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ものがたり屋 参 濤 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

濤 その 2

 寄せては返し、返しては寄せる。
 揺蕩う海原のその中には瑠璃色の世界がある。
 射しこむのは揺らめく光。
 響いてくるのは海中を舞う泡たち。
 輝く命に溢れる世界がそこにはある。

「これ、見て」
 奈々海はぼくにスマホで撮った写真を見せた。確かにそこには黒ずくめの男が映っている。
「なんだかちょっと暈けてない?」
「だって慌てて撮ったんだもの」
 奈々海はそういって口を尖らせた。
 彼女から電話があったあと、ぼくたちは逗子駅近くのカフェで落ち合った。
 午後の陽射しが眩しい店内は多くの人で賑わっていた。
 奈々海は席に座るなり、あたりを伺うように見回してから、ぼくにスマホの画面を見せたのだった。
「まさか大学にもいたなんて、ちょっと驚いちゃって……」
 店内のざわめきにこっそりと紛れ込ませるように、奈々海は声を潜めていった。
「昨日も?」
 ぼくも吊られて小声で訊いた。
「そうなの。帰り道にふっと振り返ったらそこに。ほら、これよ」
 奈々海は別の写真をぼくに見せてくれた。そこにも同じ男が映っていた。
 ──なぜだ?
「ねぇ、なんだか気持ち悪い……」
 奈々海はそういって縋るような眼でぼくを見つめた。
 ぼくはそれに答えることができずに、ただ頷いた。
「ヒロキはあれから見てないの?」
「ああ、ぼくも気をつけていたけど、男は見てないよ」
「なら、やっぱりわたしか……」
 奈々海はなにか思い詰めるように右親指の爪を軽く噛んだ。
「あ、そうだ」
 ふいに奈々海はバッグの中を探しはじめて、やがて名刺を取り出すとテーブルの上に置いた。
 ──地域カウンセラー 大貫美佐絵。
 そこにはそんな肩書きと名前があった。
「なに?」  
「それがね、ここへ来るまでの電車の中で黒ずくめの男がいるんじゃないかと心配でキョロキョロしていたら、隣に座っていた女性に声をかけられたの」
「へぇ、どんな人?」
「三十代かな。ちょっと落ち着いた感じの人。わたしの肩をそっと叩いて、どうかしたの、って聞いてくれたの」
 奈々海はちょっと上の方を見ながら答えた。
「親切そうな人なのかな」
「きちんとしたスーツを着てた。スタイルもよくて、肌が綺麗で美人だったわ」
 彼女は頷きながら答えた。
「どんな話になったの?」
「ほら、なんていったらいいのかよく判らなくて、なんでもないですって答えたの。そしたら笑顔で、心配しなくていいのよ、なにか気になるんでしょ、って」
「そんなにキョロキョロしてたんだ」
「だって、仕方ないでしょ」
 からかうつもりはなかったけど、彼女はちょっとムキになって答えた。
「そうだね。確かに変な話だ」
「いつでもいいから、なにか気になることがあったら遠慮なく連絡してねって、この名刺を渡してくれたの」
「でも、地域カウンセラーってなにするんだろう?」
 ぼくが首を傾げると奈々海は大きく頷いた。
「わたしもね、気になって聞いてみたら、お年寄りとか、身寄りのない人の困りごとの相談を受けているんですって」
「そんな人がいるんだ」
 ぼくは改めて名刺を手にした。とてもシンプルなデザインだった。ただこだわりがあるらしく和紙に明朝体の文字で印刷されていた。
「相談してみる?」
「相談って、どう話せばいいの? 黒ずくめの男に後をつけられているみたいなんですって? なんの確証もないし、そもそもその理由だって解らないのに……」
 奈々海はそういうと椅子にもたれ掛かるように座り直した。天井のを見上げるようにして、そっと溜息を漏らした。
 確かに奈々海のいう通りだ。あの男がほんとうに後をつけているのかも判らないし、そもそもなぜ奈々海なのかの理由もまったく解せなかった。
 ぼくも溜息をつきたい気分になったとき、ふいに肩を叩かれた。
「どうしたの?」
 久能結人だった。
「あ、そうか。はじめてだったね」
 ぼくは座り直すと奈々海にいった。
「大学の友だちの久能だよ。久能結人」
「よろしく」
 久能はそういって軽く会釈した。
「彼女が汐見奈々海」
「こちらこそ」
 ぼくが彼女を紹介すると、奈々海は笑顔で会釈を返した。
「ところでなんだってここに?」
 ぼくはちょっと気になって久能に聞いてみた。
「ぼくも逗子だろ。それでたまたま店を覗いてみたら、キミがいるから」
「そうか。久能も逗子だったな」
「逗子なんですね。いつからですか?」
 奈々海が尋ねると久能はちょっと考えてから答えた。
「うちはちょっと古い家で、もうず~っと逗子なんだ」
「ず〜っと逗子って、いつからだよ」
「そうだな、たぶんだけど鎌倉時代の終わりぐらいからかな」
「え?」
 奈々海は意外な答えに眼を丸くして、改めて久能の顔を見つめ直した。
「それって、ほんとうか?」
 ぼくが訊き返すと、久能はゆっくりと頷いた。
「ほら、うちって神社だろ。どうやらそのはじまりがその時代らしいんだ」
「すご~い。神社なんだ、それも歴史のある」
 奈々海は感心したようにいった。
「いや、ちいさな社だよ。ただ古いことは古いだけ」
 久能は自嘲気味に笑っていった。
「それはそうと、さっき駅前でへんな男を見たけど、あいつがそうなのかな」
「え?」
 奈々海の顔が途端に曇った。
「どんな男だ?」
 ぼくが訊き返すと、久能はポケットからスマホを取りだして、その画面をぼくに見せた。
 その写真を見た瞬間、まるで店内からすべての音が消えてしまったようだった。スマホから眼を離すことができなくなっていた。
 そこに映っていたのは確かにあの黒ずくめの男だったのだ。
「いやだ、ここにもまたいたなんて……」
 奈々海はそういってイヤイヤするように頭を振った。
 
