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ものがたり屋 弐 靴 前編

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

靴 前編
 目覚めの気分は最低だった。
 頭が痛いし、胃もむかつく。完全な二日酔い。ここまで酷いのはちょっと記憶にない。
 俺はベッドから這い出ると、そのまま冷蔵庫までよたよたと歩き、スポーツドリンクのペットボトルを取り出すと一気に飲み干した。
 そのままベッドへ戻るとまた横になる。
 ふと気になって枕元においてある携帯で時間を確認した。
──やっべぇ。
 再び、起き上がるとその携帯で会社に電話した。
「お電話ありがとうございます。カザマ商事でございます」
 だれが出るのかちょっと緊張していたがその声を聞いてホッとした。
「あ、松木先輩。俺っす。菊池」
「なんだよ、どうした」
 松木先輩のよそ行きの声がいつもの声に変わった。
「いや、先輩。申し訳ないっすけど、今日は熱があることにしといてください」
「どうした、呑み過ぎか? 」
「面目ない」
「だからあれほどいっただろ、早く帰れよって」
 松木先輩の声が呆れたような口調に変わった。
「こんなにキツイのははじめてっすよ」
「昨日のお前はすごかったからなぁ。もうはじめから飛ばしすぎだよ。契約が決まって嬉しかったんだろうけどさ。わかった、病欠ということで課長には話しておくよ」
「感謝です。よろしくおねがいします」
 なんだかしらないけど、頭下げながら俺は電話を切った。
 再びベッドに横たわると、すこしだけ眠ることにした。
 横になると頭がぐるぐると回っている。眼を閉じていても、頭のぐるぐるが気になってすぐに寝付けない。それでも何度か寝返りを打っているうちに眠りに落ちたようだった。

 目を醒ますともうお昼近くになっていた。
 なんだかうなされたような気がする。おかげでぐっすりと寝た気にならなかった。というかまだ完全に酒が抜けてないからかもしれない。
 それでもさすがにこれ以上は寝ていられないのでなんとかベッドから這いずり出すと、よろよろとバスルームに向かった。
 身体のあちこちが痛かった。きっとどこかで転んだんだろう。服を脱ぎながら確認したら腕のあたりと股のあたりに痣みたいなものがあった。
──やれやれ。
 服を全部脱ぐと蛇口を捻ってシャワーの水を出した。
 ちょっと手を延ばしてお湯の温度を確かめる。なんだか拳のあたりもすこし腫れているようだった。
──まったくどんな転び方したんだよ、俺。
 いつまで経ってもシャワーがお湯にならなかった。
──いけね、ガス点けてなかった。
 素っ裸のまま台所へいくとガスのスイッチを点けて、速攻でバスルームへ戻る。
 ようやく湯気が立ちはじめた。
 それを見て安心してシャワーを浴びる。
 頭がまだぼんやりとしていた。
 たっぷりと頭からお湯をかぶると、首のあたりから身体にお湯を当てていく。それを何度か繰り返しているうちに、ようやくいつもの感覚が戻って来たようだった。
 時間をかけてシャワー浴び終えるとバスタオルを越しに巻き付けたままリビングのテー分に座る。
──そういえば腹減ったなぁ。
 食欲はさほどなかったがしかし胃袋は空っぽだ。吐いた記憶はないからきっと全部消化しちゃったんだろう。
 なにか食べた方がいいかもしれない。
 かといって食べたいものが思い浮かばなかった。
 ラーメン作ってもいいけど面倒に思えたので、駅の近くの立ち食いで蕎麦でも食べようと出かけることにした。
 出かけようとして玄関まできて、そこに見馴れない靴があることに気がついた。
──なんだ?
 履き古した黒の革靴だった。
 酔っぱらって人の靴を履いて帰ったのかと思ったけど、俺がふだん履いている靴はちゃんとあった。
──おかしいなぁ。どっかで拾って来ちゃったんだろうか?
 このまま置いておくのもなんだし、その靴は捨ててしまうことにした。

