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純粋芸術の相対性理論(Poor, But Pure. アート値を算出する方程式)


※このテキストは最終的にはかなりの長文になります。2024年12月まで、不定期に加筆修正され続けます。学術論文でも美術批評でもないので、専門的な定義よりも「方程式」の発見を最優先としています。厳密には美術とすべき表記も、マンガ産業と対比させるべく、ざっくり「芸術」と呼称。ご意見、間違いのご指摘、訂正の要請など、コメント欄にいただければありがたいです(西島拝)


【Prologue】純粋な芸術=a

自分のことを純粋な芸術家と思ったことはありません。職能しては漫画家だと考えています。マンガは、出版を軸としたエンターテインメント産業に属し、しかし映画や演劇、アニメやアニメやゲームと違ってほぼ個人の技や発想によって生み出されます(例外もあります)。そのため総合的で独特な職能が必要とされ、その反面その総合的技術(絵柄、コマ割り、ストーリー構成他の全部盛り)その全てがマンガ以外の表現に必要とされることもほとんどありません。

過去、何度も現代アートの展示への参加経験はあります。でも、それだけでは芸術家の証明にはなりません。漫画家がそれに参加する場合、絵画を描いても、立体を作っても、映像作品を作っても、「漫画家としての総合的な能力を現代アートの形にして切り出している」と、多くの場合感じます。一方で、自身の活動を振り返ってみると、産業(ビジネス)としてのマンガから逸脱した部分がかなり多いことも確かです。純粋な芸術家なのか怪しいことと同時に、純粋な漫画家かどうかも疑わしいのです。

いずれにせよ、単行本がある、連載をしているなど、漫画家の証明がわかりやすいことと反対に、芸術家の証明はとてもあいまいです。ギャラリーに所属していることは、担当編集者が存在する程度のことで、実は純粋な芸術の証明には全くなりません。展示をしても、それが実質ファン向けの百貨店での物販に過ぎないのなら、純粋な芸術性からは遠ざかります。

「純粋な芸術」「純粋な芸術性」という言葉は厳密には定義されないまま本稿に頻発する、本稿における最も重要な概念です。世にあるすべての表現、現象、作品から「純粋な芸術性」を導き出す方程式があれば、「何がアートなのか?」という議論も不要です。式に当てはめれば、それが純粋な芸術かそうでないかがわかるからです。シンプルな式を導き出し、検証することが本稿の目的です。現時点ではその定義を以下のように見立てています。

・芸術だけを目的とし、それ以外には役に立たない
・芸術以外に従わない
・資格や免許が不要で、誰にでも行うことができる

本稿をまとめるに至ったきっかけは、2024年12月から始まる広島市現代美術館の展示「コレクション展2024-III ハイライト+リレーションズ」の依頼です。ギャラリーでなく公立の現代アートの美術館。美術館で展示を行うことそれ自体が、芸術家の証明になりそうな気もしますが、漫画家が漫画家のまま美術館の展示に関わるケースは過去にいくつもあるので、検証が必要です。


もう一つのきっかけは、上記の依頼とほぼ同時期、別の美術館に寄贈した作品の資産価値が算出され文書化されたことです。美術館への収蔵は「パブリックコレクション」であり、未来に残す価値のある美術作品であると法的に認定されたことを意味します。そこれもまた芸術の証明の大きな根拠になりそうです。しかし例外もあるため、検証が必要です(その後展開あり、後述します)。

アインシュタインの相対性理論に基づく質量とエネルギーの等価性を示す方程式「e=mc2」に倣って、純粋な芸術を示す単位はアートの「a 」としましょう。今の所「m」が何を指すのか、「c」が何を指すかは不明です。しかし、仮説と検証を重ねて「純粋な芸術」を証明するシンプルな方程式を導き出したいと考えています。

果たして「純粋な芸術=a 」は導き出されるのか? そして誰を裁くのか?

【Chapter1-1】純粋な芸術a=創作の総量−クライアントワーク

「させていただきました」という言葉があります。なんとなく謙虚な言葉に聞こえますが、クライアントワーク(依頼された仕事)を証明する言葉です。自分はクライアント(依頼主)の忠実な実行者であり、クライアントのビジネスを助け、見事にその役割を果たした、という宣言です。社会や産業に対する有能さの証明になりますが、純粋な芸術からは遠ざかる印象があります。純粋な芸術ならば、単に「作った」「できた」というシンプルな言葉で十分です。

すべてのマンガは原則として出版社からのクライアントワークです。芸術的なマンガはあっても、あくまでそれは出版産業の内側、個々の表現の中に稀に宿るものであり、マンガは純粋な芸術であることを目的としていません。商業マンガよりも、自費出版、インディーズの方が実は芸術に近いでしょう。世に出ないボツになったアイデア、誰にも見せないスケッチ(ネーム)にこそ、実は純粋な芸術が宿っているのかもしれません。ただそこに完成された美を見出すことは難しく、鑑賞者も存在しません。出版社は完成原稿だけを求めます。未完成な状態に鑑賞者がいるとすれば、その作品が産業として成功した場合だけです(ジブリ美術館など)。

クライアントワークの中にも芸術性は宿ります。しかしそれは純粋な芸術とは言えません。作品の目的が「芸術であること」ではないからです。目的を設定するのは、どこまでいってもクライアントであり、創作者は最終決定権を持ちません。マンガ連載の打ち切りや、商業映画のファイナルカット権をイメージすればわかりやすいでしょう。クライアントワークが利益を追求するのとは逆に、純粋な芸術はビジネスにしばられず、ただそれが芸術であることを追求します。

長くクライアントに奉仕した優秀なデザイナーが、晩年ギャラリーで自己表現的な個展を行うのは、誰かに捧げた人生に対する一抹の後悔のせいかもしれません。逆に誰にも知られず他界し、作者の死後初めて発見された作品群は、人生の中で評価や対価を求めない純粋な芸術行為といえるでしょう。アルタミラ洞窟の壁画は、美術史以前の表現であり、クライアントにも神にも捧げられず、意図や媚びが全くありません。100パーセント純粋な芸術です。

ここまで考えると、教育や家事、育児など、実生活にそこ純粋な芸術性は宿る気がしてきます。しかし、それは純粋な芸術と違い、具体的に役に立つものです。つまり芸術のための芸術ではありません。公務員をやめてインディペンデントなラーメン店を始める行動は、純粋な芸術の追求にも思えます。しかし、飲食業には「空腹を満たす」役割があるため、やはり純粋な芸術にはならないのです。純粋な芸術は原則として、誰の役にも何の役にも立ちません。ただ、芸術であることだけを目指します。

