ものがたり屋 壱 扉
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
そんなものがたりを集めたのが、この「ものがたり屋」です。
いままで気づかなかった暗く、そして怪しいなにかを、存分に味わってください。
扉
扉だった。
それはまぎれもなく扉だった。
なぜ、こんな場所に、しかもいつから扉があるのか、さっぱり解らなかったが、確かにそこに扉があった。
JR渋谷駅の改札から、東横線の乗り場へ向かう通路の途中、いくつも並ぶ広告の間に、その扉はあった。
駅員が使うんだろうか、それともデパートの通用口なんだろうか。いずれにせよそれは、そんな類の扉としてはそぐわないものだった。
通用口の扉なら、少なくとも外観をそこなうことがないように、壁と同じような色にするか、目立たない金属製のものにするはずだ。
その扉は、重そうな木製のものだった。
私は首をひねりながら、東急文化会館の方へ抜け、クライアントの会社へと急いだ。五月晴れが梅雨空へと変わる頃のことだった。
広告制作会社のディレクター。そういえば聞こえはいいかもしれないが、いつ潰れてもおかしくない、ちっぽけな会社にしがみついている、うだつのあがらない中年男。それが私だ。
友人と、それまで務めていた中堅どころの制作会社から独立。ゲーム関係のクライアントをいくつか抱え、それなりに生きてきた。が、ここ二三年、景気が悪くなるのに歩調を合わせるように仕事が減り、さらにはクライアントも規模を縮小したり、倒産したりでジリ貧状態に陥っていた。
座して死を待つよりは、と方針を転換したのが去年の末。印刷物をメインにしたグラフィックデザインはスッパリとあきらめて、デジタルコンテンツの制作へと切り替えることにした。
それまで付き合ってきた同業者からは、年寄りの冷や水とさんざんからかわれたが、ようやく軌道に乗りだしてきたところだった。
クライアントとの打合せをすませ、ようやく原宿にある事務所に戻ったのは夕方だった。デスクのパソコンを起ち上げて、作業を始めようとしたところへ社長がやって来た。
社長とはいっても、一緒に独立した仲でもあるし、十年来の友人でもあった。気心は知れている。
「仕事は相変わらずかい」
「ああ、ここまで忙しくなるとはね。さすがに疲れてきたよ」
「実は、会ってもらいたい子が来ているんだ」
そういうと彼は少し離れたところにある応接セットの方に目をやった。
かなりくたびれたソファに、女の子がひとり座っていた。
「彼女?」
「そう。君につけようと思っているんだ。仕事を教えてくれないか。代理店のイトウさんからの紹介でね。こういう仕事がしたいからと会社に勤めながら学校にも通っていたらしい」
「学校ね……」
「確かに即戦力というわけにはいかないだろうし、忙しくて手が回らないのもわかる。けど、君の下につけば、きっと勉強にもなるだろうし、なにかの役には立つんじゃないかな」
「イトウさんの紹介なら、断れないな」
「頼まれてくれるかい」
仕方なく首を縦に振ると、社長といっしょに彼女の向かい側に腰を降ろした。
挨拶をした後、改めて彼女の顔を見た。どこといって特徴のない顔立ちだったが、素直そうな子だった。扱いやすい子が何より一番だ。そう納得して、次の日から彼女に仕事を教えることにした。彼女の名は、レイ子といった。
仕事を教えるといっても学校じゃないので、実際に現場を見てもらい、体験しながら身体で覚えてもらうしかない。とりあえず四六時中、私についてもらい、いっしょに行動することにした。
打合せがあればクライアントまで出かけ、作業をするときは隣に座らせ、どんなときに何をするのか、そのすべてを見せた。
素直さというのはひとつの才能なのかもしれない。この仕事がやりたいからと、自ら学校へ通うほどの意欲に、その素直さが加わり、彼女は瞬く間に仕事を身につけていった。今までに名のある会社で、大きな仕事をしてきたんだという下手なプライドが邪魔をするケースはよく見てきたが、彼女はまったく逆だった。当然、飲み込みも早いはずだ。
少しずつだがひとりで仕事をこなしていくことも増えていき、いつしか事務所のスタッフとも打ち解けていった。それまで「レイ子さん」と呼ばれていたのが「レイ子ちゃん」になっていた。
ときおり見せる笑顔が意外に可愛いと思うようになったのもこの頃だった。
渋谷駅のあの扉は、いつも閉まったままだった。
東横線に乗り、妻と子どもが待つ我が家への帰り道に見かけるのだが、誰かが使っているところを見たことがなかった。
いったい何のための扉なんだろう。