 玄関の外へ出ると陽射しがやけに眩しかった。
 こんな時間に街中をうろうろするなんてちょっと罪悪感を感じる。そこまで真面目に働く自分だとは思っていないけど、なんとなく世間の目を意識するところはあった。
 だから陽射しが余計に眩しく感じる。
 ビニールに放り込んだ靴を、アパートのゴミ箱に捨てると俺は歩きはじめた。
 いつも通い慣れた駅までの道だったが、通勤のときに向かう景色とは見え方がちょっと違った。時間帯のせいだろうか。朝は同じ方向へ足早に向かう人たちが多いんだが、この時間だとてんでバラバラだ。年齢層も違えば、歩く方向も違う。もちろん道を行き交う車も違って感じられる。
──さてと、どうしようかなぁ。
 立ち食い蕎麦でもと思ってアパートを出たんだが、こうやって歩いているとすこしずつ食欲が湧いてくるようだった。蕎麦だけじゃ物足りない気もするし、だからといってレストランなんかでランチを食べる気にはなれないし。
 どうしようかと考えているうちに駅まで来てしまった。
 こぢんまりとした街だったが、さすがに駅の周りには食べ物屋をはじめ、本屋や衣料品店、スーパーなんかいろいろな店が軒を並べている。
 高架をくぐって少し歩くと主婦が井戸端していた。
「なんか喧嘩だったんですって。それも昨日の夜中」
「へえ~、昨日の夜中なの?」
「あらいやだ、昨日じゃなくて今日かもね。ほら 一二 時過ぎていたらしいから。終電じゃないかしら。そんな時間よ」
「ここで事件が起こるなんてねぇ」
──しかし、主婦ってのは暇なんだなぁ。
 立ち話をしているふたり組の横を通り抜けると中華屋があった。何度か入ったことのある店だ。
 俺は引き戸を開けるとその店に入った。
「いらっしゃい」
 女将さんがテーブルを拭きながらいった。
「お好きなところへどうぞ。なんだったら奥の座敷でもいいわよ、まだ混む前だから」
「いや、テーブルでいいよ」
 俺はそういって入り口からほど近いテーブルに腰を下ろした。
 女将さんが水の入ったグラスを持ってくるまで、壁に貼ってあるメニューを眺めた。さすがにご飯ものを食べる気にはなれなかったので、もやしそばを頼むことにした。
「もやしそばね。もやし一丁」
 伝票になにか書つけながら女将さんは調理場に声をかけた。
 俺は入り口にあるマガジンラックからスポーツ新聞を取ってくると広げる。
──そういえば奥の座敷っていってたなぁ。まだそこで食べたことはないけど。
 そう思いながら新聞越しに座敷の方を見てみた。店の奥にちょっとした座敷があった。家族連れなんかが利用するんだろう。四人が座れるテーブルがふたつほど並んでいる。夜なら呑みながら食事するのにいいかもしれない。
 ふと見ると、座敷の前に靴が一足、ポツンと脱いであった。
 だれかいるのかと思って座敷を見てみたがだれもいない。
 変だなと思っていたらもやしそばが運ばれてきた。
「ライスはいる? この時間ならサービスでただよ」
「じゃ、半ライスお願いします」
「半ライスでいいの? 若いんだからもりもり食べなきゃ。だめよ、そんな草臥れた顔してちゃ」
「いや二日酔いで……」
「酒はほどほど、食事はもりもり」
 そういいながら女将さんはいったん調理場の方へ戻ると、半ライスをお盆に載せて来た。半ライスと伝票をテーブルに置くとまた調理場の方へ戻っていった。
 ガランとした店でひとりもやしそばを啜る。酒を呑んだ帰りに立ち寄ってラーメンを食べたぐらいでこうやってちゃんと味わったことはなかったが美味かった。
 きれいに平らげると席を立つ。
「ごちそうさま」
 声をかけると女将さんが顔を出した。
「はいはい、お勘定ね」
 出口近くのレジへ来るとお金を受け取った。