シンプルに考えましょう。ある創作者が一生のうちに生み出す作品の総量から、クライアントワークを取り除けば、純粋な芸術だけが残るはずです。

純粋な芸術(a)=創作の総量(Works)−依頼仕事(Client work)

a=W−Cw

例1)ヒャダイン(前山田健一)の場合
優れたクライアントワーク(提供曲)が膨大にあり、その反面本人名義のアルバムは一枚。相対的に、純粋な芸術の量は少ないということになります。しかし音楽家としての仕事の素晴らしさ、独自性、革新性は疑いようがありません。tofubeatsもこれに似ています。しかし清竜人になると、自分自身がクライアントと同化すること(清竜人25)で主体となり、純粋な芸術性が大きく回復されます。

例2)ヘンリー・ダーガーの場合
死後に膨大な作品が発見されたケースで、クライアントワークが一つも存在しません。依頼がゼロなので、残された作品の全てが純粋な芸術になります。

例3)北野武『その男、凶暴につき』の場合
前任監督がプロジェクトを降りたことにより、北野武の初監督作となった作品。アクシデントあるいはハプニング的に監督を担当した経緯により、監督業のクライアントワーク性は減退します。俳優としてのキャスティングを差し引いてもなお、純粋な芸術性は強く残ります。アクシデントが純粋な芸術性を高める理由については後述します。

例4)高校野球の場合
高校球児は給料をもらっていないため、運営が学校法人であってもクライアントワークになりません。アマチュアスポーツは、一見100パーセント純粋な芸術行為に見えます。しかし目的は「勝利」なので、芸術だけを目的とした純粋な芸術にはなりません。スポーツや戦争、対戦ゲームは、勝利を目的とするため純粋な芸術にはなりにくく、しかしプレイの中に芸術性が発生する余地はあります。


【Chapter1-2】純粋な芸術の割合a%=純粋な芸術÷創作の総量

方程式1「a=W−Cw(創作の総量−クライアントワーク)」を用いて「純粋な芸術」の量を算出できれば、おのずと、純粋な芸術の割合「a%」を求めることができます。純粋な芸術を、創作の送料量で割ればいいのです。その人が何パーセント純粋な芸術家であるか、その割合が判明します。

クライアントワークを手がけながら、同時に純粋な芸術活動に勤しむ場合は、純粋な芸術の割合が50パーセントになるでしょう。大学講師をしながら週一で創作に勤しむ芸術家は、10パーセントくらいでしょうか? 依頼仕事が多ければ多いほどパーセンテージは下がり、貧しいほどパーセンテージは上がります。

純粋な芸術の割合(a%)=純粋な芸術(a)÷創作の総量(Works)

方程式1-2 a%=a÷W

例1)クリスチャン・ラッセンの場合
仮にラッセンの純粋な芸術(一点の絵画を描くこと)の総量を1、販売を目的とした複製物の総量を100としましょう。「a%=a÷W」の方程式に当てはめると、1÷100=0.01。1パーセントの純粋な芸術性が算出されます。1パーセントとはいえ芸術家であることは事実です。シルクスクリーンなど販売物の点数を増やせば増やすほど、売れば売るほど、純粋な芸術性の割合はさらに収縮していきます。

例2)尾田栄一郎『ONE PEACE』の場合
『ONE PEACE』はアニメやゲームを含めると、方程式の分母となる創作の総量が巨大すぎるため、アートプロジェクトを立ち上げても、決して純粋な芸術にはなりません。それは、表現の質ではなく単に量の問題です。純粋な芸術の総量が1として、それ以外の利益は1万倍くらいありそうです。ポップカチャーの理想でありマンガビジネスの最大値ですが、そのため作者もハンドリングできない領域が常に発生します。芸能人が行う美術展やブロックバスター展も同様です。有名であることは、純粋な芸術に無関係であるばかりか、それを阻害することもあります。


【Chapter 2-1】純粋な芸術a=発生した金額Sales−クライアント予算Budget

広島市現代美術館「ハイライト+リレーションズ」は、膨大な美術館の収蔵作品とゲストアーティストとして現代の作家の個展を並べることで、意味を持たせる企画です。

年間の展示スケジュールを見ると、同時期に美術館で開催されているのはアイドルPerfumeの巡回衣装展「Perfume COSTUME MUSEUM」。純粋な芸術の定義は横に置き、思いついたのは「秋葉原ネオグラフィティ スーパーディアガール」の実物展示でした。メジャー事務所に所属し、時にアート的とも評価されるPerfumeに対し「マイナスからのスタート舐めんな」の精神で2011年当時の地下アイドルの心意気をぶつける試み。反抗的ですが、しかし衣装展の観客にもその文脈もきっと伝わるはずと考えました。

「面白いアイデアだと思いますが、まずは作品を見たい」という担当学芸員の申し出により、5月某日秋葉原ディアステージのシャッター前に関係者が集合。結果的には、シャッターを外すことがとても困難であること、仮に移送できた場合も展示予算をほぼ使い切ってしまうことが判明し、この作品の実物展示は却下となりました。冷静に考えると提案の時点で「コレクション+リレーションズ」の意味よりも「対Perfume」の意識が先行しています。

ともあれ、久しぶりに再会した完成から10数年も経つ「秋葉原ネオグラフィティ」は、純粋な芸術にも、厳密な意味でのグラフィティにも属さない、不思議な作品だなと改めて感じました。これを【Chapter1-1】の方程式で考えてみましょう。

純粋な芸術(a)=創作の総量(Works)−依頼仕事(Client work)

方程式1-1  a=W−Cw

店舗「ディアステージ」からの依頼である以上、「秋葉原ネオグラフィティ」は明らかにクライアントワークです。許可を得ているため、グラフィティアートが本来持つ非合法さ(イリーガル)も失われています。屋外(ストリート)でそれを行なっているだけで、イラストレーションの請負いと大差はありません。

しかし、そのグラフィティ制作費、報酬を支払うのはディアステージではなく、それを支え応援するファンでした。ファンたちはシャッターに描かれる「応援メッセージ」を一口いくらかで購入し(文字の大きさ、配置の優先順位が金額により変動)、グラフィティが完成した後に、そのメッセージは完成した絵を覆い隠すように作家の手によって描かれました。クライアント予算は0円、グラフィティという行為をファンが信用してくれて初めて報酬が得られるという、クライアントワークにしては珍しい関係性が発生しました。

これに従って、予算面から純粋な芸術性を算出する方程式が以下です。

純粋な芸術(a)=発生した金額(Sales)− クライアント予算(Client budget)
方程式2-1 a=S-Cb

作品自体の売り上げ(あるいは購入額)からクライアント予算を取り除くことで、純粋な芸術性を計測することができます。今回は、クライアントの予算は0円なので、ファンから得られた寄付がすべて芸術の価値となりました。大規模予算をかけた式典や大作映画が、必ずしも素晴らしいものばかりではないように、多すぎる予算は時に純粋な芸術性を減退させます。

