながら口を開いた。
「教えてくれる人がいるんだ」
「ねぇ、それはだれ?」
「だから知らない人。そこにいるはずじゃない人だと思う。ぼくもよく解んない」
 翔汰はそういうと結人の顔から視線を奥に移した。
「いまも見える? ぼくとか麻美のほかにだれかが?」
 翔汰は黙ってただ頷いた。
「え、だれ? どこ?」
 麻美は驚いたようにいうとあたりを思わず見回した。
「おにいちゃんのうしろ。なんだかとっても昔の恰好している人が」
 結人のうしろを指さしながら翔汰はいった。
「そんな人が見えるんだ。ねぇ、いつからそういう人が見えるようになったの?」
 結人はやさしく訊いた。
「学校にいくようになってからかな。はじめはね、直接は見えなかったんだ」
 翔汰はそういうと下を向いてなにか思い出すように続けた。
「学校にいくときにね、朝、鏡を見たんだ。ランドセル背負ったところが見たくて。そしたらそこに知らない人が映っていて」
「鏡にかい?」
「そう、鏡に映っていて、振り向いたらそこにはだれもいなくておかしいなって」
 そういうと翔汰は不安そうな顔で結人を見た。
「それで?」
 麻美はそういうと首を傾げた。
「何度かそんなことがあったから怖くなって鏡を見なくなった。そしたら梅雨のころかな、傘差して学校からの帰り道、水たまりに知らない人が映っていて。そしたら……」
「それから見えるようになったんだ」
 翔汰は結人の言葉にただ頷いた。
「ねぇ、翔汰君。キミの手をぼくの右手に重ねてもらえるかな」
 翔汰は頷くと、目の前の結人の手にそっと右手を重ねた。
 結人はその手をしっかり握ると眼を瞑る。なにかあれば左手の小指が反応するはずだった。しかし、なにも起こらなかった。
「翔汰!」
 そこへ奈々美が駆け込むようにやってきた。
「翔汰、大変! 尚登君が事故にあったって」
「そんな……。ぼくが悪いんだ……。お前なんか死んじゃえっていったから」
 翔汰の顔から見るみる血の気が引いていくのが結人にわかった。 
はじめから

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