 そこへ別の客がどやどやとやって来た。
「あら、いらっしゃい」
 どうやら顔見知りの客のようだ。
「奥、いい?」
 四人組の男たちだった。口々にどの定食がいいだのと言いながら奥の座敷へ向かった。
 そういえば靴が一足あったはずだがどうなってるんだろうと見てみたが、いまやって来た男たちの分しかなかった。確かに見たはずだったけど、あれは店の親父さんの靴だったのかもしれない。それとも俺の見間違いだろうか。まぁ、どっちにしろ大した問題じゃない。
 俺は女将さんからおつりを受け取り店を出ようとすると、今度は若いお巡りが顔を出した。
「あら晋ちゃん。お昼?」
「いや、ちょっと話を訊こうと思ったんだけど、忙しい?」
「そうね、ちょうどこれから混むところ」
「じゃ、またあとで」
「なに?」
「いや、昨日の」
「ああ喧嘩のこと?」
「なにか知らないかと思ってさ。いいよ、またあとで顔出すよ」
 そういいながらお巡りは俺の顔を見ると、軽く会釈をして出て行った。俺もそのあとに続いて店を出る。
 どこへ行こうか。
 平日のこんな時間に街中を歩いたことがなかったからどうしたらいいのか思い浮かばない。とりあえず腹は落ち着いたので、どこかでゆっくりしたかった。かといって、家に帰るのもなんとなくなれない。
 しばらくブラブラと商店街を歩いてみる。
 とはいってもマッチ箱のような街だ。すぐに店は途切れてしまった。
 その先に小さな公園があったので、そこまで歩いてベンチに腰を下ろした。
 そろそろ秋も深まろうというのに陽射しが眩しかった。上着が必要なのはもうちょっと先のことだろうか。俺は日光が直接当たらないように手をかざしながら空を見上げた。
 雲もほとんどない。真っ青な空。
──気持ちいい。
 そういえばこうやって昼間に陽を浴びるなんて滅多にないことだよなぁ。
 すこし喉が渇いたので、近くにある自販機でまたスポーツドリンクのペットボトルを買った。キャップを捻りながら、元のベンチにふたたび腰を下ろす。
 ブランコがふたつにすべり台。それに高さの違う鉄棒とシーソー。ちいさな砂場がある。ちょうど昼の時間だからか人気がない。
 俺の座っている向かい側にもベンチがあった。
──あれ?
 そのベンチのところに靴が一足。
 かなり履き古した黒の革靴だった。出がけに俺が捨てた靴に似ていた。まさかだれかがここまで履いてきたのか?
 そんな馬鹿なことはないよなぁ。
 こういうのってなんていうんだっけ? 現実にはありえないような状況のこと。ほら、ダルとかダリとか、ぐにゃって曲がった時計の絵のようなやつ。
 現実離れじゃないし、なんとかリアルだっけ?
 まぁ、いいや。そんな言葉なんかどうでも。
 でもこれってどうよ。
 こんなことってあるのか?
 だれもいない公園のベンチに靴がきちんと揃えて脱いである。
 確か、さっきの中華屋でも見たような気がするけど、どうしちゃったんだ?  俺ってまだ酔っぱらってるのか?
 そこへ鳩が飛んできた。クルッククといいながら首を振ってあちこちを歩いて回る。食べる餌なんてないんだろうに、しかし鳩は相変わらずクルッククと声を上げながら歩いている。ベンチの前を首を振りながら歩いていき、なにかに驚いたように不意に飛び去っていった。
 もう一度ベンチを見てみたら、そこにはなにもなかった……。
──って、靴なんてあるはずないもの。目の錯覚だよ。錯覚。
 ちょっと気になったので向かい側のベンチまで歩いていき確かめてみた。靴の影も形もなかった。
 でもなぜ靴があるなんて思っちゃったんだろう?
 俺はなんだか飲み込めないものを抱えたままのような気分でアパートへ帰った。