クライアントに誘われて飲んだその日、ふとその扉の前で立ち止まってしまった。アルコールが入っているからだろうか、多少大胆な気持ちにもなっていたし、短絡的でもあった。
疑問を解くには、答えを見てしまえば早い。
ノブに手を伸ばし、そして……。
けれど開けることはできなかった。
盗み見をするような後ろめたさが躊躇させたのだ。
そうやって踏ん切りがつかないまま立っていると、帰宅を急ぐ人に何人もぶつかってしまった。その訝しげな顔を見た途端、我に返り、私も家路へと向かった。
それにしてもいったい――。
残暑も終わり、秋がゆっくりと深まり始めた頃。レイ子はいつの間にか事務所の立派な戦力になっていた。
ひとりで片づけられる仕事をいくつも任されるようになり、クライアントに出向き打合せをしてきては、作業をこなすようになっていた。時には、私と組んで大きなプロジェクトを担当することもあった。
私の仕事の手伝いどころか、パートナーといっても過言ではない。それでも持って生まれた素直さはそのままで、クライアントからも可愛がられるようになっていた。飲みに誘われることが多くなったのも、案外彼女のお陰かもしれなかった。
その日もクライアントに誘われ、ふたりで飲みに行くことになっていた。Webサイトを納品したばかりで、誘ってくれたクライアントの担当者は上機嫌だった。洗練された使いやすいサイトになったと上司から誉められたらしい。
さんざん礼を述べられ私も悪い気がしなかった。確かにいい仕事ができたと思う。もちろんそれは嬉しかったが、なによりも彼女の成長ぶりが嬉しかった。
クライアントの担当者以上に私ひとりが盛り上がってしまったかもしれない。本当なら、もっと時間に気を遣うべきだったのだ。しかし飲んでいるうちに終電の時間は過ぎてしまっていた。
何軒目かの店を出ると、クライアントの担当者は行くところがあるからと、そのままどこかへと消えていった。まだどこかで飲むつもりなんだろう。が、私たちには明日がある。ふたり、肩を並べるようにしてタクシー乗り場へと歩き始めた。
交差点をふたつほど歩いたところで、それまで楽しそうに話していた彼女が、ふいに押し黙ってしまった。どうしたのかと思って見てみると、両腕で胸のあたりを抱きながら、小刻みに震えていた。
「寒くありませんか?」
その声も震えているようだった。
「そうだね、風も冷たいし、大丈夫?」
その問に笑みで答えようとしたらしい。しかし唇も震えていた。
どうしたものかと迷ったが、あまりにも寒そうなので、肩を抱いた。何かの足しにでもなれば。そんなつもりだった。
その肩に腕をまわした瞬間、彼女は立ち止まり、私の顔をじっと見つめた。が、すぐにほっと息を吐くと、歩き始めた。
タクシー乗り場には何人かの姿があったが、さほど待つことはなさそうだった。あと少しでその列の後ろに並ぶというところで、なにかに躓いたのか彼女がよろめいた。私はとっさに両腕で抱きかかえるようにして、彼女を支えていた。
私の両腕の中に、レイ子がいた。微かに髪の香りがする。
「ごめんなさい」
照れくさそうにいうと顔を上げた。少し上目遣いになった彼女の睫が揺れていた。
思わずそのまま抱きしめたい衝動に駆られた私は、しかし無理矢理身体を引き剥がすようにして彼女から離れた。自分のあまりにも真っ直ぐな反応に戸惑ってしまったのだ。
ここ何年も身に覚えがないほど勃起していた。
そのことを彼女に悟られないように、タクシーを待つ人の列に並んだ。
ほどなく順番が来ると、まず彼女を乗せた。シートに腰を降ろした彼女は、私をじっと見つめると何かいいたそうに口を開いた。が、その声を遮るようにドアは閉まり、タクシーは走っていった。
私は別のタクシーに乗ると、行き先を告げた。真夜中の街を車が走り抜ける。身体の芯にはまだ熱い固まりがあった。窓の外を流れていく暗い街並み。私はなにも考えることができず、ただそれをぼんやりと眺めていた。
どれぐらい経っただろう、携帯電話が鳴っていた。
「今日は楽しかったです。今度は二人で」
レイ子からのメールだった。たった二行のメッセージが私の胸を躍らせた。
「いつか、きっと」
そう返信した後も、私は彼女からのメールを読み返した。何度も。
あの扉は、閉まったままだった。
出社するときや帰宅するとき、あるいはクライアントへと出向くときなど、日に二度や三度は、あの扉のある通路を通ったが、ただの一度も使っているところを見たことがなかった。
なによりも不思議なのは、同じようにあの扉の前を通る人たちが、誰ひとりとして扉の存在を気にすることがないということだった。
ただ通路にある扉。それが気になる私がおかしいのだろうか?
