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『天と地のクラウディア』第9話

 誰かが誰かを呼んでいる。凜とした声。苛立ったような間延びした声。うるさいな。そう言いたくなるような、嫌に全身に纏わりつくような声。

 しかしそれは一方で、どこか懐かしくも聞こえる。呼び声が少しずつ明確になって、やがて気が付いた。

 俺が呼ばれているんだ。

「レグ」

 はっ、と目を覚ました。瞬間、何かを悟ったような感覚に襲われた。周囲は明るい。窓の前に誰かが立っていた。寝ぼけた目に強い逆光で、その表情はよく見えなかったが、それか誰であるかは顔を見なくとも、何なら人影を見ずともわかっていた。

 徐々に頭が覚醒してくると、急に罪悪感が襲いかかってきた。あれ、と刹那的な困惑の後、まずい、と本能的に何かを悟る。俄かには信じ難い現状を受け入れるまでに起きたこの感覚は――そうだ、寝坊だ。

「おはよう」

 俺の部屋でリザミアの声がした。あまりの違和感のなさに逆に驚いた。お前はあれか、俺の母親か。

「ごめん」

 挨拶に対して謝罪を述べた俺は、すぐさまベッドから跳ね起きる。昨夜用意した荷物を乱雑にまとめ、持ち手のついた大きな四角い鞄にあれやこれやを詰め込んだ。衣服と水筒を二つ、食料は大人が用意してくれるとのことだったので、あとは部屋に元々あった空に関する本や資料が主な荷物になる。

「そんなに持って行くの?」
「以前の俺がこんなに集めているとは思わなかった」
「どうせ欲しい資料なんてシャーリーに全部あるよ」
「……一理ある」

 一理、と言いながらも俺は荷物の中からばさばさと今入れたばかりの資料を取り出す。昨夜は謎の高揚感があったせいか、用意の間そんなことにも気が付かなかったようだ。さすがリザミア。

「そんなに」
「ん?」

 さっきの言葉を繰り返すような感じで言い出して、一瞬の間が空いた。俺が手を止めて見やると、リザミアは真顔で言葉の続きを口にする。

「そんなに、楽しみだったの?」

 なんだそんなこと、と俺は再び荷物の整理に取り掛かる。本をどさりと机の上に置いて、リザミアと正面から対峙した。

「昨日、言っただろ」
「なんで威張ってんの?」

 いいから早くして、と言って、腰に手を当てて仁王立ちする俺の脇をすり抜け、部屋を出ようとする。ドアノブに手をかけ、かちゃりと捻ったところでリザミアの動きが止まった。

 言うの忘れてた、と振り向いて、感謝なさい、と冷たい感じで言い放つ。

「先生とみんなに、私たちが数日いなくなること言ってきたし、今日同行させてもらう人たちに挨拶も済ましたから。あんたはもうこのまま向かわないと間に合わないから、そういったことは先に私が全て終わらせています」

 丁寧に言葉を紡ぐリザミアがどこか恐ろしくも感じた。どうやら恩を売ってしまったようだ。いずれどんな返し方を要求されるか、今は見当もつかない。

 とはいえ、手際の良い彼女には素直に感謝を述べた。楽しみだったのかわからないが、空のことだったり記憶のことだったり、シャーリーについて考えを巡らせているとなかなか眠れなくて、いつの間にか眠りに落ちていたと思ったらこれだ。もう昼近いのだろうか。出発の時間が近づいているのかもしれない。

「じゃあ早く準備してね。おばさんご飯作ってくれてるから、それを手伝ってるし」

 そう言い残してリザミアが部屋を出ると、俺は荷物のまとめ作業と着替えを始めた。

 鞄に荷物を全部入れ終わったら、顔を洗ってさっぱりして、軽く食事を済ませていよいよ外へ出る。自分の行動を想像しつつ、資料の仕分けを続ける。

 やはり、自分が思っているより楽しみにしているのかもしれない。何が、と言われても明確に答えることはできないが、知らない街へ行って、俺の記憶が戻るきっかけを探す。リザミアと共に少し遠くの世界へ出かける。それは俺にとって、とても大切な体験になりそうな気がしていた。すごく大事な記憶になりそうだと思えた。

 空を飛ぶような感覚に似ているのかもしれない。昨日、俺に抱えられて空を飛んだリザミアも、今の俺と似たような謎の高揚を感じていたのだろうか。そんなことを思う。

 整理を進めると荷物はすっかり少なくなって、それに伴い俺の心もなんだか落ち着いていった。資料や本を鞄から一つ取り出す度に、昨日の夜から膨らんでいた感情が少しずつ熱を下げていく。俺が中心街シャーリーへ行く意味。空を知るという言葉の真意。リザミアが一緒に行きたいと言った、その想い。