反対に、少ない予算でそれ以上の感動が得られる場合、純粋な芸術性や感動は増大します。

例1)映画『マッドマックス サンダードーム』の場合
低予算映画として始まり、2作目で十倍の予算を獲得し大ヒット、さらなる予算をかけて制作された3作目は、しかし過去作並みの評価は得ていません。方程式「a=Sales − Client Budget」に当てはめて考えると、かけた予算がセールスを下回り、純粋な芸術性がマイナス値になったと算出されます。反対に低予算映画に輝きを感じるのは、クライアント予算(Cb)が少ないのにそれを上回る感動がそこあるからです。

例2)「Perfume COSTUME MUSEUM」の場合
Perfumeにはライゾマティクス、MIKIKOら数多くの創作者が関わり、全体的には最先端のメディアアートのように見えます。しかしPerfumeは芸能事務所に所属するアイドルタレントなので、すべての活動は芸能の範囲に収まり、巨大なビジネスを目的としています。公演やプロダクトは総合芸術として素晴らしく、ゆえに衣装やダンス、映像や音楽を個別の芸術表現として切り出すことは可能です。それでもなお、大手芸能事務所から予算が出ている以上は、それを差っ引いて計算する必要があります。

(西島筆によるMIKIKO先生?)

例3)けものフレンズの場合
予算が明らかに少なそうに見えるのに、大きな感動を得られた場合、衝撃とともにその作品の純粋な芸術性は増大します。鑑賞者は、意識下で予算規模(バジェット)をイメージし損得を考えています。B級グルメや、インディーバンド、弱小球団の逆転劇も同様です。『けものフレンズ』における監督への称賛と、権利者・原作者(ステークスホルダー)へのディスは、プロ野球で例えるとルーキー選手を応援しつつ、オーナー企業を憎む心理に似ています。

例4)東京都庁プロジェクションマッピング
東京都庁のプロジェクションマッピングが、都の膨大な予算ではなく、インディーゲーム作家一人の無償の仕事であったなら、方程式上、賞賛されるはずです。


【Chapter 2-2】純粋な芸術(a)=クライアントワーク(Cw)×逆行(Re)の二乗

岡本太郎「太陽の塔」のように、クライアントワークであっても、その依頼をずらす、反抗する、ひっくり返す、つまり「逆行」することで純粋な芸術性は増大します。その体制に反対することは、コントラストを生み、熱狂的に支持されがちです。逆にクライアントに対して従順な表現はインパクトが薄く忘れられがち。太陽の塔に対して丹下健三の大屋根の印象は(建築的価値は横に置きつつも)薄くなります。

「絵なのに写真みたい」「日常食なのにメガ盛り」「デザイナーズブランドなのにホームレス風」「弱小チームが強豪を負かす」「出さない手紙」など、この現象は純粋な芸術以外の場所でも、その現象は多く見られます。クライアントへ逆行を方程式にしてみます。

純粋な芸術のインパクト(a)=クライアントワーク(Client work)× 逆行(Reverse)の二乗

方程式2-2 a=Cw x Re2

クライアントや体制への反抗は安定したビジネスには結びつきませんが、強いインパクトを残します。純粋な芸術とは異なりますが、起こるはずのない事故、自然災害、暴力などが強く心に残るのも同じ理由です。パンク、ロック、ヒップホップなど、音楽の場合「反逆者」「反社会的」なムードがその音楽価値を増大させるのもほぼ同じ現象ですが、それを宣伝や興行として利用しビジネスの上に乗せるやり方もあるため検証が必要です。

(余談ですが、この逆行の心理は賭け事(ギャンブル)などのゲーム性にも近い部分があります。大穴(ダークホース)として期待されていない存在が、事前予想に反して勝つこと。ギャンブルは純粋な芸術ではありませんが、映画興行ランキングや今期の覇権アニメ予想、スタートアップ企業の資金調達などに人々が熱狂する理由に、逆行、そしてギャンブル性があります。これについては稿を改めます)

クライアントワークの中に逆行を持ち込むことができれば、創作物の純粋な芸術としての度合いは増します。わかりやすく言えば、「依頼を引き受けた上で、求められていないことをする」ということです。

膨大な予算を得て求められるままクライアントワークを実行したところで、それはクライアントに対して有能なだけであって、純粋な芸術のインパクトはゼロです。もちろん、純粋な芸術の価値はインパクトだけに宿るものではありません。

例1)国立西洋美術館の場合
和やかなはずの展覧会内覧会において、美術館のコレクションに関連する企業の紛争への加担を糾弾する抗議行動は、強いインパクトを残しました。西洋美術館で現代アートを展示することの意味、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? —— 国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」という展覧会名へのアンサーにもなっているため、美術館側も困り顔をしながら内心嬉しかったかもしれません。

例2)岡本太郎「太陽の塔」の場合
大阪万博で行われること、そのすべては国家規模のクライアントワークですが、「太陽の塔」は万博のテーマ「人類の進歩と調和」に対する、合法的なアンチテーゼです。万博に異論があるならボイコットすればいいわけですが、そうではなく、クライアントワークを受け入れつつ堂々と反対するという純粋な芸術の実践です。「座ることを拒否する椅子」も椅子の本分から見ると、逆行そのものです。

例3)お金を燃やす場合
『ダークナイト』のジョーカー、あるいはハウス・テクノユニット「KLF」のパフォーマンス。誰もが等しく欲しがるはずの紙幣を燃やす行為は、強い逆行のインパクトを残します。しかしこの逆境は資本主義で満たされた世界での反逆性なので、お金の存在しない環境では純粋な芸術とは思われません。カンボジアのポルポト政権が首都プノンペンを奪取し、最初に行ったのは銀行の破壊でした。しかしこの行為は共産主義国家の達成が目標なので、純粋な芸術とは無関係です。

例4)向井秀徳『三栖一明』の場合
音楽家の自伝のようでいて、本のタイトルは活動に並走してきたデザイナーの名前。自伝を求められ、求められたことを書名からして行わないことで、純粋な芸術性が増大しています。無茶振りの誠実な受け手というデザイナーの立場もクリアになります。

例5)カニエ・ウエストの場合
学歴がいっそ邪魔になるヒップホップゲームの中で「大学中退」というタイトルをつける、急に神を名乗る、「ye」に改名する、発言によりスポンサーから孤立するなど、カニエ・ウエストほど「逆行」を実行し続ける音楽家は現代にいません。ほかのラッパーがカニエほどには芸術的に見えないのは、本人のアート趣味や芸術家とのコラボレーションの結果というより、たびたび繰り返される逆行(逆張り)のせいです。お騒がせ、炎上、そのすべてが、倫理や正しさはともかく、方程式上純粋な芸術性を大きく強化します。