いつしか樹木からは葉も落ち、しっかりと着込まないと外を歩けない季節になっていた。
あれ以降、何度か彼女と飲む機会はあった。もちろんふたりきりのときもあった。小さなテーブルを挟んで向かい合ったり、カウンターに並んで飲んだりもした。だからといって何をしたらいいんだろう。うだつのあがらない妻子持ちの中年男が、若い女性に何を期待したらいいというのだろう。
仕事の話題だと弾む会話も、ふと途切れてしまうとそれきりだった。ただ互いに顔を見合って静かに飲む。でも、それで良かった。
大阪への出張が決まったのは、クリスマスまであと一週間という日だった。以前、私たちを飲みに誘ってくれたクライアントの支社の仕事だった。
例の担当者が私たちふたりを推薦してくれたらしい。もちろん彼の上司の後押しもあっただろう。ありがたい話である。しかし、急な話でもあった。翌日から一泊二日の予定で打合せしたいといってきたのだ。
その日、私は子どものために購入したクリスマスプレゼントを抱え、少し早めに会社を出た。出張の準備をしなければいけなかった。一泊二日とはいえ、手ぶらで出張する訳にもいかない。
いつものように渋谷駅で降りると、そのまま通路を抜けて東横線の乗り場へ行こうとしたときだった。
少しだけ、ほんの少しだけあの扉が開いていた。
誰かが閉め忘れたんだろうか。
私はあたりを見回すと、ゆっくりその扉へ近づいた。左腕にクリスマスプレゼントを抱えたまま、右手をノブに伸ばす。ノブに手をかけたまま、隙間から中の様子を窺った。なにも見えず、なんの音も聞き取ることはできなかった。
もう一度あたりを見回してみる。誰も私のことなど気にも留めていないようだ。意を決すると、扉を押し開き、中にすべり込むように入った。
後ろ手に扉を閉める。
あたりは真っ暗だった。光はもちろん、なんの音も聞こえない。一二歩足を進めてみたが、圧倒的な暗闇が広がっているだけだった。
息を殺してなんとか気配を探ろうとしたが、なにも感じることができない。
どれぐらいそこにいただろう。
妙な息苦しさを覚え、居ても立ってもいられなくなった私は、そのまま飛び出るように外へ出た。
そこはいつもの渋谷駅だった。JRの改札から東横線の乗り場へと抜ける通路。振り返ると、扉はしかしそこにあった。
いったいどこへ通じる扉なんだろう……。
翌日、私と彼女は新幹線で大阪へと向かった。
車中、あれこれと仕事の話をしながら、ふたりとも心は別のどこかにあるようだった。会話が長続きせず、ふと気づくと意味もなく車窓を眺めていた。
昼前に大阪に着くと、駅の近くで昼食を摂り、先方の会社へと向かった。
打合せ自体はさほど時間はかからなかったが、挨拶をしたり、社内のいろいろな部署を案内されたりしたため、予約しておいたホテルにチェックインできたのは夕方過ぎだった。
夕食をクライアントに誘われ、食事がすむとそのまま飲みに行くことになり、ふたりがホテルに戻ったのは十時前だった。
それぞれロビーで鍵を受け取るとエレベーターに乗った。妙な沈黙が支配していた。どうしたというのだろう、彼女の顔をまともに見ることができなかった。階数ボタンを押す彼女の指。彼女の腕。普段とは違ったシックな装い。短めのスカートから伸びた足。それぞれの部分を見ることはできるのに、彼女そのものを正面からしっかりと見ることができなかった。
エレベーターが停まると、どちらからともなく部屋へ向かった。部屋は隣同士だった。鍵を差し込み、ドアを開ける。ふと彼女の方を見ると、ドアノブを握ったまま私を見つめていた。