 その夜、コンビニ弁当で夕食を済ませると、テレビを見ながら缶ビールを一本呑んで風呂の用意をした。気分をリフレッシュしたかった。そのために、お湯をたっぷりと張り、のんびりと浸かりたかった。
 お湯張りが終わると、さっさと服を脱いで湯船に浸かる。
 アパートの外の廊下に通じている窓は開けたまま。二階だからどこからか覗かれる心配はない。ま、だいたいこんな男の裸を覗きたい奴もいないだろう。
 開けた窓を背にして俺は身体を伸ばした。ちょうど頭の上に窓がある。ときおり通りを走る車の音が小さく聞こえる。
 充分暖まったところで浴槽から出ると、頭から洗いはじめた。湯船のお湯を洗面器で掬ってザブッと頭からかぶる。シャンプーを手に取るとそのまま髪につけててきとうに洗った。シャワーでそれを綺麗に流すと、今度は身体を洗う。ボディシャンプーをスポンジにつけて、何度か揉みながら泡立ててから身体をこする。ちょっと力を入れて洗うのが好きだ。なんだか汚れがこすれる痛みと一緒に落ちていくような気がする。
 洗い終わると、もう一度頭から全身にシャワーを浴びる。
 いつもよりもちょっと長目にシャワーを浴びてから、再び湯船に浸かる。
 う~ん、気持ちいい。
 風呂はそんなに好きな方じゃないけど、ときどきこうやって熱めのお湯に身体を浸していると、全身に溜まっていた澱のような疲れがそのまま溶けて流れていってくれるような気になる。
 浴槽の縁に頭を乗せて身体を伸ばした。
 そのとき、だれかが廊下を歩く靴音が聞こえた。
 カツーン、カツーンとやや大股でゆっくりと歩いているような音だった。
 だれだろう?
 このアパートには若い奴が多いので靴音を響かせて歩くような奴はあまりいないし、俺自身あまりみたこともない。
 カツーン、カツーンと廊下の端から、こっちの方へその靴音が近づいてくる。
 なんだか妙に気になったので、俺は中腰になって窓から外を覗いてみた。
 風呂の窓は小さくて頭を出すことができない。だからとても中途半端な視界しかなかった。暗い廊下がちょっとだけ見えた。
 廊下の電気はとても暗い。もっと明るくしたらどうかと一度大家に話したことがあるんだが、もったいないし明るすぎると寝るときに邪魔だろうと一蹴されたことがあった。
 その暗い廊下に、しかしなにも見ることはできなかった。
 そっと耳をそばだててみたが、なにも聞こえない。ついさっきまで響いていた靴音も止んでいる。
 俺は再び浴槽に戻った。
 せっかく暖まった身体が少しだけ冷えてしまった。
 今度はあごのあたりまで浸かってしばらくじっとしていたが、そのうち我慢できなくなって湯船から出た。
 やっぱり気になるので窓の外を窺う。
 もうなにも聞こえなかった。
 もしかしたら気のせいかもしれない。俺はそう思うことにして風呂を出た。
 バスタオルでてきとうに身体を拭くと着替えた。
 もともとパジャマなんかを着るのが嫌いだったので、いつも T シャツとパンツだけだ。ただ今日はこのままだとなんだか寝付かれない気がしたので、そのうえにジャージの上下を着ると冷蔵庫を開けた。
 中に買い置きしておいた缶酎ハイがあった。
──これ呑んで寝よう。
 缶酎ハイを開けると、テレビを点けて呑みはじめた。
 どのチャンネルもよくわけのわかないバラエティ番組をやっていた。ふだん帰りが遅いからテレビのドラマを見たり、特定の番組を楽しみに観ることはなかった。
 こんなときはいっそニュースの方がいいんだよなぁ。チャンネルをてきとうに選んでいると、ニュースの解説をしている番組があったので、それを見ながら缶酎ハイを呑む。
 ほどなく缶酎ハイは空っぽになった。
 もうちょっと呑みたい気分だったけど、もう買い置きもないし、昨日呑みすぎたこともあるし、いつもより早めの時間だがそのまま寝てしまうことにした。
 ベッドに潜り込むと、きっとすぐには寝付けないだろうという予想に反してあっという間に眠りに落ちてしまった。

 頭の中でなにか音が響いている。
 ハッと眼を醒ますと、あたりはまだ真っ暗だった。
──いったいなんの音なんだよ。
 耳を澄ませてみた。
 悪い夢でも見てたんだろう。静まりかえっていた。あたりまえだ。携帯を確認してみたら、まだ午前二時過ぎだった。
──カツーン、カツーン。
 ふいにその音が聞こえてきた。静まりかえっていたはずの廊下の向こうで靴音が響いている。
──カツーン、カツーン。
 廊下の端からこの部屋へ向かってだれかが歩いているみたいだった。
 いったいなんだよ。
──カツーン、カツーン。
 靴音がすこしずつ大きくなっていく。
──カツーン、カツーン。
 部屋の前まで来た。
続く

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

しこたま酔っぱらって帰った菊池。
翌日、酷い二日酔いで目醒めた彼だったが、見たこともない靴が玄関にあった。
出かけるついでにその靴を捨てたはずだったが、不思議と目につくようになり、
その夜、彼のアパートの廊下になぜか靴音が響きだした……。

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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。
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