【Chapter 3-1】a=創作のための担当パート(Works)÷作家の人数(Staff)

広島市現代美術館「コレクション展2024-III ハイライト+リレーションズ」にいたる道筋を振り返ってみます。そもそものきっかけは、2020年12月〜2023年3月まで美術館が長期改装工事に入った間、美術館活動を伝える広報として公式休館キャラクター「無題さん」を作ったことが始まります。

序章で述べた通り、原則として作家一人によって制作されるマンガは複合的な表現であり、キャラクターデザイン、性格設定、物語、演出など、様々な要素が一気に表出するアートフォームです。それは常に売上げ(ビジネス)に紐づけられるため、マンガは純粋な芸術ではありません。

【1】長期休館中の美術館を外部にPRするキャラクターをデザインすること。

【2】美術館収蔵作品(コレクション)と作家を紹介するマンガの執筆すること。

依頼内容はこの二つでしたが、それを実行するにあたり「無題さんという名前」「無際さんは無口」「男でも女でもなく、でもそれを自ら言わない」「現代アートの声が聞こえる特殊能力」「建築家・黒川紀章の建築物が自家用車」など、絵画やデザインに留まらない要素が自動的に発生します。これは、単にデザインとしてのキャラクターの図像だけでなく、最終納品形態がマンガであったことに起因します。マンガに着地させるために、コンセプトや物語、キャラクターの口癖や傾向が自動的に生成されるのです。これを、キャラクター設計と呼んでいます。

この半自動的な設計作業は、純粋な芸術の基準では測りにくいものです。絵画でも、彫刻でも、デザインでも、テキストでもない総合的で謎めいた領域です。キャラ設定、テーマ、見立て、コンセプト。それを設計するためだけに、広告代理店は膨大なスタッフを動かし巨額の費用を使います。美術館においては学芸員がそれを担当する場合もあります。マンガというきわめて奇妙な表現は、専門家が行うべき分業を漫画化個人作業の中に呼び込んでしまうのです。複数人分の仕事を一人でまとめて手がけてるイメージです。

「無題さん」を方程式化すると

a=創作のための担当パートの数(Part)÷作家の人数(Staff)

方程式3-1 a=P÷St

「無題さん」の場合、a=複数の役職5(企画、イラスト、マンガ、ストーリー、演出)÷ 一人」になるので、5÷1=5。純粋な芸術性は強化され5ポイントとなります。

しかし、「無題さん」のマンガ自体依頼されたものであるため、仕事全体としては100%クライアントワークになります。クライアントワークの中に収まる純粋な芸術性が「5ポイント」だとしても、しかしプロジェクト全体としてはあくまで広報です。

例1)宮崎駿の場合
宮崎駿作品には多くのアニメーションに見られる「キャラクターデザイン」「メカデザイン」などのクレジットが見当たりません。「脚本」すら完璧に仕上がったものは事前には存在せず、アニメーションを制作しながら「絵コンテ」の状態で決定するそうです。作画作業にも制限なく介入します。専門のセクションを敷いた分業制に頼らず、個人で多くの領域を横断的にまとめ上げることで、分業化が整った一般的なアニメ作品群にはない、濃厚な純粋な芸術性が発生しています。

a=10(キャラデザイン、メカデザイン、脚本、コンテ、原画、作画監督、作詞、ロゴデザイン他)÷宮崎駿1=10ポイント

例2)ベッドルーム・テクノの場合
音楽的な素養、楽器演奏能力、予算は必要とされず、スタジオも演奏家もプロデューサーも不要。シンセサイザーとシーケンサー、PCを用いて寝室で音源制作、マスタリングまでが完結する90年代の音楽制作のスタイル。横断的な個人作業により、手続きや修練を無効化し、純粋な芸術性が宿ります。エイフェックス・ツインや彼のレーベルREPHLEXはその代表です。

例3)SSWの場合
シンガー・ソングライターは歌い手と作詞・作曲者の合体です。歌、作詞、作曲を1とすると、SSWの場合a=3÷1で3ポイント。これが演歌歌手のように歌唱のみを担当する場合、a=1÷1=1ポイントになります。歌手から見た場合、SSWはその3倍の純粋な芸術性が発生する計算になります。劇伴も自分で作る映画監督ジョン・カーペンター、トラックを制作しつつラップもするラッパーPUNPEEらの強みも、同様の理由です。演歌歌手・八代亜紀が趣味として絵画に勤しんだのは、歌手業が研ぎ澄まされた「芸」ではあっても純粋な芸術とは違うという自覚からくるのかも知れません。

例4)伊丹十三の場合
伊丹十三は俳優で文筆家で、デザイナーで、CM制作者で、映画監督です。活動は多岐にわたりますが、その目的や作品のジャンルはバラバラ。不思議なことに、結果としては純粋な芸術性が薄まって感じられます。多様な才能が劇場長編アニメーションという一つの要素に集約される宮崎駿とは、だいぶ違います。一つの作品に対して、複数のパートを一人が担当することは、純粋な芸術性を高めますが、目的の異なる複数の仕事(複数の作品)を並行して引き受けることは、器用さや有能さが証明されるだけで、純粋な芸術性から遠いてしまうのです。伊丹十三が知的で創作意欲旺盛で優れたクリエイターであることは間違いありませんが、純粋な芸術家としては捉えにくくなっています。

例5)資本系ラーメンの場合
均一なスープを工場で製造、スタッフはすべてアルバイト、内装やロゴのデザインはテンプレ、すべてが分業化しマニュアルに基づいてフランチャイズ展開するセントラルキッチン制度は、全国の支店へ安定した味届けるサービスとしての合理性はありますが、ラーメンを作るための工程がバラバラにされていることで、雑味としての純粋な芸術性が入り込む余地を残しません。スープ作り、麺製造、麺茹で、盛り付けなど、工程の全てを一人で担当した方が、非効率的ですがその店ならではの独自の味が出ます。


【Chapter 3-2】aw(アートワーカー)=0

【Chapter 3-1】で述べた方程式a=P÷Stは、要は少ない人数で多くの工程を手がけた方が純粋な芸術性が増大し、多くのスタッフが動員されそれぞれが分断されたパートを受け持ち全体像が見えなくなると、純粋な芸術性は減退するという理屈でした。

少数精鋭で作るインディー映画や、インディーゲームと、大企業のメジャー映画、メジャーのゲームにも同様のことが言えます。基本的に関わる人数が多いことは、プロジェクトが産業であることを証明し、純粋な芸術を減退させます。