「ねぇ、なぜかしら?」
 奈々海はそういって、大きな溜息をついた。
 ひとりになりたくないからという奈々海をぼくは家に連れて帰ることにした。
 窓際のソファに座るなり、奈々海はカーテンをそっと開けて外を窺ってから、改めて座り直して溜息をついたのだった。もう何度目の溜息だったか判らないほど繰り返していた。
「解らないことだらけだけど、これだけは確かだ。あの黒ずくめの男は、奈々海を見張っている」
 ぼくは奈々海の隣に腰を下ろすといった。
「どうしたらいいのかしら?」
 すぐに答えらることができずにぼくは腕組みをして黙ってしまった。
「こんなこと相談できないよね、たとえば警察とか」
 奈々海はぼくの手を取ると縋るような目つきで訊いてきた。
「相手がきちんと判っていたら相談のしようもあるんだろうけど……。まったくなにも判らないから、どうだろう?」
 力になれないもどかしさを感じながら、しかしぼくはただ不安げに黙りこくる彼女の横顔をじっと見つめることしかできなかった。
「あの人に、相談してみようかな……」
 奈々海はそういってぼくの眼を見つめた。
「困りごとの相談の相手しているんだっけ?」
 ぼくの言葉に奈々海はこくりと頷いた。
 奈々海は縋るものがあればなんでもいいから縋りたい気持ちになっているのかもしれない。けれどいまの状況を考えると、それはそれで仕方ないことだともいえる。
 ぼくも後ろを向くとカーテンをそっと開けた。その隙間から傾きはじめた陽射しが部屋の中に射しこんでくる。ぼくは構わずそのまま窓の外を見てみた。
「ねぇ、いる?」
「いや、大丈夫……」
 そういいかけてぼくは口を閉ざしてしまった。
 いたのだ、あの男が。それもかなり離れた場所に。ゆっくりとオレンジ色に変わりはじめた陽射しを避けるように電柱に身を隠していた。ときおりこっちを見ながらじっと立っている。
 ──なぜ、こっちが身を潜めて相手を伺わなきゃいけないのだ?
 男をじっと見ているうちに、なぜだかぼくの中にそういった思いが浮かび、やがてそれはちいさな怒りに変わっていった。