何をいったらいいのか判らず、ただ微笑もうとした。けれど上手くいかなかった。ぎこちない笑顔を貼り付けたまま私は部屋へ入った。
灯りも点けず、ベッドに腰を降ろすと、ひとり頭を抱えた。身体の奥底から湧きあがってくるものがあった。けれど、それに身を委ねてしまっては……。
冷蔵庫からビールを出すと一気に流し込んだ。苦さが喉に沁みた。冷静になれるつもりだったはずなのに、逆に湧きあがってくるものがさらに熱いものになってしまった。
どんな言い訳もできない。そんなことを何度も頭の中で反芻した。しかし、沸き上がってくるものに抗うことはできなかった。陳腐な話だが、妻と子どもの顔を思い出そうともした。けれど、いつの間にか私は部屋を出て、彼女の部屋の扉の前に立っていた。
ノックをしようとした瞬間、扉が開き、中から彼女の腕が伸びてきた。その腕に引っ張られるように中に入った私は、レイ子をしっかりと見つめると、そのまま抱きしめた。身体の奥底から湧きあがってくる熱いものを、彼女の身体の中にまで染みこむように、激しく、力を込めて抱きしめた。唇をそのまま重ねると、互いに身にまとっていたものを脱ぎ去り、再び抱き合った。彼女の身体からも熱いものが伝わってくるようだった。
そのままもつれるようにベッドに倒れると、唇を重ねながら、身体をまさぐりあった。彼女の吸いつくような白い肌を掌でゆっくりと撫でていく。張りのある乳房を揉みながら、顎から首筋へと唇を這わせていく。
彼女もそれに応えるように手を伸ばしていつになく固く勃起したペニスを握ると、ゆっくりと手を動かし始めた。妻のそれとは違う感触が、一層私を熱くさせた。
彼女の中は、あたたかく、そしてやさしく濡れていた。もう頭の中にはなにもなかった。腕の中にいるレイ子のことだけだった。その顔、そのやわらかい唇、そしてきれいな乳房、しなやかな腰。
きつく抱きしめながら、私はゆっくりと腰を動かしていった。
ふと気づくと、私は渋谷駅の通路に立っていた。JRの改札から東横線の乗り場へ向かう通路の途中、いくつも並ぶ広告の間あたりをぼんやりと見ていた。
帰宅を急ぐ人たちが、私にぶつかり、その度に迷惑そうに一瞥をくれると、そのまま去っていった。
私はなにをしていたのだろう?
左手には、紙袋を持って立っていた。そうだ明日は大阪に出張だった。その紙袋には会社の近くでクリーニングに出したワイシャツが入っていた。
うだつのあがらない中年の独身男。
歩き出した私は、明日からの出張を思い憂鬱になっていた。そして仕事もできない癖に、口だけは達者なレイジといっしょに出張しなければいけないのだ。しかも相部屋。憂鬱になるのも当然だろう。
やれやれと溜息をひとつつくと、誰も待つ人のない寂しい家へ帰ることにした。
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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
見馴れていたはずの駅に見かけない扉が。
ついその扉を開けてしまった私は……。
いままで見過ごしてきた怪しいなにかを存分に味わってください。
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いままで通り毎週、各話を新規に公開していきますが、合わせてこの総合ページも随時更新していこうと思います。
シリーズを通して読み直したい、そんなことができるようになっています。ぜひもう一度、頭から読み直してください。
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