一方で、アンディー・ウォーホールの「Factory」や、それをお手本にした村上隆「kaikaikiki」ように、ビジネスと純粋な芸術性を両立させるやり方もあります。株主や出資者のためではなく、純粋な芸術のためだけに会社を経営すれば、会社自体が純粋な芸術に奉仕することになります。その意味で、売り抜けて悠々自適に暮らすことを目的としたスタートアップ企業の起業家と、彼らは全く異なります。ウォーホールや村上隆がかしずくことがあるならば、それは純粋な芸術のためだけです。目的はビジネスではありません。

ただ、純粋な芸術を目指す工場で働く人間は、どれほど優れた技術を持っていようと「純粋な芸術家」にはなりません。ウォーホールはFactoryのスタッフを「Art Worker」と呼びました。つまり、労働者です。労働者は給与を保証されている反面、一切の権利を持つことはできません。それが欲しければ独立するしかないのです。よって式は以下になります。

aw(アートワーカー)=0(無)
方程式3-2 aw=0

アートワーカーの純粋な芸術性はゼロなので、雇用主が純粋な芸術家であっても労働者という関係性である以上、絶対に芸術家に離れません。純粋な芸術を成すのは、技術ではなく単に関係性です。

マンガや音楽出版レーベルなどの「出版」の世界は、著者として制作者を外部に置くことで、純粋な芸術でもなく、かといって雇用や労働でもない、中間的な世界と言えます。外部のクリエイターは労働者ほど生活を保障されず、著作権を持てますが、しかし完全に独立したなイニシアティブを持つわけでもありません。

例1)芸術家による会社運営業の場合
独立した芸術家が、創作とともに会社経営を行うことがあります。求道的でピュアな芸術家像を基準に考えると、作家がビジネスに転んだように見えますし、創作と異なる頭脳を使うため大変そうです。しかし、最終目標が純粋が純粋な芸術である限り場合、会社経営もまた創作の一部となり、純粋な芸術は損なわれません。むしろ強化されます。アンディー・ウォーホールのファクトリー、村上隆のカイカイキキ、施井泰平のStartbahnなどががこれに当たります。比べられる規模ではないですが、西島の場合はレーベル運営&電子出版業がそれに近いです。

例2)チームラボの場合
美術メディアで紹介されることもあるため誤解を生みやすいですが、チームラボの純粋な芸術性は低いです。チームを名乗ることで、芸術家の主体や思想は無効化され、ビジネスに従って最適化されたクライアントワークを実行する自動装置です。wikipediaには「デジタルコンテンツ制作会社」とあります。イベントを盛り上げる、お祭りを発生させるという意味では万人の役に立っていますが、そもそも純粋な芸術は役に立たなくてよいものです。万人の役に立つことを証明する分だけ純粋な芸術性は減退します。

チームラボと同列に並べられる存在にライゾマティクスがあります。真鍋大度の際立った芸術性と、チームラボにも似た下請けチームとしてのビジネス性が乖離した結果、会社は分裂しています。つまりライゾマティクスは純粋な芸術性とクライアントワークとの矛盾に気づき、それは半々であると結論付けたのだと想像できます。

例3)千葉雄喜「チーム友達」の場合
チームと言いながら、それは方には縛られない自由自在な集合体です。100パーセント純粋な芸術表現です。


【Chapter 4-1】a=作品(Work)÷エディション数(Ed)

流行作家は、大量の作品を世に放ちます。しかし、原則として純粋な芸術の価値は作品数が少なければ少ないほど高まります。点数が多くあればあるほど、流通すればするほど、それはビジネスをしていることの証明となり、ビジネスの先には必ずクライアントやマーケットが存在するからです。これは【Chapter 1-1】【1-2】で触れたクリスチャン・ラッセンや、尾田栄一郎の問題に似ています。

「方程式1-1  a=W−Cw」をイメージしながら作家の一生を考えると、その一生が短かければ短いほど、純粋な芸術性は高まります。なぜなら、生涯のうちに生み出せる作品の量が少なくなるからです。長く安定して作品を生み出すことは経済的安定を証明するので、結果的に純粋な芸術性を減退させます。「アルタミラ洞窟の壁画」が、世界各地あらゆる場所で量産され発見されていたら、その純粋な芸術的価値は消失します。

作者の急逝は悲しいことですが、作品数を絞りある種の「伝説」として純粋な芸術性を高める結果になります。俗にいう「死んだらいい人」は人柄の過大評価や思い出補正ではなく、純粋な芸術の問題かもしれません。

量産と一点ものの中間にある、数を限定するエディションは、芸術特有のルールです。エディションとして作品数を絞ることで、希少価値を高め、結果コレクターは喜びます。NFTによるエディションの証明も、購入者の履歴証明による付加価値を差っ引いても、アイデアの根幹としてはデジタル・アートに対するブロックチェーン技術を使ったエディション化です。しかし、個数を絞ることで芸術性の価値を薄めつつ広げようという行為は、販売促進やコレクターへのサービスになったとしても、純粋な芸術からは遠のきます。数を絞った複製行為の目的は適度なビジネス化であり、純粋な芸術のためではないからです。

a(オリジナル作品の価値)=複製を含む作品全体の価値(Works)÷エディション数(Ed)

方程式4-2 a=W÷Ed

例1)大竹伸朗のスクラップブックの場合
作家自身のためだけに作られたスクラップブックは、製本の常識も、印刷という複製の欲求も無視して、ただ個人のために作成されたものです。本の形をしていても、出版(パブリケーション)ですらありません。コラージュの素材は雑誌の写真などの明らかな複製物ですが、作り出されたスクラップブックは複製を拒んでいます。「a=W÷Ed」の方程式に当てはめると、分母は1。純粋な芸術性はとても高いです。

例2)限定スニーカーの場合
限定スニーカーの値上がりは、デザインやコラボする芸術家の作風ではなく、基本的にはエディションの問題です。希少価値があるという前提で、人々はこれを求め、ぼんやりとしたアート的な満足感を得ることもあります。しかし、エディションは希少価値を掲げながら、それなりに生産した日用品である靴をアート的にビジネス化したいという戦略です。決して原液ではないけれど薄まりすぎていない中途半端なカルピスのようなもの。つまり、純粋な芸術ではありません。グッズなら大量販売という目的があり、一点ものなら純粋な芸術とそれぞれの目的がありますが、エディションはその中間領域です。ある作品を元にしたエディションの上限が100だとして、エディションの複製物の価値は、それを100で割る必要があります。限定1,000なら千で割ることになり、限定10,000ならその価値は方程式上一万分の1になります。これは不確かな価値なので、市場価格が急に暴落することもあります。ポケモンカード、アナログレコードの高騰などもこれに似た現象です。エディションが観客・購入者にとって嬉しいこともありますし、作家にリターンもあるでしょう。純粋な芸術的価値を薄めつつ、多くの人が幸せを得る方法でもあります。また、前提として靴は「履いて歩ける」という目的があり、芸術だけを目的とする純粋な芸術とはやはり異なるものです。


