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ものがたり屋 弐 靴 後編

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

靴 後編
 じっと身構えていたが、しかしなにも起きない。
 しばらくは金縛りにでもあったように身体が動かなかったが、いつまで経ってもなにも起きないので、そっと息を吐いた。
 気のせいだよ、気のせい。
 ベッドの中で身体を伸ばして、寝直すことにした。
 まったく……。
──カツーン、カツーン。
 またはじまった。
 その靴音は廊下の端からこの部屋へ近づいてくる。
──カツーン、カツーン。
 部屋の前まで来て、その音は止んだ。
 じっとしていられなくなって俺はそっとベッドから出ると、忍び足で玄関までいった。耳をそばだてて気配を探る。
 恐る恐るドアの覗き穴から見てみた。
 ただ薄暗い廊下が見えるだけだった。だれもいない。
 なにかのいたずらだろうか? それとも勘違い? 俺って、ナーバスになりすぎてる?
 ベッドに戻ると、しばらくただ黙ってなにか物音が聞こえないか探っていたが、やがて眠気に負けてそのまま寝てしまった。

──カツーン、カツーン。
 その音に飛び起きてしまった。
 携帯を確認する。三時過ぎだった。
──カツーン、カツーン。
 靴音が響く。
 廊下に響いているのか、それとも俺の頭の中で響いているのかわけがわからなくなってしまっていた。
──カツーン、カツーン。
 それでもやはりこの部屋の前まで歩く靴音だ。
──カツーン、カツーン。
 そして止む。
 もうなにがなんだかわからなかった。
 俺はただ頭から布団をかぶるとただひたすらなにも聞こえないんだと自分に言い聞かせるようにしてやり過ごすしかなかった。
──カツーン、カツーン。
 それでも靴音が響いている。
 いや、ただの錯覚なのかもしれない。けれど頭の中で響く。耳を塞ぎ、布団を頭からかぶってもその靴音は聞こえてくる……。

「おまえさぁ、なにかヤバイ薬でもやってるんじゃないだろうなぁ」
 松木先輩はあたりを窺うようにして小声で囁いた。
 昼のオフィス街。サラリーマンたちで賑わう定食屋に俺と先輩は昼を食べに来ていた。
「なにいってるんすか、そんなわけないすよ」
 俺はテーブルのコップに手を延ばすと水を一口飲んだ。
「だってそんな与太話、俄には信じられないぜ」
「おまたせ。きじ重は?」
「あ、おれ」
 テーブル席はもちろん、座敷もいっぱいだ。そんな中、おばちゃんたちが気忙しく配膳している。
「こっちは牛鍋定食ね」
 先輩のところへお盆ごとおくと、伝票を机の上に置いていった。
「いただきます」
 俺は箸置きから箸を取ると、きじ重を食べはじめた。
「だいたいなんだって夜中に靴音がするんだよ」
「だからこうやって先輩に話してるんじゃないですか。どうしたらいいのか」
「どうしたらって……」
 そういいながら松木先輩は辺りを見回す。
「菊池、あそこ。座敷のところに靴が並んでるだろ、何足ある?」
 俺は箸を止めると座敷の前に並んでいる靴を数えはじめた。なんとなく慎重になってしまい、何度か数え直した。
「七足」
「やっぱりお前、どこかおかしいよ」
「え?」
「えって、靴は六足だろう」
「そんな……」
 俺はもう一度数えてみた。何度数えても七足ある。
「先輩……」
 なんとか笑って誤魔化そうとしたがきっと引き攣った笑顔になってしまったはずだ。おまけに食欲も失せて、いつもはきれいに平らげるきじ重も残してしまった。