 翌日の昼前にぼくは奈々海と一緒に出かけることにした。
 あれからいろいろと話し合ったけど、どうしても不安だという彼女は相談したいといいだして聞かなかった。
 その名刺に書いてあった番号に電話すると、彼女の事務所を訪れることになったのだ。
 肩を並べながら駅へと向かう道すがら、曲がり角を過ぎたところでぼくはそこで身を潜めた。
 奈々海はそのままひとりで駅へ向かった。決して振り返ることなく、そのまま駅へいくように話しておいた。そしてぼくはあの男が姿を現すのをじっと待った。
 じりじりと過ぎていく時。まさかあの男は別の道で奈々海の後をつけているんじゃないのか? そんな思いが頭の中で交錯しはじめたころ、早足で男がやってきた。
 曲がり角を回ってその姿が見えた瞬間、ぼくその前に立ちはだかった。
 不意を突かれたのか男はぼくにぶつかりそうなりながらその場に立ち止まると、いきなり回れ右をして逃げようとした。しかし、男の背後には久能がいた。示し合わせて男を挟み撃ちにする計画だったのだ。そして見事に男はトラップにかかったというわけだ。
 男の背は思ったよりも低かった。ただ上半身はがっしりとしていて胸板も分厚かった。相変わらず帽子を目深に被り、そのつば越しにぼくをじっと上目遣いに見つめている。
 ぼくはその帽子を取り去ると、男の顔をじっと見た。
 やや離れた眼はすこし飛び出し気味で、顎はほとんどなくまるで縦に圧縮したような顔立ちだった。
「なぜだ?」
 ぼくはその眼をじっと見つめながら強めの口調でいった。
「なぜ、奈々海の後をつける?」
 男はぼくの眼をじっと見返したままなにも答えなかった。
「このまま警察に突き出してもいいんだよ」
 久能が男の背後から声をかけた。
 男はその言葉にいったん振り向いたが、やがてすぐに向き直り、またぼくの眼をじっと見返してきた。
 その大きく出っ張った眼はしかしとても澄みきっていた。
 どれほどの間、押し黙っていただろう。やっと男は口を開いた。
「どこへいった?」
「なぜ、それを知りたい?」
 ぼくは問い詰めるようにいった。
 男はまったく動じる素振りもなく、ただ静にもう一度口を開いた。
「彼女はどこへ?」
「お前はいったいだれだ? なんのために奈々海の後をつけているんだ? それをちゃんと説明するのが先だろ」
 男はぼくの言葉を聞きながら空をじっと見上げると、やがて意を決したように口を開いた。
「彼女に危害を加えるつもりなどまったくない。これは信じてもらうしかない。ただ彼女の身が心配だったから」
「だから後をつけたと?」
 ぼくの問いに男は大きく頷いた。
「だいたいお前は奈々海とどんな関係なんだ?」
「話しても信じてもらえないだろう」
 男は表情を変えずにそういった。
 その顔つきはちょっと変わってはいたが、しかし悪意といったものをまったく感じさせなかったことは確かだった。
 男が黙っていると、ふいに久能が男の右手を自らの右手で掴み、眼を瞑った。
 いったいなにをしているのかぼくには想像もつかなかったけど、しかし久能なりの理由があるんだろう。
「この人からは邪悪なものは感じられないよ」
 久能はその手を離すとぼそっといった。
「なぜ彼女のいき先を気にする?」
「無事かどうかを案じているだけだ」
 男は素っ気なくいった。
「お前が後をつけるから不安がってカウンセラーの人に相談にいったんだよ」
「カウンセラー?」
 男はそういうと首を傾げた。
「ああ。確か大貫っていったかな。そうそう大貫美佐絵」
 その名前を聞いた瞬間、男の顔色が変わった。
 ポケットに手を突っ込むとスマホを取りだして、ぼくに写真を見せた。
「まさかこの女じゃないだろうな?」
「どうかな。ぼくは会ったことがないから知らないけど、親切そうな人だって奈々海がいってた。それがなにか?」
「しまった!」
 男はスマホを慌ててポケットにしまうと、その場から逃れようとした。
 ぼくは男の手を掴み話さなかった。
「このカウンセラーがどうかしたのか?」
「カウンセラーなんてとんでもない」
 男は必死の形相で逃れようとしながら、続けていった。
「この女の正体を知らないのか?」
「だからカウンセラーだろ」
「違う。こいつは八百比丘尼だ!」
 男は吐き捨てるようにいった。
「比丘尼? それって……」
 ぼくが首を傾げながら訊くと、久能が男に代わっていった。
「八百比丘尼。人魚の肉を食べた比丘尼だよ」
はじめから

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「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

NOTE では基本的には無料公開を、そして電子書籍としては ePUb 版を販売してきました。より多くの人たちに作品を届けるため、Kindle 版の販売もはじめました。Kindle Unlimited でもお読みいただけます。
ストーリーを気軽に楽しみたければ NOTE で読んで、一冊の本として愛読したい作品は Kindle 版や ePub 版を購入する。
そんなスタイルで Zushi Beach Books の作品たちをお楽しみください。

また、今回の Kindle 版の販売にともない、「ものがたり屋 参」の第一話「聲」、第二話「隂」、第三話「凮」各話について NOTE でお読みいただけるのは、その 2 までとなります。完結編となるその 3 は、Kindle 版、また ePub 版でお楽しみください。
よろしくお願いいたします。

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