【Chapter 4-2】a=経過した時間(Aging) x 失われた技術(Lost Technology)

漫画家の展示の定番といえば、原画展示です。長い期間、個人的には原画展は純粋なアートではないと感じてきました。マンガの読者にとっては嬉しいことですし、印刷には乗らない技術を披露する場です。ただ、マンガそれ自体は爆発的な売上を目指すものであり、その完成系は単行本という形状。そう考えると、どこまでいってもマンガの原画は入稿データにすぎず、純粋な芸樹にはなりません。現に、大昔の作家と編集部は入稿済みの手描き原稿を捨てたり、切り刻んで読者プレゼントにしていました。

大映博物館で開催された「MANGA」展は、美術館(Art Museum)の意味がそもそもアートに特化したミュージアム(博物館)であることを考えると、マンガ原画のようなものにすら収集し保存して展示する価値発生したという証明になります。それが純粋な芸術であるかどうかは、それぞれの作家や作品ごとに異なりますが、大きくみればマンガ原画には一定の文化的保存価値が認められたということになります。

漫画家の立場から考えて、その原因は、マンガを含むオタクカルチャーの世界的な浸透ではなく、デジタルツールで作成されるマンガが大半を占める現代において、紙のマンガ原画自体がロストテクノロジーになったことだと感じます。紙のマンガ原画しか存在しなかった時代においてはそれらは当たり前のもの。でも現代においては、原画が紙であるだけで希少価値が発生します。失われた技術としての価値が、デジタル環境の発展とともに純粋な芸術としての価値を強化する、というわけです。

ここには時間=エイジングが関係しています。お酒の醸造や、ビンテージジーンズの味わいと同じように、制作年から時が経つほど、作者の意図とは無関係にその価値は上がっていきます。思い出が美しいことや、シティポップ・リバイバル、レトロブーム、カセットテープなども、失われた技術への郷愁(ロストテクノロジーのノスタルジー)という意味でほぼ同じ現象です。マンガ原画も全く同様です。それ自体は何も変化していないからです。また、

このように時間の経過、ロストテクノロジー化によって純粋な芸術性が強化される場合があります。これを方程式にしてみます。

a=経過した時間(Aging) x 失われた技術(Lost Technology)
方程式4-2 a=AxL

例1)ナム・ジュン・パイクの場合
ブラウン管を活用したメディア・アート作品で知られるナム・ジュン・パイク。美術館にとってはその保存方法自体が悩みの種ですが、ロストテクノロジーであるがゆえ、純粋な芸術性は復元不能になればなるほど増していきます。

例2)チップチューンの場合
ピコピコしたゲーム音楽の総称がチップチューンですが、その名称は「音源チップから生成される音」に由来します。レトロな音色であっても、パソコン上でゲーム音源を再現するソフトウェアを使ったものは厳密には偽物、シュミレートされたチップチューンになります。ジェネリック薬品のようなものです。狭義の定義としては実在する音源チップ(実機)から生出力されているものだけが、純粋なチップチューンです。例えばサントラ『Mudai-san Adventure』は、開発ツールGBStudioによる8bitサウンドの再現なので、ロストテクノロジーではない分、純粋な芸術性は減退してしまいます。

例3)スペイン修復絵師の場合
スペインで頻発した絵画、彫刻の修復の明らかな失敗は、ネタ系のニュース、笑い話として消費されがちですが、結果的にロストテクノロジー効果が発生し、取り返しがつないことで元の作品の純粋な芸術性を強化します。
取り返しのつかなさ」
は、その場で消えてしまうパフォーマンスや、形を持たない現代アート、さらに作者の死にも関連し、総じて純粋な芸術性を高めます。


【Chapter 4-3】a=作品(Work)x休業期間(Closed)

【Chapter 4-1】【Chapter 4-2】の方程式は、つまるところ時間と量の問題です。作品数は少なければ少ないほど、純粋な芸術性は増大します。また、作家なりその作品を再現する環境なりが失われ再現不能になればなるほど、その純粋な芸術性は増大するのです。

時間と量の関係は、純愛を理想とする恋愛観にも似ています。付き合う相手が少なければ少ないほど純愛度が増しますし、相手に不幸が発生し健康を害酢など取り返しのつかないことが発生するほど、純愛度は増します。反対に「替えならいくらでもいる」というスタンスでは、純愛が成立しません。

漫画家であれ、芸術家であれ、歌手であれ、活動年数が長いこと、作品数が多い気ことはビジネスの安定であり、クライアントワークを忠実に実行し続けていることの証明。人々が憧れる安定したキャリアは、実は純粋な芸術性の逆です。「食わせてて偉い」は、こと純粋な芸術においては不名誉な言葉になります。

純粋な芸術家は、自分の意思で創作を止めることができます。映画監督長谷川和彦は、『青春の殺人者』(1976)『太陽を盗んだ男』(1979)以降映画を監督していません。しかしそれこそが、世のなかのニーズに迎合しない本人の純粋な芸術性を高めています。ヒットメーカー浦沢直樹は出版社の求めるまま次から次へ連載を立ち上げ描き続けますが、井上雄彦は必然性を見つけられない限り未完であってもマンガを執筆しません。

創作者の魅力は、続けるバイタリティと思われがちですが、純粋な芸術家はそれを止めることができ、その行為が作品を強化します。道半ばで他界した創作者、解散して復活しないバンド、もこれに似ています。

【方程式4-3】a=作品(Work)x休業期間(Closed)
a=WxC

例1)井上雄彦の場合
『バカボンド』の続編を望まれつつ、沈黙。長い時間をかけてアニメーション映画『THE FIRST SLUM DANK』を制作した井上雄彦は、必ずしも出版社産業の忠実な漫画家ではありません。バスケットボールに対する敬意は作品から強く伝わり、未来のプレイヤーを育てるための奨学金制度を設立、どう考えても彼が忠誠を誓うのはマンガ産業ではなく、バスケットボールというスポーツです。『THE FIRST SLUM DANK』の臨場感、いるかのようになるシューズの音の気持ち良さから察するに、バスケットボールに対して嘘はありません。

出版社のニーズ、読者のニーズに、一定期間背を向け、見えない場所で自らの創作に励むこと、これは純粋な芸術家の証明になります。浦沢直樹、三田紀房らは売り上げの多い優れた流行作家ですが、彼らが量を描けば描くほど、井上雄彦のような純粋な芸術家とは乖離していきます。井上雄彦に類似する例としては、冨樫義博、永野護らがいます。