 その日の夕方、俺は松木先輩と一昨日まとめた契約の総仕上げのために、とあるお宅を訪問することになっていた。
 お屋敷といってもいいだろう、その家は古いだけでなく大きくそして威厳のある家だった。ただ、さすがに寄る年波には勝てない。ところどころにガタが来ていて、ちょっとした補修では追いつかなくなっていた。
 瓦だけとか、縁側の廊下だけとか、玄関の広々とした三和土だけということではなく、全面的にリニューアルするか、いっそ土地を活かしてマンションを建てるといった方が遙かに合理的で、また効率的でもあった。
 その家に負けず劣らず頑固なご主人だったが、俺がそれこそ日参して、なんとか世間話もできるようになり、かれこれ半年ほどかけてようやく口説き落としたのだ。
 その返事を聞いたのが一昨日。で、ついつい羽目を外して呑みすぎたわけだ。
 今日は契約のための挨拶の日。
 先輩の運転する社用車で門をくぐった。
 門から玄関まで車を二三台駐められるほどのスペースがあった。門から入ったすぐのところに車を駐めると、先輩に続いて玄関へと向かう。
 毎日のように通った家だから勝手はよく知っている。玄関の引き戸をがらりと開けて、奥へ声をかける。玄関ベルなどというものはないので、ちょっと大きな声で呼びかける。
 広い三和土に式台として石が置かれている。三尺ほどの幅があるだろうか、立派なものだ。数え切れないほどの人がそこで靴を脱いでいるためか、その表面はすり減って平らなものになっている。その石のすぐ脇に履き古した黒の革靴が一足あった。きちん揃えられたその靴に、見覚えのある俺は目が離せなくなっていた。
「先輩」
 軽く肘ですぐ横に立っている松木先輩を突いた。
「なんだよ」
 ほとんど顔を動かすことなく先輩が答えた。
「靴……」
「え?」
「だから靴が……」
「まだ寝ぼけてるのか、お前」
 今度は身体を俺の方に向けて口を訊いた。その声に少し棘があった。
「だって、そこの式台の横に靴が、黒い革靴が」
「馬鹿いうな、なにもないぞ」
「えっ……、見えないんですか先輩……」
「というか、お前の頭がどこかおかしいんだろう」
 先輩に一喝されてしまった。
 そのとき奥からこの家のご主人がやって来た。
「これは松木さん、菊池さん。ようこそおいでで。さぁ、上がってください」
「はい、それでは遠慮なく上がらせていただきます」
 先輩はそういうとそのまま式台に靴を脱ぎ靴を揃え上がっていく。
 俺も靴を脱いで上がった。靴を揃えようとして式台の横をまた見てみた。確かにそこには履き古した黒の革靴があった。
 どうして先輩にはこの靴が見えないんだろう? いや、どうして俺だけ……。
 なにがなんだかわけがわからなくなりそうだったので顔を背けるようにして自分の靴だけ揃えた。
「菊池さん」
 声をかけられ振り向くと、そこに男が立っていた。
 額から血が流れている。暗い顔をしている男だった。
「ひゃっ」
 俺は思わず声を上げると飛び退こうとして三和土へ転がり落ちてしまった。
「どうされました。大丈夫ですか?」
 その声の主を改めて見上げてみると、この家のご主人だった。
「あっ、いや突然だったので……」
「さぁ、どうぞ」
 差し出された手に掴まり起き上がると、ぺこりとお辞儀をしてそのまま上がった。
 廊下をご主人のあとを座敷まで着いていく。
 縁側から広い庭が見えた。手入れの行き届いた庭木が並んでいる。
 座敷に入るとすでに松木先輩が座っていた。
「なにやってたんだ」
「いや、ちょっと……」
 咎めるような声に答えると俺も隣の座布団の上に座る。
「今回はご契約の意思を固めていただき、ありがとうございます。いま契約書を作成させていただいております。契約のおりには、弊社社長も同行させたいと思っております。まずは、これつまらないものですが」
 松木先輩は流ちょうにそこまで話をすると、持参した土産物をテーブルの上に置き、ご主人の方へと差しだした。
 ここのご主人は甘いものには目がない。
 もっともそれを知るまでにはずいぶん通わなければいけなかったが。
「いや、いつもいつもお心遣いありがとうございます」
「とんでもない。これからもよろしくお願いいたします」
 先輩の声が途中から嗄れ声になった。
 どうしてと思って横を向くと、そこには松木先輩ではなく、暗い顔をした中年の男がいた。額からだらだらと血を流している。
「ひゃっ」
 俺は思わずのけぞった。
 先輩だったはずの中年男が血を流しながらこっちを睨んだ。その目はうつろで、しかしなにか恨めしそうな表情だった。
「菊池、どうした」
 嗄れ声が響く。
 俺はそのまま後ずさり障子に背中をぶつけると、助けを求めるようにご主人を見た。
 しかし、その主人は別の中年男の顔をしている。だらだらと血を流したまま俺をじっと見ていた。
「あわわわわ」
 俺は腰が抜けたようでそのまま立ち上がれず、破れるのもかまわず障子を乱暴に開けると四つん這いのまま廊下を玄関へと急いだ。
 そこへ向こうから奥さんがやって来た。お盆の上にお茶を乗せていた。
「どうかしましたか」
 奥さんに縋りつくようにして起ち上がろうとして、その顔を見た俺はまた引っ繰り返った。奥さんも同じように血を流していた。しかも、暗い中年男の顔をしている。
「ぎゃっ」
 なにがどうなっているのか、まったく訳がわからなくなった俺は、玄関に辿り着くと、靴を持って裸足のままその家を飛び出した。