 それらがぐるぐると脳内を駆け巡って、結局今は全部よくわからないと結論が出たぐらいに荷物の整理が終わった。

「遅くなってごめん」
「いいよ、大丈夫」

 それから、リザミアの元へ向かって、顔を洗ってさっぱりして、母親とリザミアが用意してくれた軽い食事を済ませ、リザミアの隣でごちそうさまでした、と呟いた。寝坊したけれど、急いでいるという感じではなかった。元々やらなければならなかったことは先にやってくれていたのだから、それもそうかと妙に納得する。

 すごく、馴染んでいた。記憶をなくした俺よりも、リザミアの方がずっとこの家に溶け込んでいるような気がした。なんだか何かが噛み合わないような、形容し難い違和感が自身の周りを奇妙に纏う。俺は俺を思い出した時、自然になれているのだろうか。今立っているこの場所と状況に、極めて当たり前であるかのように馴染めているのだろうか。

 一抹の思いを飲み込んで、少なくなった手荷物を持つ。いよいよ出発の頃合いだ。

「それじゃあ、行ってきま――」
「待ってください!」

 玄関口で母親に四日間の別れを告げようとした、その時。

 何やら女の子の声が飛んできた。幼さと強さの同居した、可憐な声。振り向くと、小走りで誰か近付いてくる。その手には俺たちと同じような大きめの鞄。誰だと思ったが、やがて顔がはっきり認識できる距離まできて、ふと思い出した。学校内で割と印象的だった女の子。確か、名前は――。

「アイナちゃん」

 俺の心の声が漏れたように、ぴったりのタイミングでリザミアが彼女の名を口にした。髪を後ろで一つにまとめたアイナが、焦りと緊張の面持ちで俺たちの前まで駆け寄ってきた。

 さすがのリザミアも面食らったような様子でどうしたのか尋ねると、アイナは荒い息のまま好奇心を丸出しにした眩しい笑顔で答えた。

「私も……一緒に連れて行ってください!」
「いいよ」

 即答だった。リザミアが間髪入れずそう言うと、今度はアイナが面食らったような顔をして、やがて意味を理解したのかにっこり笑った。

「ありがとうございます!」

 と、リザミアだけでなく俺に対しても律儀にお辞儀するアイナ。お礼は私たちを同行させてくれる大人の人たちにも言ってね。そう告げて、リザミアはアイナが今来たばかりの道を歩き出した。俺は母親に行ってきますと慌ただしく言って、その背中を追う。

 きっと後で訊くつもりなんだろうけれど、なんだか待ちきれなくてリザミアに追いつく前にアイナに尋ねてみた。

「なんで突然行きたいと思ったんだ?」

 行動には理由がある。察するに、リザミアが朝学校のみんなに伝えたことを聞いて、それで自分も行こうと決断したのだろう。俺が言うのもなんだが凄まじい行動力だ。

 俺より年下の女の子が、シャーリーへ行って何をしたいというのだろう。

 アイナは愉快そうににやりと口角を上げ、無邪気な声で答えた。

「後でリザミアさんにも似たようなことを訊かれると思うので、その時に一緒にお答えしますね」

 なんだか見透かされたような気分になった。

 将来的にリザミアにどことなく似てくるのではないだろうかと、そんな思いがよぎる。頭の良い年下の女の子。いやはやある意味、末恐ろしい。

「で」
「はい」
「どうして突然、シャーリーに行きたくなったの?」

 リザミアは先ほどの俺と同じことを同じような調子で尋ねた。アイナは簡潔に一言、素早く答える。

「面白そうだと思ったからです」

 好奇心の強さはその人の才能だと思う。それぐらいの回答ならさっき答えてくれても良かったのに、と思うが口にはしなかった。

「面白そう?」
「はい。初めてなので」

 初めてなのか。本当によく即決できたな、と再三思う。しかし俺も大概似たようなものだと気が付いて、やはりそれも口には出さない。

「何がしたいの?」
「街を見て、人を見て、ぐるぐる歩き回りたいです」

 大真面目にそんなことを言うものだからか、リザミアの頬が少し緩んだ。アイナの目は星が埋め込まれたのではないかと思うほど、輝いて見える。

「わかった。じゃあまずは、大人たちに挨拶しよう」

 リザミアは前方に視線を移し、それを追うように俺とアイナも前を向くと、小さな集団が見えてきた。町の外れ、海とは反対側の広い平地に、大人が数人と、馬車が三つ。

 近付いてこんにちはと挨拶をすると、三人揃ってお辞儀をした。

「よろしくお願いします」
「リザミアちゃん、久しぶりだなぁ」
「ダグさんこそ、しょっちゅうあちこちに行っているって聞いてます。そういえばこの町でしばらく見かけないなって思っていたぐらいでした」

