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ものがたり屋 参 聲 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

聲 その 2

 ねえ、
 ここだよ、ここにいるよ。
 こっちだよ。
 届いてるよね、ぼくの声が……。
 だから、ここだよ。
 しっかりぼくの声を聞いて。
 ほら、こっちにおいでよ……。

「麻美、もう駄目。このままだとおかしくなりそう……」
 耀子から携帯に電話があったのは翌朝のことだった。まるで縋りつくような声だった。
「ねぇ耀子、どうしたの?」
「だから声なのよ、声が聞こえるの。それも眠っているときだけでなくて、眼が醒めてからも、ふっと聞こえてくるの」
「いまも聞こえるの?」
「いまは止んでる。でも、気がつくと、まるで地の底から湧いてくるように聞こえてくるの……」
 最後は半分泣き声になっていた。
 麻美は耀子にすぐに家にいくからといって電話を切ると、結人に連絡して、ふたりで耀子の家を訪れることにした。
 耀子の家は鎌倉山の海側にあった。バス通りから細い道を辿り、奥まったところに建っている。時代を感じさせる洋館が鬱蒼とした林の中にあった。
「なんだかタイムトンネルを潜ってきたみたいだ……」
 結人の運転する車で門を潜ると、はじめて訪れる結人は物珍しそうにあたりを見ながらぼそりと呟いた。
「建物は明治時代のものらしいわ」
 麻美が結人の反応を面白がりながらいった。
「すごいなぁ、いろいろな意味で」
「え?」
「まあね」
 結人はお茶を濁すように笑顔を返した。
 
「じっと聞いているとね、なんだか反響しているみたいなの。狭いところでだれかがこっちをじっと見つめたまま話している、そんな感じ」
 耀子は、麻美と結人のふたりを迎え入れるとすぐに自分の部屋へと誘い、ふたりがソファに腰を下ろすのを待つことなく話し出した。
「ベッドに入って目を瞑るでしょ。最初はいいの。とくになにもなくて、そのまますとんと眠りに落ちそうになると不意に聞こえてくるの。『ねぇ、ここだよ』って……」
「そこは真っ暗なの?」
 ソファに腰を下ろして顔の前で両手を組んだまま結人が尋ねた。
「耀子、彼が結人。その手の話の相談に乗ってくれる人。わたしとは幼稚園の頃からの知り合いだから、なんの心配もしなくていいよ」
「ありがとう」
 耀子は頷くとじっと結人を顔を見つめたまま口を開いた。
「もしかしたらなんだけど、ぼんやりと暗い感じかな。まるで光が届きそうで届かない暗がりなのか」
「よかったら、ぼくの掌のうえに手を置いてくれないかな。それから眼を閉じて、その声を思い出してみて」
 結人はそういうと自らの右手を掌を上にして差しだした。
 はじめは途惑っていたいた耀子だったが、麻美が笑顔で大きく頷いたのをみて、そっとその手の上に重ねた。それからゆっくりと深呼吸をするとそっと眼を閉じた。
「どう? 思い出せる?」
 耀子は応える代わりに大きく頷いた。
「どんな声だった?」
「はじめはおずおずと……。まるで消えてしまうようなか細い声が……」
「それから?」
 結人は耀子の手をその掌に乗せたまま、じっと耀子の顔を真剣な眼差しで見つめていた。
 麻美は息を凝らしてふたりの様子を見ながら、幼い頃、同じように結人が麻美の手を握って、なにかを祓ったときことを思い出していた。
 あれはまだ小学校へ上がる前だった。近所のお寺の境内の横を通り過ぎたときのこと。ふいに結人がその右手で麻美の手を握ったのだ。突然のことに驚いた麻美が咎めるような眼で結人を見つめると、彼は大人びた口調でいったのだった。
「そのまま」
 結人は眼を閉じてなにかを呟くように唱えはじめた。そして麻美の目の前に左手を差し出して見せた。なにがどうなっているのか結人の左手の小指から薬指にかけてみるみるうちに黒く変色していったのだった。
 そして唱え終わった結人が左手を振り払うと、その指先から黒ずんだなにかが地面に飛び散っていった。
「これで大丈夫」
 結人はただにっこりと笑っていた。いったいなにがあったのか訊いても頑として答えてはくれなかった。そのときのことを説明してくれたのは、さらに二三年が経って、麻美が怪しい話を素直に聴けるようになってからだった。
「あのとき、なにがあったの?」
 麻美の問いに結人は静かにいった。
「麻美ちゃんに取り憑いた影を祓ったんだよ。きっとあのお寺でうろうろしていた奴がいたんだね」
 それがあってから、この手のことについて麻美は結人のことを全面的に信用するようになっていた。あのときと同じようなことが、いま目の前で起ころうとしているのだろうか。
 麻美はただふたりの顔を交互に見ていた。
 そのとき、ふいに部屋のドアが開いて、耀子の母親がお盆を持って部屋に入ってきた。
「ごめんなさい、なんのお構いもしなくて」
 その声にいままで張り詰めていた部屋の空気が解けていったようだった。
「おかあさん、ノック忘れてる」
 その声に笑いながらごめんなさいといって、麻美の前に冷えた麦茶が入ったグラスを置いた。そして、結人の前に置こうとした次の瞬間、結人の顔をひと目みるとその顔が苦悶に歪み、手にしていたグラスを取り落としてしまった。
「おかあさん!」
「申し訳ないけど、帰ってもらって」
 彼女は絞り出すようにそう言い放つと、そのまま部屋を出ていってしまった。

「ごめんなさい」
 耀子は玄関から一緒に外に出ると頭を下げた。
「でも、どうしたのかしら。なんだか様子がおかしかったけど」
 麻美は耀子を気遣うようにいった。
「わたしにもよく判らないけど……」
「きっと気分でも悪くなったんだよ」
 結人はそういうと夏の陽射しを浴びている庭に眼をやった。
「綺麗な庭だね」
 建物の南側にはかなりスペースがあり、芝生が広がっていた。かなり背の高い木々も植えられていて、そのどれもがきちんと手入れされていた。
「奥はどうなってるの?」
 結人は耀子の顔を見て、訊いた。
「どうって、ただ庭が続いているだけよ」
 耀子は素っ気なく答えた。

「ねぇ、どうかしたの? 庭のことを気にしてたけど」
 結人が車を走らせて鎌倉山を下った頃、麻美が訪ねた。
「うん、ちょっとね」
「ちょっとってなによ、気を持たせないで」
「いや、まだ確かじゃないんだけど、彼女の手に触れたときに見えたものがあったんだ」
「え? なんなの、それ」
「庭の奥にあっただろ」
「なによ、気を持たせないでよ」
「気のせいだといいんだけどね」
 車は鎌倉の市内を抜けて、やがて海沿いの国道へと出た。それまで輝いていた陽射しを覆い隠すように、雲が湧きはじめていた。国道から見える海の上を雲がすごいスピードで覆っていく。陽射しを覆い隠していく雲の黒さに浸食されていくようにあたりが暗くなっていった。
「だから、なんなの?」
 麻美はしつこく訊きつづけた。
「だから、井戸だよ」
 真っ暗になった空から、突然大粒の雨粒が落ちはじめ、あたりはみるみるうちに土砂降りに見舞われた。
 結人はワイパーを高速に切り替えたけど、追いつかないほど激しい雨でフロントグラスから見える視界は歪んでいくだけだった。
はじめから

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