 気がつくとバス通りに来ていた。
 両手には靴を持ったまま。俺は裸足でここまで駆けてきていた。荒くなっていた息を鎮めるために何度か深呼吸をした。
 少し落ち着きかけたところで、靴を履こうと両手に持っていた靴を地面に置いた。
 その靴は、俺の靴ではなかった。あの履き古した黒の革靴だった。
 しかし、裸足で歩き続けるわけにもいかない。
──どこかで靴は買い直せばいい。
 それまでこの靴を履くことにした。
 右足を靴にそっと入れる。変な感じがした。
 きっと足の幅が違うんだ。妙な湿っぽさとともに足が靴の中で遊んでしまうような感覚だった。踵も左側すり減っているせいかちょっと歪んでいる。
 他人の靴を履くことが、こんなに違和感を覚えさせるとははじめて知った。
 つぎは左足だ。思い切って、靴の中に足を入れる。
 その瞬間、俺は俺ではなくなってしまった。
 いや、違う。そうじゃない。俺は俺なんだが、俺の身体をきちんとコントロールできない。まるで他の意思が頭の中に入り込んで、それが俺の身体を動かそうとしていた。
 なんだろうこの奇妙な感じ。
 だれかが俺を勝手に動かしている。
 それでいて見たり聞いたりしているのは俺自身なのだ。
 俺はそのまま駅を目指してすたすたと歩くと、改札口を抜けて電車に乗った。
 どこへ行くつもりなのか?
 それすらわからなかった。
 俺は空いた席に座った。
 夕暮れ時の街中を電車は走る。帰宅を急ぐサラリーマンたちがどっと乗り込んできて、駅に止まるごとにすこしずつ降りていく。
 夏に比べたらずいぶん陽が落ちるのが早くなった。外が暗くなっていくにしたがって窓に映る俺の顔がすこしずつはっきり見えるようになっていく。
 ガラスに映った暗い疲れた顔が見えた。なんだか恨めしそうな顔をしている。
 これが俺の顔なのか?
 なんだかふだんとはまったく違う顔だった。でも目鼻立ちは俺のまま。
 中味が変わったから外見も変わったのだろうか?
 そうやって窓を見ていると、いろいろな人の顔がそのガラスに映って見えてきた。
 疲れた中年男。なんだかちょっと太めの男。若いけどなんだか妙にやつれている奴や、暗い顔をした初老の男たち。もしかするとこの靴を実は多くの男たちが履いてきたのかもしれない。そして、いまのおれと同じようにそれを履いた途端、まるで遠隔操作されているようにどこかへ勝手に移動する。
 でもどうして?
──そう、どうしてこの靴が俺にまとわりつくのだ?
 その理由がまったくわからなかった。
 酔っぱらってつい拾ってしまったのだろうか? それとも俺はなにかいけないことでもしたのか?
 やがて電車は俺のアパートがある駅に着いた。立ち上がるとそのまま電車を降りた。
 あたりはすっかり暗くなっていた。もう夜だ。
 プラットフォームに降り立った俺はそのまま改札のある方へと向かった。階段を下りていく。
 改札を抜けるとアパートの方ではなく、高架下をそのまま歩いていく。
──いや、ちょっと待て。どこへいくんだ?