 ダグという、俺と父親の中間ぐらいの年齢の男性は、大柄な体格相応の豪快な笑い声を返した。どうやらリザミアを昔から知っているようだ。

「本当に突然ですみません。さっきさらに一人増えちゃったんですけど、大丈夫ですか……」

 ダグは後ろの大人四人を振り向いて、全体の顔をさっと見るなり大丈夫だ、と力強く答えた。

「いつも親父さんには大変お世話になっているから、ついてくるぐらい全然構わんよ。それにレグみたいな生意気な坊主が増えると厄介だが、賢そうな女の子一人ぐらいなら問題ない」

 ダグは冗談めいた笑みを俺とアイナに向けてきた。

 俺は咄嗟に愛想笑いでごまかしてしまったが、リザミアとさっと目配せして、後で話を合わせようとお互い頷き合った。アイナも空気を読んで黙っていてくれた。ダグさん、彼女は正真正銘賢い女の子ですよ。

「さ、大きい荷物だけ渡しな。向こうの馬車に乗せるから。お前さんら三人は、俺の馬車に乗るといい」

 どうやら馬車の一つは荷物専用らしい。よく遠方へ出かける人は馬乗りに長けている必要があるそうで、リザミアに訊くと手綱を持つ人を交代させることで休憩の時間を短縮し、より効率的に進むことができているそうだ。

 ということで、ダグさんが率いる馬車に俺たち三人が乗り込む。中は向かい合った二人掛けの椅子が並んでいて、リザミアとアイナ、向かいに俺が各々腰を下ろした。

 立ち上がると頭が当たり、足を伸ばして座ることは難しいが、窮屈さは感じない。四人が座るためだけの造りなのだろうが、馬二頭で引いていくのならこの箱みたいな空間は上々の場所ではないかと思った。

 これで夜まで座っているだけなら、移動はそれほど疲れないのではないだろうか。

「アイナちゃん、休憩したかったら私に言ってね。ダグさんにお願いしてみるから」
「はい。でも、座っているだけなのでずっと休憩みたいなものじゃないですか?」

 アイナも俺と同じことを考えていたようだ。

 リザミアが、私も初めて乗った時はそう思った、と経験者ぶって答える。まあ、経験者なのだが。

「それが案外大変なのよ、その座っているだけが」
「でも外見によらずこの馬車、思いの外快適だけどな」

 俺が口を挟むと、リザミアはほんのわずかに口の端を上げた。馬鹿だね、と笑う寸前みたいな顔。

「あなたは一度シャーリーに行ったことがある。その時にこういう馬車、乗ってるわ」
「そうなのか」

 ぐらりと身体が揺れた。馬車が動き出したようだ。小さな窓の外で景色が流れ出す。
「久しぶりだから、記憶が戻るかもね」
「馬車の揺れで思い出すぐらいならとっくに記憶戻ってるよ」

 アイナが笑っていいのかどうかわからないような表情をしていたので、俺は安心させるように言った。きっとこの子は頭が良いから、いろいろ気が付いて回さなくてもいい気を回しすぎてしまうだろう。

「あんまり俺の記憶のことは気にしすぎるなよ。別に何言われても傷ついたりしないし、アイナがちゃんと考えてくれていることはもうわかっているから」
「……はい」

 何だか歯切れの悪い返事だな。まだ何か言いたげな様子だったので、黙って先を促す。気になることがあれば先に言ってくれる方が、こちらとしても楽だ。

 アイナは俺とリザミアを交互に見て、とても言いにくそうに言葉を絞り出した。

「あの……レグさんはもちろん心配はしていますけれど、レグさん優しいから不要な気兼ねは特にありません……ただ、その」

 少し俯き、膝の上に行儀良く置いた自分の両手に向かって、アイナはぽつりと言う。

「私……お邪魔、でしたでしょうか」

 その言葉の意味を把握するまでに、馬鹿みたいに時間がかかった。がとごと、と不規則な振動と音が、俺たちの不自然な沈黙の中で一際存在感を放つ。それがどういうことか呼吸三つ分ぐらいかけてようやく理解して、おい何を言い出すんだ、と口を開きかけたら言葉が空回って何も言えなかった。
やっぱりそうだ。アイナ、君はすでに余計な気を回しすぎている。