例2)フェルメールの場合
現存するフェルメールの作品は30点と少し。多作で知られるピカソは総点数15万点です。

例3)スター・ウォーズの場合
ディズニーに権利が譲渡される以前、ルーカス・フィルムだけがそれを制作できた時代に、スター・ウォーズは非常に寡作であり特別な作品でした。ディズニー・プラスでの配信を前提とすると、新作をリリースし続けることが配信プラットフォームを維持することになるため、多作・量産・供給方が避けられません。「昔は良かった」といよりも、「それを止められない」という意味で、スター・ウォーズはそれぞれの作品の魅力はさておき、加速的に純粋な芸術から遠ざかっています。

例4)ほとんど休業している飲食店の場合
24時間営業どころか、1日にわずかな時間しかオープンしていたい飲食店は、ムードとして純粋な芸術性をまといがちです。ビジネスやお客に主導権はなく、お店側に「店を開けない」という意思決定権があります。要予約、会員限定、数ヶ月待ちなども同様です。飲食店は「腹を満たす」という意味で純粋な芸術ではないのですが、不便さが魅力を生んでいます。

その逆にあるのは、24時間営業の牛丼チェーン店やコンビジエンスストアです。幅広い人々を助けてくれ、世の中の役に立つものです。便利です。


【Chapter5-1】a=先行の優位性(Inovation)÷観測時間(Time)?


先手必勝という言葉があります。何事も先に動いたほうが勝ち筋がある、という意味です。先行の優位性、イノベーションの強み、これは純粋な芸術に関しても当てはまります。

具象絵画に対する抽象絵画など、芸術は常に発明的なアイデアによって更新されてきました。NFTアートを新しく感じるのは、それ以前の歴史の中に「NFT」が存在しないからです。そこに描かれている図像の芸術性よりも、それ自体がNFTアートであることが優先されるのはそのためです。マンガにおいてはWEBTOONの優位性を語るケースに似ています。先手必勝、その新しさだけに価値を見出す場合、表現の良し悪しは横に置かれ「ただNFTアートであること」「ただWEBTOONであること」だけが求められます。

印象派、抽象派、ポップアート、メディアアートなども同様です。サブスクリプション音楽配信、Netflixによる視聴体験、iPhone最新機種なども同様です。まあまあな出来のドラマも、それがNetflix独占配信であるという理由だけで評価が上がってしまうのは、先行の優位性に起因します。

「鉄は熱いうちに打て」という言葉もありますが、熱いうち=観測時間を短期で考えれば先行の優位性はとても大きく作用します。タピオカブームの時に飲むタピオカが一番美味しい、というような感覚です。タピオカブームを10年スパンで考えれば、行列するほどの価値は持ち得ません。子供の頃に見た映画や音楽やゲームが忘れがたく、最近のそれはピンとこないという現象も、単に老化や感性の鈍りというよりも観測者の観測期間が長くなったことに起因します。方程式にしてみましょう。

【方程式5-1】a=先行の優位性(Inovation)÷観測時間(Time)
a=I÷T

例1)ジョード・カリム『Me at the Zoo』の場合
Youtubeで最初に投下された動物園の映像が、創業者のジョード・カリムが動物園から投稿した『Me at the Zoo』。世に溢れかえるYoutube動画の最初の一本です。先行の優位性が著しく高いので、観測時間が長くなっても圧倒的な純粋な芸術性を保ちます。

後発のYoutuberがそれ以上の再生数やバズを叩き出したとしても、『Me at the Zoo』の先行の優位性にはたどり着けません。跡追い、フォロワーが純粋な芸術性を減退させる問題は次章に続きます。

例2)スタートアップ系企業の場合
多くのスタートアップ系企業は、先行の優位性を求めます。それは出資者に対する説得材料になりますし、若いスタッフには輝いて見えるはずです。起業や開発は芸術に似ている部分があります。しかし、その目的が利益や資産価値(ビジネス)である限り、冷静に見れば純粋な芸術とは別物です。

例3)サトシナカモトが購入した二枚のピザの場合
ブロックチェーン技術の提唱者サトシナカモトが、世界で初めてビットコインで購入したものが「二枚のピザ」です。ビットコインという新しい技術が初めて使われたこと、それが凡庸なピザの出前であったこと、この先行する優位性はとても強力です。

謎の人物サトシナカモトは、常に強力な先行の優勢を持った存在です。

イーロン・マスクや前澤友作が宇宙を目指すのは、誰も到達したことのない世界に挑むことで、先行する優位性を確立したいからです。起業家は、まずお金を稼いでから芸術を求めるため、実はアートに対して先行の優勢は芸術家の想像力と比べてやや遅く発生します。

【Chapter5-2】a=先行の優位性(Inovator)−追従(Follower)?


フォロワー(追従者)が多いことは、ブームの発生とその成熟を意味します。高級食パン、タピオカ、唐揚げ専門店の、急進的な盛り上がりとその後の収束をイメージするとわかりやすいでしょう。パン、タピオカを「ドローン」「プロジェクション・マッピング」「フラッシュ・モブ」などに置き換えても同じことです。

(↑プロジェクトマッピング、ドローンなどのブームを揶揄する盆踊りソング、デモ)

ブームの起爆剤となる作品には強い優位性があります。抽象絵画を牽引したジャクソン・ポロックのドリッピング・ペインティング技法は発明的であり、それを真似てしてもオリジナリティ以上の評価は得にくいものです(パロディに関しては別の章で)。J・ディラのもたつくサウンドも同様で、時を経てもなお多くのフォロワーを生んでいます。

フォロワーが多く増えることは、先行者の優勢を保ちますが、革新的な表現の追従者がふえば増えるほどそれは飽きられ、ブームは収束します。結果全てのフォロワー(後追い)はふるい落とされ、純粋な芸術として残るのはごく一部、ごく初期のオリジネーターだけになります。先行の優位性だけを第一とするフォロワー創作者、および鑑賞者は次のブームを探します。

純粋な芸術が壊れる瞬間は、追従者や参入者の数が許容量を超えた時に発生するものと思われます。方程式を考えてみましょう。

【方程式5-2】a=先行の優位性(Inovator)-追従者の数(Follower)
a=I-F

例1)貢茶(ゴンチャ)の場合
原宿にあった「東京タピオカランド」は消えて無くなりましたが、信頼されるチェーン店「貢茶」は健在です。

例2)NFTアートの場合

NFTアートこそ、先行する優位性のバトルの場でしょう。NFTアートが新しい概念だったごく短い期間は、その価値と魅力は保障されていましたが、「それを使えば儲かる」というビジネスの目的が可視化されて以降、その純粋な芸術性は減退し続けています。目的が「純粋な芸術」から遠ざけられたことと、ビジネスに吸い寄せられるフォロワーが多すぎることがその理由です。しかし、NFTアートのオリジネーターの純粋な芸術の価値は目減りしないはずです。