 ほどなく高架下の空き地についた。そんなに大きなスペースではない。車なら二台ほど止められるだろうか。ふだんは工事に使う道具なんかが置かれていて、ごちゃごちゃとした印象があったが、いまはなにも置かれていなかった。
 なぜこんな場所へ俺は来たんだろう?
 電車が高架を通るとゴウゴウと音がして、他の音はほとんどなにも聞こえなくなる。
 電車が通過してしまうと静まりかえる。
 足下を見ると、右の靴紐が解けかけていた。俺はそのつもりもないのに、すぐにしゃがむとその紐をしっかりと結び直した。
 そのときジャリッと足音が聞こえた。
 振り返って見上げるとそこには俺がいた。
──どうして?
 ニヤニヤと笑いながら俺はふらふらとこちらに近づいてきた。
 なぜ俺がそこにいるのかまったくわからなかったけど、こっちに近づいてくるのは確かに俺だった。酔っぱらって足下が覚束ない。
 それでもこっちに近づいてくる。
 しゃがんだままの俺をじっと見下ろすといきなり蹴りつけてきた。
「ぐうっ」
 靴の先がみぞおちに入った。俺は両腕でお腹の部分を庇うようにしながら、もうひとりの俺を見上げた。
 ニヤニヤしながらそこに俺が立っている。そのままもう一度蹴ってきた。
 今度は脇腹にヒットした。
「ぎゃっ」
 悲鳴に近い声が思わず零れた。
 そこに立っているもうひとりの俺の顔がだんだん醜く歪んでいく。
 しゃがんだままの俺の顔を、今度は殴りつけてきた。二発、三発と殴打は容赦なく続く。さらに蹴りつけ、ふたたび殴打された。
 まったく抵抗できない俺は意識がすこしずつ失せていくのを感じた。
 何かで額を殴りつけられたのか、血が流れていく。その流れていく血とともに意識が薄れていく。
 無抵抗の俺をもうひとりの俺が殴り続ける。
 いや、それはもう俺の顔ではなかった。いろいろな男たちの顔に見える。顔が変わり続ける男が俺を殴り。そして蹴る。
 これはなんだろう?
 恨みを抱いて死んだ男たちが俺を殴りつけているのかもしれない。
 ああ、俺ってもしかしてこうやってだれかを殴って生きてきたのかもしれない。
 そう思ったが、それが果たしていつのことで、そしてなんのことなのかわからなかった。
 もう考える力が残っていなかった。
 たぶん俺はこのまま履き古した黒の革靴を履いたまま事切れるんだろう。そしてこの恨みを持った男たちのひとりに加わるのかもしれない。
 ガツン!
 最期は右頬を殴られたとことだけがわかった……。
はじめから

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

しこたま酔っぱらって帰った菊池。
翌日、酷い二日酔いで目醒めた彼だったが、見たこともない靴が玄関にあった。
出かけるついでにその靴を捨てたはずだったが、不思議と目につくようになり、
その夜、彼のアパートの廊下になぜか靴音が響きだした……。

怪しくてそしてとても不思議な世界をどうぞ堪能してください。

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