「アイナちゃんから行きたいって言ってきたわけだから、そういう余計なことは考えなくていいのよ」

 珍しく、アイナに向かってリザミアの語気が強かった。特に、余計な、というところが。

「そ、そうそう。自分の思いに正直に行動すればいいさ」

 リザミアより遥かに遅れて我に返った俺が便乗すると、アイナはその場で立ち上がらんばかりの勢いで言葉を返してきた。

「自分の思いに正直になったら私、今すぐここから飛び降りてしまいたくなります!」
「落ち着け!」
「落ち着いて」

 声が重なって、アイナがなぜか満足そうに薄く笑った。

「息ぴったり」

 くすくすと笑う彼女は、発言とは裏腹に、年相応に可愛らしく見えた。この子はしっかりしているが、俺より年上めいた言動もあれば年下のような無邪気さも併せ持っている。

 きっと大人と子どもの間を行ったり来たりしているのだろう。心も、言葉も、ふとした仕草も。

 冗談ですよ。そう言いたげな感じで静かに笑うアイナに、俺たちはすっかり振り回されてしまったようにも感じて、まったくこの子は本当に年下なのか、とつい疑ってしまう。成長の道を少し間違えれば、手のひらで人を転がすのに優れた人物にもなり得るのではないだろうか。それはさすがに考えすぎか。

 がたん、と車輪が石か何かに乗り上げ、再びぐらいと身体が揺らぐ。

「ところでリザミアさんたちは、何をしに行くんですか?」
「レグに聞いて」
「レグさんに?」

 アイナの視線が俺へと移る。好奇心の輝くその目は、俺には少し眩しすぎる。

「そうだな……」

 曖昧な笑みを浮かべながら暫し考えてみたが、適切な言葉をひねり出すことはできなかった。

 仕方なく、答えになっていない答えを口にする。

「空を、知ろうと思って」
「空を、ですか」
「そうすれば記憶も戻るかなって」

 一度しか行ったことのないらしい場所なのに、と我ながら不思議に思う。街へ行って空を勉強するだけで記憶を取り戻せるなんて、正直あまり真剣に思っちゃいない。

 それでも、行きたいと思って、決断して、こうして行動にまで移しているのはなぜだろう。

 アイナは納得できたのかわからない曖昧な顔で頷いていた。きっと理解できないだろうな、と他人事みたいに思う。俺自身にだってよくわからないんだから。

 ちらりと窓の外を見やると、どうやら森の中に入ったようだった。緑がゆるやかに視界を流れていく。

 遠くに行っているな、という感覚が芽生えてきた。遠出だ、と昨夜の高揚感が復活してきたようだ。空を飛んで高く高く上昇するのとは違って、景色が移ろい、地面が近くて、前に進んでいる実感を強く感じつつ、俺を乗せる小さな箱は海から離れていく。

 ふと、何かに気が付いたように視線を戻すと、リザミアが俺をじっと見ていた。見つめる、というより静かに見据える、といった感じにじっと見ていた。そんなリザミアを、アイナがじっと見つめている。何か言われるのかと思ったが、リザミアは何も言わなかったし、アイナも黙ったままだった。

 なんだこいつらは、と思って俺は再び視線を窓の外へ投げる。

 がたたん、と馬車の振動が俺たち三人の身体を不規則に揺らす。日は高く上っていて、まるで旅立ちを歓迎してくれているかのような陽気だった。木々の間から覗く空は、はっとするほど青かった。空を全力で飛ぶのよりは少し速いぐらいのスピードで、馬車は緑の世界を切り裂くように進んでいく。

 しばらくして何気なくリザミアを見てみると、目を閉じてうとうとしていた。俺が空を連れ回したせいで、昨夜あまり眠れなかったのだろうか。朝の用事も全て任せてしまって、なんだか申し訳なく思う。そんなまどろみの中にいるリザミアを、アイナがちらちらと盗み見るように窺っていた。

 がたん、と窪みに車輪が入ったのか、一瞬身体が沈む。それでもリザミアは目を開けることはなく、揺れに身体を預けている。

 静謐な時間だった。沈黙が心地良かった。過ぎ行く大地を横目に、がたがたと音と揺れを立てて進む。

 太陽が眩しかった。晴れてよかった、と門出を祝うかのように思った。

 まるでそんな俺の心の声に同意するように、目を閉じているリザミアの首が、かくりと一瞬傾いた。

第10話
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