例3)リチャード・ハミルトン「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」の場合
ポップアートの芸術家として有名なのは、アンディ・ウォーホール、ジャスパー・ジョーンズ、キース・ヘリングら。しかしその元祖、最初の作品としてハミルトン『一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか』は必ず参照されます。先行している分、常に純粋な芸術として優位です。

例4)2024-IIIの場合
現在準備中の展示の正式なタイトルは「ハイライト+ リレーションズ 2024-III  ゲストアーティスト:西島大介」です。コレクションと並行して現代の作家の個展を行い、過去と未来、収蔵作品と新作(新人)とをリレーション(継承)を実行する試みです。「2024-III」とあるように、2024年のゲストとしては3人目。この企画は2023年から存在するので、実は6人目。つまり西島はフォロワー(追従者)であり、先行の優位性はゼロ薄いです。とはいえ、またとないありがたい機会、頑張ります。


【Chapter 6-1】a=質量(Mass)

芸術において、方程式として当たり前のように存在するのが、大きさです。先行の優位性や、その逆の熟成が「時間」であるならば、大きさは「質量」となります。現代美術であっても、古典的な絵画であっても大きいものは価格が高く、小さいものほど価値は低くなります。

あまりにもシンプルすぎて方程式と考えることすら忘れてしまいますが、大きさ=価値は、純粋な芸術の価格付けにおいて普遍的な基準です。インストラクション・アートやサウンド・アートなど、形のない芸術に関しては、それぞれに検証が必要ですが、絵画や彫刻など物質的かつ古典的な芸術表現において普遍の法則です。

【方程式6-1】a=質量(Mass)
a=M

土地に坪単価があるように、1号、2号、10号と定型サイズのある絵画の場合作家ごとに「号単価」というものもあるそうです。作品の売買によって暮らす創作者の場合、最も重要なビジネスの条件になります。

質量は、現実世界におけるすべてに関与します。例えば、今回の「ハイライト+リレーションズ」展において『秋葉原ネオグラフィティ スーパーディアガール』(2011)の移送を断念したのは、横2.5、縦2メートルとなるシャッターの運搬費用が予算を超えてしまうことが大きな理由です(展示は1/1サイズの写真展示で調整中)。それよりも大きい作品は2016年ヴァンジ彫刻庭園美術館「生きとし生けるもの」展に参加した際、滞在制作で600号の絵画「生きとし生けるもの」を制作しました。広大な美術館というロケーションから大きな作品を制作したわけですが、本作は自宅へ持ち帰ることも、販売することも想定しておらず、展示終了後美術館に寄贈されました。

大きい作品は、簡単に考えれば大きいということだけで価値を生むようです。しかし、根拠や必然性なく作品を大きくすることは、即ビジネスに繋がります。世界中で芸術作品が売買されるのは、それが資産の増大を生み、大企業や資産家にとってはリターンが期待できる投資になるからです。

何にせよ作品の質量の増大の目的が「ビジネス」になってしまうと、それは純粋な芸術からは遠のきます。芸術の目的はただ芸術であること、それだけでいいからです。利益を目的に大きな作品を作ること、利益のためだけに作品を大きくすることは、目先のビジネスとしては活況に見えても、その反面純粋な芸術性を減退させる弱点があります。大きさ、質量はもろ刃の剣です。

例1)完売画家の場合
完売画家を自称する洋画家・中島健太は、自作の価値を「号単価」としてオープンにしています。一見、売り上げだけが目的にも感じされそうですが、自らが「法」となる、ルールの設計者となることで、いち洋画家としてはくくれない別の価値「先鋭性」「率直さ」が発生しているように思えます。「そんなこと言わなきゃいいのに」と、同業者には顰蹙を買うかもしれませんが、それを言う行為自体が先鋭性であり、純粋な芸術性と解釈することもできそうです。

例2)「生きとし生けるもの」の場合
西島が2016年に滞在制作した絵画「生きとし生けるもの」は200号サイズのパネル3枚を使った巨大な絵画です。「2,590×1,940」の3倍なので、高さ約2.6メートル、横幅6メートル近い大きさです。売買を目的とせず美術館で制作したのち持ち帰ることもできなくなり、結果寄贈という形をとったため、方程式によれば純粋な芸術性は高いと考えられます。


【Chapter 6-2】a=アトリエの広さ(Extent)


西島の基本的な活動は漫画家です。例えばマンションの一室、勉強部屋の机、カフェの一角、四畳半アパート。1950年代の昔、誰もが四畳半で制作をしていたトキワ荘の時代から現代においても変わらず、マンガという複製を前提とした表現は、小さなスペースで制作されます。巨大なアトリエは不要で、江戸の伝統職人の工房程度の広さがあれば十分。デジタル化とリモート化によりそれは加速し、アシスタントを抱える作家も広いスペースを必要としなくなりました。西島の場合はB5サイズの小さなツバメノート(ネーム、構想)と、同様にB5ほどのサイズのiPad(ペン入れ、実作)だけでマンガを制作しています。

(昭和から令和、紙から電子書籍までのマンガ史を描いたタイムトラベルRPG「フンくんさんぽ。マンガのまちのだいぼうけん」より)

一方、彫刻や絵画を描く芸術家は基本的にアトリエを必要としています。それを展示するギャラリーや美術館となれば、さらに大きなスペースが必要です。スマートフォンでマンガのコマを拡大するように、美術館の小さな一角を拡大する観客はいません。巨大な空間には巨大な作品が収まり、多くの人が、時に接近し、時に遠巻きにそれを眺めます。

制作アトリエの広さ(Extent)は、作品の質量(Mass)の下支えとなります。制作現場が広ければ広いほど、作品は巨大化し、結果価値を生む。人員(スタッフの数)や絵の具などの画材の量も、作品の質量の下支え、前提になります。

スタッフが多いほど、クライアントワークであるほど、世の役にたつほど、ビジネス目的であればあるほど、純粋な芸術性は減退するというのが本稿の主題ですが、しかし作品の質量や制作現場の広さ、人員の多さによる「価値」の担保はその理論の分かりやすい反証といえるでしょう。

例1)北村西望の場合
100歳を超えても制作を続けた彫刻家・北村西望は、「長崎平和祈念像」他、巨大な彫刻を制作するために私財を叩いて東京都井之頭にアトリエを建設。公費で制作費を賄えない場合は、募金や私財を投入。政府要人からのクライアントワークも多いですが、純粋な芸術性は借金の分だけ、そして制作体制や予算が巨大な分だけ、高まります。

例2)MOMA所蔵ゲーム作品の収蔵の場合
MOMAに収蔵されたゲーム作品群、データのみの収蔵であるならば場所を取りません。驚くほど軽いはずです。方程式に習うなら、純粋な芸術度は減退するはず? いやそんなことはないでしょう。別の検証が必要です。

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